EP 3
パウダールームの魔法。泣き虫令嬢と現代スキンケア
ヴァン伯爵家の豪奢な廊下を抜け、静かなパウダールーム(化粧室)の扉をそっと押し開ける。
中からは、ヒック、ヒックと押し殺したような泣き声が聞こえてきた。
大きな鏡の前に立ち、ボロボロと涙をこぼしているのは、先ほどエレノアから肌荒れを嘲笑されていたリリア令嬢だった。彼女は震える手で、分厚い白粉がついた使い回しのパフを握りしめ、赤く腫れ上がった自分の頬を隠そうと必死にポンポンと叩いていた。
「……ダメだわ、隠れない。もっと、もっと魔力を込めて塗らないと……」
「ストップ。それ以上塗ったら、肌が呼吸できなくなって悪化するわよ」
私が声をかけると、リリアはビクッと肩を跳ねさせ、怯えたウサギのように振り返った。
「コ、コハル様……! み、見ないでください、わたくしのこんな醜い顔……っ」
両手で顔を覆い、ポロポロと涙をこぼすリリア。
その姿を見て、私は胸がチクリと痛むのを感じた。
前世の限界ブラック病棟でも、同じように泣いている後輩ナースを見たことがあった。過酷な夜勤、睡眠不足、そして常にマスクを着用するストレスで、彼女の肌はひどく荒れてしまっていた。
『こんな肌じゃ、患者さんに不潔だと思われちゃいますよね……』
そう言って泣く後輩に、当時の私は「大丈夫だよ」と声をかけることしかできなかった。激務に追われ、彼女の話をゆっくり聞いてあげる時間も、肌をケアしてあげる心の余裕もなかったからだ。
でも、今の私には時間がある。そして、彼女を救うための『現代の知識と物資』があるのだ。
「醜くなんてないわ。ただ、肌が少し疲れちゃって、悲鳴を上げているだけ」
私はリリアにゆっくりと近づき、彼女の手から汚れたパフをそっと取り上げた。
パフは皮脂と古い白粉でガチガチに固まっており、控えめに言っても雑菌の温床だった。異世界の貴族令嬢たちは、これを「高級品だから」と洗わずに何ヶ月も使い続けているのだ。肌が荒れない方がおかしい。
「リリア様。もしよかったら、私にあなたのお顔を綺麗にするお手伝いをさせてくれないかしら?」
「え……? で、でも、わたくしは魔力が弱くて、魔法で肌を治すこともできなくて……エレノア様のおっしゃる通り、貴族の娘失格なんです」
「魔法なんて関係ないわ。肌を治すのは、魔法じゃなくて『清潔さ』と『保湿』よ」
私はリリアを椅子に座らせると、死角になるように背を向け、エプロンのポケットのスマホを操作した。
【通販】アプリの『化粧品』カテゴリを開き、前世で肌荒れに悩むナースたちが愛用していたアイテムを検索する。
「よし、これね」
ポイントを消費し、手元に『低刺激のクレンジングミルク』『もこもこに泡立つ洗顔フォーム』『薬用の抗炎症化粧水』、そして『セラミド配合の高保湿クリーム』を取り寄せた。ついでに、清潔で柔らかい純白のフェイスタオルも購入する。
「少し冷たいけど、気持ちいいからリラックスしてね」
私は医療用手袋をはめる代わりに、石鹸でしっかりと自分の手を洗い、リリアの顔にクレンジングミルクを優しく馴染ませた。
「あっ……あの、痛くないです……」
「肌をこすっちゃダメなの。優しく、汚れを浮かせるようにね」
ぬるま湯で乳化させて洗い流し、次は洗顔フォームをたっぷりと泡立てる。まるでマシュマロのような弾力のある泡をリリアの顔に乗せると、彼女は「ふわふわ……!」と驚きに目を丸くした。
異世界には石鹸はあるものの、このようにキメ細かい泡で洗顔するという概念はない。泡の力で毛穴の奥の汚れと、炎症の原因となっていた古い白粉や皮脂を優しく、かつ徹底的に洗い落としていく。
清潔なタオルでポンポンと水分を拭き取ると、鏡の中には、分厚い化粧を落としたリリアのすっぴんの顔が映し出された。
炎症を起こしている赤みはまだ残っているが、毛穴を塞いでいた汚れが落ちたことで、肌本来の透明感が蘇っていた。
「わ、わたくしの顔……」
「うん、とっても綺麗。本来のあなたの肌は、こんなに白くてきめ細かいのよ。……じゃあ、仕上げにお薬の入ったお水をたっぷり飲ませてあげましょうね」
私は抗炎症成分が配合された薬用化粧水を手のひらで温め、リリアの顔を包み込むようにして優しく押し込んだ(ハンドプレス)。
