EP 7
真の美しさは清潔から。無自覚ナイチンゲールの評判
公爵邸の庭園に設えられたテラスで、私は心地よい午後の風に吹かれながら、マシロの銀色の髪をブラッシングしていた。
「んふふ〜、コハルに髪梳かしてもらうの、めっちゃ気持ちええわぁ……」
「マシロの髪は細くて柔らかいから、丁寧に梳かさないと絡まっちゃうのよ」
日向ぼっこをする猫のように目を細めるマシロ。
前世の休日といえば、溜まりに溜まった疲労のせいでベッドから一歩も動けず、自分の髪をとかす気力すらないまま夕方を迎えるのが常だった。
それが今では、麗らかな陽射しの下で、大好きな親友とゆったりとした時間を過ごせている。誰の目も気にせず、ただ穏やかに流れる時間。これこそが、私が求めていた『絶対有給休暇』の形だった。
「コハル様。お客様がお見えです」
不意に、控えの執事が恭しく頭を下げて声をかけてきた。
「お客様? 私にですか?」
「はい。リリア・ノイマン男爵令嬢と、ご友人の令嬢お二方が、どうしてもコハル様にお目にかかりたいと」
リリア令嬢。数日前、エレノアのお茶会で肌荒れを嘲笑され、泣いていたところを私がパウダールームでスキンケアした女の子だ。
私はブラッシングの手を止め、「お通しして」と執事に頼んだ。
数分後、テラスに現れた三人の令嬢たちを見て、私は少しだけ目を丸くした。
先頭を歩くリリアは、以前のようにおどおどと縮こまった様子はなく、背筋をピンと伸ばして晴れやかな笑顔を浮かべていた。
そしてその後ろに続く二人は……お茶会で、エレノアと一緒に私を「泥人形」と嘲笑っていた取り巻きの令嬢たちだったのだ。彼女たちは顔面を蒼白にさせ、ガタガタと震えている。
「コ、コハル様……! 突然の訪問、大変申し訳ありません!」
「どうか、どうかお許しください! わたくしたち、エレノア様に逆らえなくて……!」
取り巻きの二人は、私の顔を見るなり、テラスの床に崩れ落ちるようにして深く頭を下げた。
どうやら、レオン公爵の絶対的な庇護下にある私から、国家権力レベルの報復を受けると思い込んでいるらしい。
「頭を上げてください。私は何も怒っていませんから。……それより、リリア様」
私が微笑みかけると、リリアはパァッと顔を輝かせ、私の手を取った。
「コハル様! 見てください、わたくしの肌を!」
彼女が顔を上げると、そこには驚くべき変化があった。
数日前まで頬を覆っていた赤く痛々しい炎症や吹き出物は、綺麗に鎮静化している。分厚い白粉で隠すのをやめ、私が渡した『低刺激スキンケア』で正しく保湿された肌は、内側から発光するような透明感と、本来のきめ細やかさを取り戻していたのだ。
何より、彼女の表情が以前とは別人のように明るく、自信に満ち溢れている。
「すごいわ、リリア様。すっかり綺麗になったわね」
「はいっ! コハル様が教えてくださった通り、パフを毎日洗い、優しい泡で汚れを落として、たっぷりお水を飲ませてあげました。そうしたら、お化粧をしなくても、こんなに痛みがなくなって……!」
リリアは感動のあまり、ポロポロと嬉し涙をこぼした。
「コハル様は、本物の奇跡の聖女様です! わたくし、もう二度とあのような不衛生な白粉は使いません!」
「聖女だなんて大げさよ。肌を清潔に保つのは、美容の――いえ、健康の基本だもの」
私が優しく彼女の涙をハンカチで拭ってやると、震えていた取り巻きの二人が、すがりつくような目で私を見上げた。
「あ、あの! わたくしたち、リリアの肌がたった数日で劇的に美しくなったのを見て、本当に驚いたのです! エレノア様の魔法の白粉よりも、ずっと自然で、透き通っていて……」
「お茶会では、あのような暴言を吐いてしまい、本当に申し訳ありませんでした! わたくしたちが愚かでした! どうか、わたくしたちにもその『清潔の教え』を授けていただけないでしょうか……!」
彼女たちは、完全にエレノアの洗脳から解け、私の『現代スキンケア』の虜になっていた。
限界ナースとしての私の頭の中で、前世の記憶がフラッシュバックする。
『手洗いの徹底と、アルコール消毒の頻度を上げるべきです。データでも感染率が下がっています』
