EP 4
天才公爵の帰還。「君を害する者は、私が社会から抹消する」
エントランスホールの大理石の床に、張り詰めた静寂が落ちていた。
「レオン様……?」
私の頬を包み込むレオン公爵の手は、微かに震えていた。
彼の漆黒の瞳の奥には、普段の冷静沈着な天才公爵の面影はない。底知れぬ暗い怒りと、私を害する全てのものを塵一つ残さず焼き尽くそうとするような、苛烈な過保護の炎が渦巻いていた。
「……すぐに内務省に手を回す。ヴァン伯爵家の資産を凍結し、脱税や不正の証拠を今日中に全て洗い出せ。あの高慢な令嬢には、二度と社交界を歩けぬよう完璧な法的手続きをもって社会的死を与える」
「えっ!?」
レオン様が背後に控える執事に向かって、極めて冷徹な声で恐ろしい指示を出し始めた。
ちょっと待って。資産凍結? 社会的死?
たかがお茶会で嫌味を言われた(しかも大半はスルーした)くらいで、国家権力をフル稼働させて貴族の家を一つ潰すおつもりですか!?
前世のブラック病棟での日々が脳裏をよぎる。
夜勤明けで顔色を悪くしてロッカールームに戻った時、お局師長に言われた言葉は「あんたのその暗い顔、病棟の士気が下がるのよ。早く帰ってよね」だった。
私がどれだけ疲弊していても、誰も心配してくれなかった。ましてや「君を疲れさせた原因を社会から抹消しよう」なんて言ってくれる人など、地球上のどこにも存在しなかった。
だからこそ、彼のこの異常なまでの過保護さが、胸の奥をくすぐったく、そして嬉しくさせてしまうのだけれど。
「レオン様、待ってください。ストップです」
私は慌てて彼の手首を掴み、その冷徹な暴走に待ったをかけた。
「中止だ。コハルが止めるよう言っている」
レオン様が執事に手を挙げると、執事は深く一礼してホールの奥へ下がっていった。
彼は再び私に向き直り、今度は少しだけ痛みを堪えるような表情で私の目を見つめた。
「……すまない。君の尊いバイタルが乱れているのを見て、私は自律神経のコントロールを失ってしまったようだ。エレノアに、何をされた? 手は出されていないか? 泥人形などと、また愚かな暴言を吐かれたのではないか?」
心配そうに私の顔を覗き込むレオン様。
私は首を横に振り、彼を安心させるようにふわりと微笑んだ。
「手なんて出されていません。それに、泥人形と言われたのは事実ですが、私は全然傷ついていませんよ。だって、私にはレオン様が本当の価値を認めてくださっているという、絶対の自信がありますから」
「コハル……」
「それに、嫌なことばかりじゃなかったんです。今日のお茶会で、お肌の荒れに悩んで泣いていた女の子を、私の知識(と、通販の化粧品)で助けることができたんですから」
私がリリア令嬢にスキンケアを教え、彼女が笑顔を取り戻してくれたことを手短に話すと、レオン様の瞳に宿っていた暗い炎が、少しずつ驚きと感嘆の光へと変わっていった。
「君は……自らがマウントの標的にされているという極限のストレス下において、なお他者の痛みに気づき、的確なトリアージと処置を行ったというのか。魔法も使わずに」
「極限のストレスってほどでもなかったですけどね。……だから、エレノア様を無理に潰す必要はありません。あの方のお化粧は不衛生で危険なものでしたから、放っておいてもいずれご自身で痛い目を見るはずです」
私はレオン様を説得するように、彼の大きな手を両手で包み込んだ。
「レオン様が私を過保護に守ってくださるのは、本当に嬉しいです。でも……私はただ、あなたの後ろに隠れて守られているだけの存在にはなりたくないんです」
それは、私の心からの本音だった。
前世で搾取され続けた私は、今世ではただ安全な場所で甘やかされていたいと、最初はそう思っていた。
けれど、レオン様が私を「帝国の至宝」と呼び、法と論理で完璧に守ってくれたことで、私の心に小さな誇りが芽生えていたのだ。
「私は、レオン様の隣に堂々と立てるようになりたいんです。『レオン公爵が選んだ女性は、やはり素晴らしい聖女だった』と、誰もが認めるような……そんな人間になりたい。だから、少しだけ自分で頑張らせてください」
真っ直ぐに彼を見上げてそう告げると。
レオン様の動きが、彫像のようにピタリと止まった。
長い沈黙。
