EP 2
初めての善行と、リリスのお下がり通販
『ピロリン♪』
間の抜けた電子音が、薄暗い部屋に響いた。
画面の割れたスマートフォンの液晶が発光し、空中に半透明のウインドウを浮かび上がらせる。
【システム通知】
初回起動ボーナスとして『100 pt』が付与されました。
現在保有ポイント:100 pt
※警告:限度額(100万円)を超過した場合、天界金融の黒服が強制執行に参ります。滞納者はシーラン国のマグローザ漁船へ即日ドナドナされますので、ご利用は計画的に。
「……だから、神様のお下がりにしては取り立てのシステムが生々しすぎるのよ」
私はベッドの上で頭を抱えた。
マグローザ漁船。前世で言うところの、遠洋の過酷なカニ漁船的なやつだろうか。借金を背負った人間が送り込まれ、二度と帰ってこられないという都市伝説のアレだ。
有給消化とスローライフを満喫するつもりが、初期状態から「借金取りの影」に怯える羽目になるとは思わなかった。
「とりあえず、このポイントで何が買えるの……?」
恐る恐る画面の【通販(現代)】というアイコンをタップしてみる。
すると、前世で見慣れた大手ネット通販サイトによく似た画面が開いた。
『医療・衛生用品』『食料品(リリスのお気に入り)』『日用品』などのカテゴリが並んでいる。
食料品カテゴリを開くと、日本のコンビニスイーツやファミレスのメニューがずらりと表示されたが、大半はグレーアウトして『ロック中』になっていた。
どうやら、善行ポイントを貯めてレベルを上げないと、買える品物は増えないらしい。
夜会――もとい、私の『退職パーティ(婚約破棄)』への出発時刻が迫っていた。
先ほど放り投げられた古びたドレスに着替えようと、身支度を始めたその時だった。
ガシャァァァンッ!!
部屋の外の廊下で、鼓膜を劈くような激しい破砕音が響いた。
驚いてドアを開けると、先ほど私にドレスを叩きつけた冷たい目の若い侍女が、床に座り込んでいた。
彼女の足元には、水の入った巨大なガラスの重い花瓶が粉々に砕け散っている。
「あっ、痛っ……!」
侍女の悲鳴。
見れば、彼女の右手首から前腕にかけて、鋭いガラスの破片が深く食い込んでいた。真っ赤な血が、どくどくと床に零れ落ちていく。
動脈こそ傷ついていないようだが、かなりの出血量だ。
「どうしよう、血が……奥様に怒られる……」
侍女はパニックを起こし、床を拭くための薄汚れた雑巾で、自分の傷口を乱暴に押さえつけようとした。
アナスタシア世界では、傷は『回復魔法で無理やり塞ぐもの』という大雑把な常識がまかり通っている。衛生観念など皆無に等しく、泥や細菌が入ろうが「後で魔法で治せばいい」という考えなのだ。
しかし、回復魔法が使える人間は限られており、すぐに対処できなければ感染症や破傷風で命を落とすことも珍しくない。
「ちょっと、触らないで!」
気づけば、私は叫んでいた。
体が勝手に動いていた。前世で体に染み付いた、限界ブラック病棟での『ナースの条件反射』だ。
私が駆け寄ると同時に、エプロンのポケットに入れていたスマホがブルッと震えた。
【簡易トリアージ発動】
判定:緑(保留群) / ただし感染症リスク大。適切な処置を求む。
「あんた、その汚い布で傷口を押さえたら化膿して死ぬわよ!」
「コ、コハル様……? でも、早く血を止めないと……痛い、魔法使いを呼んでこないと……」
痛みに涙ぐむ侍女の腕を、私はしっかりと、しかし優しく固定した。
頭の中は完全に『業務モード』に切り替わっていた。ナースコールは鳴っていないが、目の前に急患がいるなら見過ごすわけにはいかない。
私は片手でスマホを操作し、【通販】の『医療・衛生用品』カテゴリを開いた。
初回ボーナスの100ptを使い、必要なものをカートに放り込んで決済ボタンを押す。
シュンッ、と空気が鳴り、私の手元に小さな段ボール箱が転がり落ちた。
中から取り出したのは、『消毒用エタノール』『ピンセット』『滅菌ガーゼ』『サージカルテープ』、そして『使い捨ての医療用ゴム手袋』だ。
「少し染みるけど、動かないでね」
私は手袋を素早く装着し、ピンセットで傷口に残っていた細かいガラス片を丁寧に取り除いていく。
そして、エタノールを染み込ませたガーゼで、傷口の周囲の汚れと血液を素早く、かつ的確に拭き取った。
「ひぐっ……!」
「ごめんね、痛いよね。でも、ここでバイ菌を殺しておかないと後で熱が出るから。頑張って」
