EP 5
夜の庭の秘密ピクニックと、親友のクッキー缶
公爵邸の夜は、水を打ったように静かだった。
広々とした国賓級の客室で、私は肌触りの良いネグリジェに着替え、鏡の前に座って大きく息を吐き出した。
「はぁ……」
鏡に映る自分の顔を見る。
今日一日で、本当に色々なことがありすぎた。
エレノア様のお茶会での、むせ返るような香水と陰湿なマウント合戦。リリア令嬢の涙とスキンケア。
そして何より――帰宅した直後にエントランスで受けた、レオン様からの熱烈すぎるおでこへのキス。
「っ……!!」
思い出しただけで、顔から火が出そうになる。
私は慌てて両手で頬を覆い、フルフルと首を横に振った。
天才公爵様の過保護と溺愛は、私の心臓にダイレクトにダメージ(ときめき)を与えてくる。
あの額へのキスの後、私はパニックになって自室に逃げ帰ってしまったのだけれど、唇が触れた場所は今でも火傷したように熱を持っている気がした。
(レオン様に守ってもらえるのは、本当に嬉しい。でも……やっぱり、お茶会の空気には少し疲れちゃったな)
ふと、前世の記憶が蘇る。
限界ブラック病棟で、理不尽なカンファレンスの標的にされ、お局師長や医師たちから集中砲火を浴びた日。
深夜のロッカールームで一人着替えながら、悔しさと情けなさで声を殺して泣いた。誰も慰めてくれない。相談できる同期もいない。ただ疲れ果てた身体を引きずって、真っ暗なアパートに帰り、冷たいベッドに倒れ込むだけの孤独な夜。
それに比べれば、今の疲れなんて幸せな方だ。わかってはいるのだけれど、精神的な疲労は確実に少しだけ私のバイタルを重くしていた。
トントン、と。
窓ガラスを叩く小さな音がした。
「えっ?」
ここは公爵邸の二階だ。バルコニーに出ると、そこには見慣れた銀色のウサギ耳を揺らした少女――マシロが、手すりにひょいっと器用に飛び乗っていた。
「よっ。起きてるか、コハル」
「マ、マシロ!? どうしてバルコニーから!?」
「廊下には護衛の騎士がおるからな。正面から行ったら『コハル様は就寝されました!』って追い返されるやろ」
マシロは音もなく部屋の中に着地すると、私の顔をじっと覗き込んだ。
「やっぱりな。お前、なんやかんや言うて、昼間の嫌味女のせいで気ぃ張って疲れとるやろ」
「……わかる?」
「親友舐めんな。ウサギの耳は伊達やないで。お前の足音がいつもよりちょっとだけ重かったんや」
マシロはニシシと笑い、私の手を取った。
「夜風に当たって、スカッとしようや! レオンの奴は仕事部屋でまだ書類と睨めっこしとるから、今がチャンスやで。秘密の夜中ピクニックや!」
「秘密のピクニック……!」
なんて魅惑的な響きだろう。
私は弾かれたように頷き、急いでカーディガンを羽織ると、マシロに手を引かれてバルコニーからこっそりと抜け出した。
月明かりに照らされた、公爵邸の広大な庭園。
夜露に濡れた芝生の匂いと、夜に花開く甘い香草の匂いが、肺の奥まで澄み渡っていく。昼間のお茶会で嗅いだ、あの重苦しい香水の匂いが、綺麗な夜風に洗われていくのがわかった。
私たちは、庭園の隅にある小さなガゼボ(あずまや)のベンチに腰を下ろした。
「さて! ピクニックっちゅうからには、美味いもんが必要やな! コハル、なんか出せるか?」
「ふふっ、任せて。今日はポイントもたくさんあるし、とびきり可愛いのにするわね」
私はエプロンのポケットからスマホを取り出し、【通販】アプリを開いた。
昼間、リリア令嬢を助けたことで入った『乙女の尊厳救済ボーナス』のおかげで、ポイントは潤沢だ。私は『食品・お菓子』カテゴリの中から、前世でずっと憧れていたけれど、自分へのご褒美にするには高くて手が出せなかった商品を選んだ。
シュンッ。
テーブルの上に現れたのは、まるで宝石箱のような、美しい意匠が施された四角い缶だった。
「おおっ!? なんやこのピカピカの箱!」
「『クッキー缶』よ。開けるわね」
パカッ、と蓋を開ける。
その瞬間、濃厚なバターとバニラの甘い香りがふわっと広がり、マシロが「うおおおおっ!」と歓声を上げた。
缶の中には、隙間なくぎっしりと、色々な形や味のクッキーが詰め込まれている。
プレーンな絞り出しクッキー、ジャムが乗った宝石のようなクッキー、市松模様のアイスボックスクッキー、チョコレートがコーティングされたもの。
まるで、小さなお菓子の遊園地だ。