私が会議でそう提案した時、古株の医師や師長は「生意気な口を叩くな」「今まで通りで問題ない」と私の意見を鼻で笑って握り潰した。私がどれだけ正しい知識を持っていようと、誰も耳を傾けてくれなかった。
でも、今は違う。
私が『正しいこと』を教えれば、目の前の少女たちがこんなにも美しく変わり、心からの感謝と尊敬の念を向けてくれる。
私の知識が、正当に評価され、誰かの人生を明るく照らしているのだ。
「……いいわよ。難しく考える必要はないの。お化粧の道具は常に清潔に保つこと。そして、お肌に刺激を与えずに保湿すること。ただそれだけよ」
私が穏やかな声でスキンケアの基本(手洗い、パフの洗浄、保湿の重要性)を説明し始めると、令嬢たちは持参した手帳を取り出し、食い入るようにメモを取り始めた。
「な、なるほど……! 目に見えないバイ菌が、肌を攻撃しているのですね!」
「あんなに汚いパフを使っていたなんて、今考えると恐ろしいですわ……!」
彼女たちの話によると、エレノアは現在、自室に引きこもっているらしい。
『海外の希少な魔法薬草』と信じて疑わない有毒な白粉を、赤く爛れた肌に何重にも塗りたくり、顔が恐ろしい紫色に腫れ上がっているそうだ。心配して声をかけた侍女たちにもヒステリックに当たり散らし、誰も近寄れない状態なのだという。
「エレノア様は『今度の皇城の夜会で、必ずコハルを見下してやる』と仰っていましたが……あのお顔では、とても……」
私は小さく息を吐いた。
エレノアは自ら猛毒を選び、私の忠告を鼻で笑った。彼女の破滅は、もう誰にも止められない。
他者を蹴落とそうとする執念が、彼女自身の顔面を細胞レベルで破壊しているのだ。
『ピロリン♪』
エプロンのポケットで、スマホが軽快な音を立てた。
【システム通知】
善行ポイント:2000 pt を獲得しました!
(※社交界における衛生概念の普及、および乙女たちの精神的救済による特大ボーナス)
現在保有ポイント:9310 pt
『賢者君(無料版)』より一言:
……素晴らしい評価ですね。あなたの知識が、帝国の美容史を数百年進めました。
「コハルー! ワテにもその『清潔の教え』とやら、教えてや! 洗えばお菓子もっと食えるんか!?」
横で聞いていたマシロが、よく分かっていない様子でバンザイをする。
「マシロはとりあえず、ご飯の前に手を洗うことからね」
私が笑いながらマシロの鼻先を突っつくと、テラスは温かい笑い声に包まれた。
「――実に素晴らしい光景だな」
不意に、テラスの入り口から低く落ち着いた声が響いた。
漆黒の軍服に身を包んだレオン公爵が、満足げな笑みを浮かべて歩み寄ってくる。
「ひぃっ……! 公爵閣下……!」
「お、お邪魔いたしました……!」
令嬢たちは、冷徹な『氷の公爵』の登場に震え上がり、慌ててカーテシーをした。
しかしレオン様の瞳は、私にだけ、どこまでも甘く熱い光を向けていた。
「私の至宝の価値が、ようやくこの有象無象の社交界にも理解され始めたようだな。……コハル、君の素晴らしい功績だ」
「レオン様。お仕事、終わったんですか?」
「ああ。内務省への根回しも順調だ」
レオン様は私の隣に立つと、令嬢たちの前であるにもかかわらず、極めて自然な動作で私の肩を抱き寄せた。
「明日の皇城の大夜会。そこは、君という存在がいかに尊く、価値のあるものかを帝国全土に示すための完璧な舞台となる。……君を害そうとした愚か者が、いかに惨めな末路を辿るかも含めてな」
冷徹な論理と、私への致死量の溺愛が入り混じったレオン様の声に、令嬢たちは恐れおののきながらも、私に向かって羨望の眼差しを向けた。
私を見下した者は勝手に自滅し、私を信じた者だけが美しくなり、味方になっていく。
魔法を持たない私の『無自覚ナイチンゲール』の評判は、私が気づかない間に、帝国の社交界を完全に塗り替えようとしていた。
明日の大夜会。
それは、傲慢な令嬢の完全な自滅(合法ざまぁ)と、公爵様との甘い距離がさらに縮まる、カタルシスの頂点になろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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