やがて、彼は「……はぁっ」と、深く、深い溜息を吐き出した。
「君は、本当に……私の構築した論理の壁を、いとも容易く粉砕していく」
次の瞬間。
ぐいっ、と強い力で腕を引かれ、私はレオン様の広い胸の中にすっぽりと閉じ込められた。
「えっ……レオン、様……?」
「君は何も証明などしなくてもいい。君の存在そのものが、すでに私にとっての世界の全てなのだから」
耳元で囁かれる、低く甘い声。
彼の漆黒の軍服から漂う清潔な香りが私を包み込み、力強い腕が私の背中をホールドして逃げ道を塞ぐ。
前世でも今世でも経験したことのない密着具合に、私の心臓が警鐘を鳴らすようにドクドクと跳ね上がり始めた。
「レ、レオン様、あの……」
「だが、君がそこまで気高く私の隣に立つことを望むのなら。……私は、その健気さに敬意を表し、君の戦いを静観しよう。ただし、君の身に少しでも危険が及べば、その時は問答無用で介入する」
そう言うと、レオン様は私を抱きしめていた腕を少しだけ緩め、私の顔をそっと見つめ下ろした。
至近距離で交わる視線。彼の漆黒の瞳が、まるで私を丸ごと飲み込んでしまいそうなほどの熱を帯びている。
彼は私の右手を持ち上げ、今朝ハンドクリームを塗ったその手の甲に、ふわりと口付けを落とした。
それだけでは終わらない。
彼はそのまま私の頬に手を添え、ゆっくりと顔を近づけてくると――私の前髪を少しだけ払い、露わになった額に、熱く、長い口付けを落としたのだ。
「っ……!!」
額に押し当てられた唇の熱さに、私の全身がビクンと跳ねる。
ちゅっ、という小さな音がエントランスホールに響き、私の顔は一瞬にして沸騰したように真っ赤に染まった。
「れ、れれ、レオン様っ……!?」
「これは、勇敢に戦場(お茶会)を生き抜いて帰還した、私の愛しい至宝への報酬だ」
レオン様は至極真面目な顔で、しかし口元にはどこか意地悪で優越感に満ちた笑みを浮かべていた。
「君の心拍数が、今、劇的に上昇しているのがわかる。……君のバイタルを乱すのは、私のこのキスだけで十分だ。他のノイズは一切不要だ」
「~~~っ!!」
完璧な論理武装の裏に隠された、とんでもない独占欲と溺愛。
私は恥ずかしさのあまり両手で顔を覆い、「うぅ……」とその場にしゃがみ込みそうになってしまった。
守られるだけの『限界ナース』から、彼の隣に立つ『パートナー』へ。
私の決意は、天才公爵様の理性を確実に削り取り、二人の距離を甘く、決定的な一歩前へと進めたのだった。
「おーい! コハル、帰っとるんかー!? ワテ、腹ペコやでー!」
エントランスの奥から、マシロの元気な声が聞こえてきた。
私はハッとして顔を上げ、燃えるような頬を両手でパタパタと扇いで熱を冷まそうと必死になる。
「い、行きます! 今行きます、マシロ!」
私がそそくさとホールの奥へ逃げるように駆け出すと、背後からレオン様の低く甘い笑い声が聞こえたような気がした。
一方その頃。
私が去った後のヴァン伯爵家のガゼボでは。
「ふんっ。逃げるように帰っていきましたわね。やはり魔法も使えない泥人形など、わたくしの敵ではありませんわ」
エレノアは高笑いしながら、手元に用意させていた小箱を開いた。
中に入っているのは、彼女が海外の闇商人から大金で買い付けたという『希少な魔法薬草を練り込んだ特製白粉』だ。
「さあ、お化粧を直しますわ。この完璧な白さと美しさで、次の夜会では必ずレオン公爵様をわたくしの虜にしてみせますわ!」
彼女は、先ほどリリアの顔を叩いた使い回しの不衛生なパフに、さらにたっぷりと白粉を含ませ、自らの顔にパンパンと力強く叩き込み始めた。
鉛や水銀、そして毒性のある植物の成分が、雑菌と共に彼女の毛穴の奥深くへと刷り込まれていく。
「ふふふっ、わたくしこそが、帝国で最も美しい令嬢ですわ……!」
彼女はまだ気づいていない。
自分を美しく見せるために塗っているその粉が、自らの顔面を崩壊させる『猛毒の時限爆弾』であることに。
私を見下した傲慢な令嬢の顔の皮膚下では、破滅へのカウントダウンが静かに、しかし確実に始まっていた。
読んでいただきありがとうございます。
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