乾き切っていた角質層に、たっぷりの水分がぐんぐんと浸透していく。
「ひんやりして、すごく気持ちいいです……。いつもは、お化粧をするとピリピリして痛かったのに……」
「それは、肌のバリア機能が壊れていたからよ。最後に、このクリームで蓋をして、水分が逃げないように守ってあげる」
セラミド配合の保湿クリームで優しく肌をコーティングすると、リリアの肌は、先ほどまでの痛々しい乾燥と赤みが嘘のように、しっとりとした艶を取り戻していた。
炎症自体が魔法のように一瞬で消え去るわけではない。しかし、確実な医学的根拠に基づいたスキンケアは、彼女の肌が本来持っている自然治癒力を最大限に引き出してくれるのだ。
「……すごい」
鏡に映る自分の顔を触りながら、リリアの目から再びぽろぽろと涙が溢れ出した。
でもそれは、先ほどまでの絶望の涙ではなかった。
「痛くない……顔が、とっても軽いです。コハル様、わたくし、魔法が使えなくても、綺麗になれるんでしょうか……?」
「もちろんよ」
私は、リリアの涙を清潔なタオルで優しく拭い、にっこりと微笑んだ。
「肌は手をかけてあげれば、必ず応えてくれるわ。……このスキンケアのセット、あなたにプレゼントするわね。毎日、朝と夜にこうやって優しく洗って、たっぷり保湿してあげて。それから、パフは絶対に清潔なものを使うこと。約束できる?」
「はい……! はいっ!」
リリアは、私が渡したスキンケアセットを両手で大切そうに胸に抱きしめ、何度も何度も深く頭を下げた。
「コハル様は、噂通りの……いえ、噂以上の、本物の奇跡の聖女様です! わたくし、一生コハル様を尊敬いたします!」
「ふふっ、聖女なんて大げさよ。ただのスキンケア好きの元・令嬢だから」
前世では救えなかった後輩の涙。
今世では、こうして確かな知識と物資で、誰かの心と肌を癒やすことができる。
誰も蹴落とすことなく、ただ手を差し伸べるだけで、こんなにも温かい感謝が返ってくる。私は、ナースとして、そして一人の人間として、深く満たされるのを感じていた。
『ピロリン♪』
エプロンのポケットで、スマホが軽快に鳴った。
【システム通知】
善行ポイント:800 pt を獲得しました!(※乙女の尊厳と肌環境の救済ボーナス)
現在保有ポイント:7310 pt
『賢者君(無料版)』より一言:
……正しい知識は魔法に勝りますね。その調子です。
私はパウダールームを後にし、これ以上エレノアの毒々しいお茶会に付き合う義理もないと判断して、そっとヴァン伯爵邸を抜け出した。
公爵邸への帰りの馬車の中。
私は、どっと押し寄せてきた精神的な疲労に、深くため息をついた。
リリアを救えたのは良かったが、やはりあの強烈な香水の匂いと、陰湿なマウント合戦の空気は、前世のブラック病棟の理不尽なカンファレンスを思い出させて、少しだけ神経をすり減らした。
「はぁ……帰ったら、マシロとお菓子でも食べてのんびりしよう……」
馬車が公爵邸に到着し、重厚なエントランスの扉を開けた、その時だった。
「コハル」
エントランスのホールで、彫像のように立ち尽くしていたレオン公爵が、私の姿を認めるなり、弾かれたように歩み寄ってきた。
彼はお茶会に向かった時と同じ漆黒の軍服姿だったが、その瞳には、かつて見たことがないほど危険で、冷たく暗い炎が揺らめいていた。
「レ、レオン様……? お帰りなさい、早かったのですね」
「……君のバイタルが、極度に疲弊している。呼吸も浅く、心拍数にも微かなストレスの痕跡が見られる」
レオン様は私の前に立つと、大きな手で私の頬をそっと包み込んだ。
その指先が、微かに震えていることに気づき、私はハッとした。
「あの愚か者どもが。私の至宝に、どれほどのストレスを与えたというのだ」
低く、地を這うような声。
レオン様の背後に、帝国の軍隊を総動員してでもヴァン伯爵家を更地にしかねないほどの、絶対的な怒りと過保護のオーラが立ち上っていた。
無自覚ナイチンゲールのお茶会デビューは、天才公爵の理性を限界まで削り取る結果となってしまったようだ。
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