EP 6
猛毒の白粉。マウント令嬢の危うい一着
公爵邸での日々は、前世の限界ブラック病棟の記憶を遠くへ押し流してしまうほど、甘く、そして穏やかに過ぎていった。
「コハル、これ見てみぃ! この『グミ』っちゅうお菓子、弾力がすげえ! 噛めば噛むほど果汁がジュワッと出てくるで!」
「ふふっ、食べすぎると顎が痛くなるから気をつけてね、マシロ」
午後の陽射しが降り注ぐサンルーム。
ポイントで購入した現代の『果汁100%グミ(ブドウ味)』をモキュモキュと咀嚼するマシロを眺めながら、私は淹れたてのダージリンティーをゆっくりと楽しんでいた。
ナースコールに怯えることもなく、誰かに手柄を奪われることもない。ただ純粋に自分の時間を楽しむことができる、完璧な『絶対有給休暇』だ。
「コハル、ここにおられたか」
静かな足音と共に、執務の合間を縫ってレオン様がサンルームに姿を現した。
彼の背後には、数人の侍女たちが恭しく大きな衣装箱を抱えて控えている。
「レオン様、お疲れ様です。それは……?」
「週末に皇城で開かれる『大夜会』のための、君のドレスだ」
レオン様が合図をすると、侍女たちが衣装箱を開いた。
中から現れたのは、夜空の星をそのまま織り込んだような、深いミッドナイトブルーの豪奢なドレスだった。見る角度によって微かに色を変えるその生地は、素人目に見ても途方もない価値があることがわかる。
「美しい……」
「帝国の至宝である君を包むのだ、これでもまだ足りないくらいだがね」
レオン様は私の隣に座り、極めて真面目な顔で私の髪をそっと撫でた。
「本音を言えば、君の美しい姿を他の有象無象の貴族どもに見せびらかしたくはない。だが、君は『私の隣に堂々と立ちたい』と言ってくれた。……ゆえに、この夜会で、君が我が公爵家の絶対的な庇護下にあり、誰も手出しできない存在であることを、帝国中に知らしめる」
その言葉の裏にある、不器用だけれど強烈な独占欲と愛情。
私は頬が熱くなるのを感じながら、「ありがとうございます。レオン様の隣に恥じないよう、精一杯背筋を伸ばして歩きますね」と微笑んだ。
「うむ。君の心拍数が心地よいリズムを刻んでいるな。私も自律神経が安定する」
大真面目な顔で甘い言葉を吐く天才公爵と、グミを頬張るウサギ耳の親友。
私の周りは、今日も平和で満たされていた。
――だが、その平和な公爵邸から遠く離れた、ヴァン伯爵家の一室では。
「痛い……痛い痛い痛いッ!! 痒いぃぃぃっ!!」
豪華な調度品で飾られた令嬢の私室に、エレノアの金切り声が響き渡っていた。
「お、お嬢様! 掻いてはいけません、お顔に傷がついてしまいます!」
「黙りなさい! あなたたちが無能だから、わたくしの肌がこんなことになっているのよ!」
エレノアは、止めに入ったメイドを力任せに突き飛ばし、鏡の前で自らの顔を掻き毟った。
彼女の顔は、数日前のお茶会とはまるで別人のように変わり果てていた。
頬から額にかけて、皮膚は赤黒く腫れ上がり、ところどころに黄色い膿を持った水ぶくれができている。強烈な痒みと、火で炙られているような熱感。
それは明らかな『重度の接触性皮膚炎』と『細菌感染』の併発だった。
「どうして……どうして魔法が効かないのよぉっ!」
彼女は自らの顔に回復魔法をかけようとするが、魔力を流し込むたびに、毛穴の奥に詰まった『何か』が拒絶反応を起こし、激痛が走る。
無理もない。
彼女が『海外の希少な魔法薬草』だと信じて顔に塗りたくっていた白粉は、実際には『鉛』や『水銀』といった重金属をベースに、毒性のある植物の粉末を混ぜ合わせただけの、粗悪な猛毒コスメだったのだ。
海外の闇商人が、貴族の虚栄心につけ込んで高値で売りつけた詐欺商品である。
「エレノア様、どうか一度、清潔な水でお顔を洗ってくださいませ……!」
「水で洗うですって!? 貴族の肌を、平民のように水で洗えと言うの!? 冗談じゃないわ!」
メイドの必死の懇願も、魔法至上主義と特権階級のプライドに凝り固まったエレノアには届かない。