「すげえ! なんやこれ、どれから食えばええかわからんくらいキラキラしとる!」
「好きなのから食べていいわよ。私も、いただきまーす」
私は、真ん中にフランボワーズのジャムが乗ったクッキーをつまみ、口に入れた。
「……んんっ」
サクッ、ほろり。
上質なバターの風味が口いっぱいに広がり、ジャムの甘酸っぱさが絶妙なアクセントになる。
限界ナースの疲れた身体に、糖分とバターの暴力的な癒やしが染み渡っていく。
「んまーーーいっ!! コハル、これヤバいで! サクサクしてて、口の中で溶ける! この黒いのも美味い!」
マシロは両手にクッキーを持ち、リスのように頬張って幸せそうに目を細めた。
美味しいね、サクサクだね、と笑い合いながら、夜のお茶会が始まる。
マシロがふと、クッキーを齧りながら赤い瞳を私に向けた。
「で、昼間の嫌味女、どんな奴やったん?」
「んー……『魔法も使えない泥人形』って言われたわ。それに、海外の魔法薬草が入ったっていう白粉を自慢されたの」
「泥人形やと!? あのアマ……っ! 許さん!」
マシロは立ち上がり、空に向かってシャドーボクシングのように拳を振り回した。
「コハルのどこが泥人形やねん! こないだレオンの奴が見繕ったドレス着た時なんか、女神みたいに綺麗やったやないか! 次あいつがコハルに嫌味言うたら、ワテがマッハのケリで、あいつの顔面お月様まで吹っ飛ばしたるわ!」
ウサギ耳を逆立てて、私のために本気で怒ってくれるマシロ。
その姿がおかしくて、そして何より嬉しくて、私はたまらずクスクスと笑い出した。
「ふふっ、あははっ! ありがとう、マシロ。でも蹴り飛ばさなくても大丈夫よ。あの人のお化粧、重金属入りのすっごく不衛生な毒物だったから。放っておいても、勝手にお肌がボロボロになって自滅するわ」
「なんやそれ! 自業自得やんけ! アホな女やなぁ」
マシロは呆れたようにベンチに座り直し、新しいクッキーに手を伸ばした。
「まぁ、コハルが笑ってるならそれでええわ。お前は笑ってる顔が一番やで」
「うん。マシロと一緒にこうして美味しいものを食べてたら、嫌なこと全部忘れちゃった」
夜風に吹かれながら、親友と分け合う宝石のようなクッキー。
前世では絶対に手に入らなかった、ささやかで、何よりも温かい夜の女子会。
私は「本当に、この世界に来てよかったな」と、心から幸せを噛み締めていた。
――その頃。
私たちが夜のピクニックで絆を深め、心を完全に浄化させていたのと同じ時刻。
帝都の一角にあるヴァン伯爵家、エレノアの豪華な私室では、彼女が鏡の前で苛立たしげにパフを顔に叩きつけていた。
「どうして……どうしてこんなに痒いのよ……ッ!」
彼女は豪華なナイトガウンを羽織ったまま、自らの頬を爪で掻き毟っていた。
お茶会の後から、顔の皮膚が異様に突っ張り、熱を持ち始めている。鏡に映るすっぴんの肌は、ところどころが赤く爛れ、小さな水ぶくれのようなものができ始めていた。
「泥人形のコハルなんかに負けてたまるものですか……! わたくしの方が美しいはずよ!」
エレノアは焦りに駆られ、海外の闇商人から買った『希少な魔法薬草の白粉』の小箱を開けた。
そして、皮脂と雑菌がたっぷりと繁殖した使い回しの不衛生なパフに、その有毒な粉をたっぷりと含ませる。
「そうだわ。これは魔法薬草。たくさん塗れば、きっとこの肌荒れも治るはずよ……! レオン公爵様を振り向かせるためにも、もっと白く、もっと美しくならなくては!」
バフッ、バフッ。
彼女は、赤く炎症を起こした肌の上に、さらに分厚く猛毒の白粉を塗りたくっていく。
鉛と毒草の成分が、開いた毛穴から容赦なく皮膚組織の奥深くまで侵入していく。
一時的に白さで赤みを隠せたことに満足し、エレノアは歪んだ笑みを浮かべた。
「ふふふ……これなら完璧ですわ。次の夜会では、必ずあの無能な娘から公爵様を奪い取ってみせますわ」
彼女は知らない。
炎症を起こした肌に有毒物質と雑菌を塗り込むことが、どれほど致命的な行為であるかを。
私が手を下すまでもない。他者を見下し、見栄と傲慢さに囚われた令嬢の顔面では、取り返しのつかない破滅へのカウントダウンが、静かに、そして急速に秒針を進めていた。
読んでいただきありがとうございます。
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