前世で何千回、何万回と繰り返してきた処置だ。
出血点を的確に見極め、清潔な滅菌ガーゼを厚めに当てて圧迫止血を行う。血が滲まなくなったのを確認すると、サージカルテープでしっかりと固定した。
時間にして、わずか数分。
魔法の光も、神秘的な詠唱も一切ない、ただの物理的でロジカルな応急処置。
「……えっ?」
侍女が、ぽかんと口を開けた。
傷口が塞がったわけではない。だが、清潔に保護され、的確に圧迫されたことで、ズキズキとした痛みが嘘のように和らいでいたのだ。
「血が、止まってる……。魔法も使っていないのに、どうして……?」
「ただの止血と消毒よ。魔法みたいに一瞬で傷は消えないけど、これでバイ菌は入らない。数日おとなしくしていれば、自分の力でちゃんと治るわ」
私が手袋を外し、にっこりと微笑むと、侍女の目からポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「わ、私……先ほど、あんなにコハル様に酷いことを言ったのに……無能だなんて……。それなのに、こんなに優しく手当てしてくださるなんて……!」
侍女は私の手にすがりつき、わあわあと声を上げて泣き出した。
その温かい涙の感触に、私はふと、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
前世では、どれだけ完璧に急変対応をしても、どれだけ患者のために走り回っても、手柄は全て医師のものだった。「ナースなんだからやって当然」「痛いじゃないか、ヤブ!」と怒鳴られることのほうが多かった。
でも、ここでは違う。
ただ当たり前の、正しい親切をしただけで、こんなにも心の底からの感謝を向けられる。
(……あぁ。前世のあの地獄みたいな苦労も、無駄じゃなかったんだな)
人を恨んで生きたくはない。
私を搾取する連中(ブラック職場)に、私の技術を1ミリも使う気はないけれど。
困っている人に手を差し伸べることの『温かさ』を、私は今世で初めて味わっていた。
『ピロリン♪』
エプロンのポケットで、軽快な音が鳴った。
【システム通知】
善行ポイント:50 pt を獲得しました!
※純粋な感謝の念を検知。現代医療品・食品のロックが一部解除されました。
「……ふふっ。現金なシステム」
私は侍女を立たせ、「片付けは他の人に任せて、今日はもう休みなさい」と声をかけた。何度も頭を下げる彼女を見送った後、私は自室に戻り、スマホを開いた。
現在のポイントは、残高と合わせて約120pt。
ロックが解除された『食品カテゴリ』のリストに、きらりと光るものを見つけた。
――『日本のミルクチョコレート(板チョコ)』:50 pt。
私は迷わず購入ボタンを押した。
手の中にポンッと現れた、見慣れた赤いパッケージ。
銀紙を破り、ひとかけらを口に放り込む。
「…………っ!!」
舌の上で滑らかに溶ける、カカオの香りと、ミルクの暴力的なまでの甘さ。
異世界には存在しない、洗練された現代の砂糖の結晶。
「おいし……っ、おいしい……っ」
疲れ切った限界ナースの脳髄に、ブドウ糖が染み渡っていく。
私は誰もいない部屋で、板チョコをかじりながら、ポロポロと涙をこぼした。
それは、前世で流し続けた悔し涙とは違う、純粋な幸福の涙だった。
チョコを半分食べたところで、私はふと我に返り、画面の隅にいるAI『賢者君(無料版)』にテキストを打ち込んだ。
【これ、もっと一気にポイント貯められないの?】
数秒後、素っ気ない文字が返ってきた。
『……仕様です。地道に善行を積んでください。なお、現在マグローザ漁船への乗船確率は30%です』
「高いわ!!」
私は残りのチョコを一気に口に放り込んだ。
ダメだ、悠長にスローライフなんて言っていられない。このままでは本物のブラック漁船に連行されてしまう。ポイントを稼げる安全な新天地を探さなくては。
「よし。まずは手っ取り早く実家を出るために、あの『退職パーティ』をさっさと終わらせてこよう」
私は古びたドレスを身に纏い、最高に晴れやかな足取りで、私を冷遇してきた家族と、傲慢な婚約者が待つ夜会の会場へと向かった。
これから起こる『婚約破棄』という名の合法的な解放劇に向けて、私の心拍数はかつてないほどに穏やかだった。
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