彼女は、前世の限界ナースが見れば即座に悲鳴を上げるであろう『洗わずに何ヶ月も使い回した、皮脂と雑菌まみれのパフ』を手に取った。
「わたくしは、今度の皇城の大夜会で、絶対にあの泥人形のコハルを見下さなければならないのよ! レオン公爵様の隣に立つのは、この帝国で一番美しいわたくしでなければならないの!」
狂気に憑かれたような目で、エレノアは猛毒の白粉をパフにたっぷりと含ませた。
「この薬草をもっと分厚く塗れば……赤みも隠せるし、きっと治るはずよ。もっと、もっと白くならなきゃ……!」
バフッ、バフッ。
黄色いブドウ球菌が繁殖したパフで、水ぶくれが破れた傷口に、直接重金属の粉を叩き込んでいく。
もはやそれは化粧ではなく、自らの顔面に対する拷問だった。
「ああっ……痛い……でも、綺麗に隠れたわ……ふふふっ、これで完璧よ……」
鉛の白さで無理やり赤みを覆い隠し、エレノアは鏡の前で歪んだ笑声を上げた。
皮膚の下で、細胞が完全に壊死し始めていることにも気づかずに。
彼女がコハルを見下そうとすればするほど、彼女自身が自らの無知と傲慢さによって、破滅の泥沼へとずぶずぶと沈んでいくのだった。
「へえ。ヴァン伯爵家の令嬢が、闇商人から大量の『魔法の白粉』を買い占めている、ですか」
公爵邸のサロン。
レオン様のもとに報告に訪れた隠密の言葉を耳にして、私は小さく呟いた。
「ああ。そのせいで、彼女の顔面が酷く爛れているという噂が、社交界の耳ざとい者たちの間で広まりつつある」
レオン様が紅茶のカップを置き、冷たい声で言った。
「自らの虚栄心のために怪しげな粉を塗りたくり、自滅していくとはな。極めて非論理的で滑稽な末路だ」
私は心の中で、彼女の症状を冷静に診断した。
重金属中毒による皮膚の壊死と、不衛生なパフによる重度の黄色ブドウ球菌感染。異世界の回復魔法は、細胞の活性化はできても、毛穴の奥に物理的に残留している『重金属(毒)』を取り除くことはできない。
このまま放置すれば、顔面の皮膚が崩壊するだけでなく、毒素が血流に乗って全身に回り、最悪の場合は敗血症で命に関わるだろう。
「……」
前世の私なら、例え嫌味を言われた相手であっても、「助けなければ」と無理をしてでも駆けつけていたかもしれない。
自己犠牲を強要され、『医療従事者なら当然だ』と搾取されることに慣れきっていたから。
でも、今の私は違う。
『あなたのような無能に、このような奇跡が起こせまして?』
『魔法も使えない、肌も地味なあなたなど、どうせすぐに公爵様に飽きられて捨てられるに決まっていますわ』
お茶会での彼女の言葉が蘇る。
彼女は、魔法を持たない者を心の底から見下し、忠告(パフを洗うべきだという言葉)を鼻で笑って拒絶した。自らが選んだ『猛毒』を、自らの意思で顔に塗り込んでいるのだ。
「……自業自得ですね」
私は、完全に他人事として割り切り、手元の紅茶を口に運んだ。
私の業務時間外を割いてまで、忠告を聞かない理不尽なモンスターペイシェントを助ける義務はない。
それに、私の隣には今、私を何があっても守り抜くと誓ってくれたレオン様がいる。マシロもいる。
私の持つ知識は、私を大切にしてくれる人たちと、純粋に助けを求めている人たちのために使うのだ。
「コハル。君の美しい顔に、あの女の愚かな情報をこれ以上インプットする必要はない。忘れなさい」
レオン様が私の手を取り、親指で優しく撫でてくれる。
「はい、レオン様。……週末の大夜会、楽しみにしていますね」
私はエレノアの顔に『黒(対応不可)』のトリアージ・タッグを精神的にペタリと貼り付け、完全に彼女への興味をシャットアウトした。
週末の皇城の大夜会。
そこは、私にとってはレオン様の隣で誇り高く微笑むための晴れ舞台であり――同時に、私を見下した傲慢な令嬢が、自らが塗りたくった『猛毒のコスメ』によって、公衆の面前で完全に崩れ落ちる(合法ざまぁ)ための、決定的なカタルシスの舞台となろうとしていた。
読んでいただきありがとうございます。
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