第一章 無自覚ナイチンゲールの絶対有給休暇
ナースコールはもう鳴らない。限界看護師、無能令嬢に転生する
「おいコハル! 3号室の患者さんがまたクレームだ、早く対応しろ!」
「コハル、昨日の夜勤の残業申請だけど、これじゃ絶対に通らないから。自主的な居残りってことで削っとくわね。あなた、プロの看護師でしょ?」
耳鳴りのように響く医師の怒号と、お局師長の無慈悲な声。
そして、フロア中に鳴り響く、終わらないナースコール。
4連続夜勤の明け。私の足は、見えない鉛の重りを引きずっているかのように重かった。
息をするのも苦しい。視界がぐにゃりと歪む。
まともな食事をとったのはいつだろう。ゼリー飲料を流し込んだ記憶すら、遠い昔のように感じる。
……駅のホーム。薄れゆく意識の中で、冷たい風が頬を撫でた。
(あぁ……冷たくてしょっぱい経口補水液が、がぶ飲みしたい……。ファミレス『ルナキン』の、あの甘くて分厚いパンケーキが食べたい……)
それが、限界ブラック病棟の看護師として搾取され続けた私の、最期の記憶だった。
目覚めると、薄暗くカビ臭いベッドの上だった。
消毒液の匂いはしない。代わりに、古い木材と埃の匂いが鼻を突く。
「……ここ、どこ?」
身を起こし、部屋の隅にあったくすんだ鏡を覗き込む。
そこに映っていたのは、黒髪で、今にも折れそうなほど細くひ弱な少女だった。
目の下にはくっきりとしたクマがあり、肌は青白い。
ズキリと頭が痛み、同時に見知らぬ記憶が脳内に流れ込んできた。
ここは魔法と闘気が支配する、マンルシア大陸。
近代的な魔導技術が発展した『ルナミス帝国』。
そして私は、この国の男爵令嬢、コハル・ルナミス(18歳)らしい。
自分自身のステータスというか、身体のスペックが、感覚として理解できた。
基礎闘力、わずか『2馬力』。
ルナミス帝国の一般人は息をしているだけで20馬力は出るというのに、私は生まれたての小鹿以下の超絶虚弱体質。地球の一般人と大差ないひ弱さだ。
おまけに、貴族の令嬢なら使えて当然とされている『回復魔法』の適性もゼロ。完全にすっからかんだ。
記憶の中の両親は、私を「家の恥だ」「魔法も使えない無能」と罵り、この薄暗い部屋に事実上幽閉しているようだった。
「……えっ、最高じゃない?」
無能? 虚弱? 大いに結構!
前世では「あなたプロでしょ?」「体力あるんだから、もっと働けるでしょ?」と期待され、同期のミスも、医師の尻拭いも、全ての業務と責任を押し付けられた。挙句の果てに過労死である。
魔法が使えないなら、誰の怪我も治さなくていい。
重いものを運べないなら、過酷な肉体労働を振られることもない。
「もうあんな地獄はごめんだ。誰がなんと言おうと、今世は絶対に我慢しない。有給休暇を……いや、一生スローライフを満喫してやる!」
私は冷たいベッドの上で、固く、固く決意した。
もう絶対に、自分の身を削ってまで搾取される生き方はしない、と。
ふと、枕元に違和感を覚えた。
そこにあったのは、見慣れた長方形の物体。
ピンク色の、デカデカと『初心者マーク』が刺繍された個性的なハードケース。画面の端っこには細かいヒビが入っている、どう見ても誰かの使い古したスマートフォンだった。
「えっ、異世界なのにスマホ? しかもお下がり感すごいんだけど」
そっと画面をタップすると、液晶が明るく光り、謎のアプリが起動した。
『見習い女神リリスのお下がりアプリ起動:善行ポイントシステム』
保有ポイント: 0 pt
機能: 現代医療品・食品・日用品の取り寄せ(※現在レベル不足により一部ロック中)
※警告※: 月額利用料(2万円)および、限度額(100万円)を超過した場合、天界金融により強制回収され、シーラン国のマグローザ漁船(または蟹工船)へドナドナされます。ご利用は計画的に。
「……神様のお下がりにしては、請求システムが生々しすぎるんだけど!?」
マグローザ漁船って何!? 蟹工船的なやつ!? スローライフの決意を秒でへし折るようなブラックワードが見えた気がする。
しかもストレージを確認すると、「ルナキンのパフェ」とか「みたらし団子」の画像ファイルが大量に保存されていて容量を圧迫している。元の持ち主の女神様、絶対に食い意地張ってるでしょ。
画面の隅には『賢者君(無料版)』というAIアイコンがぽつんとあった。
「ねえ、これどうやってポイント貯めるの?」
わらにもすがる思いでタップして聞いてみると、
『……仕様です。自分で稼いでください。なお、親切丁寧な有料版は月額1万円の課金となります』
「素っ気なっ!! しかもサブスク!?」
思わずツッコミを入れた、その時だった。
バンッ!
無遠慮な音を立てて、木製のドアが開け放たれた。
「コハル様。起きていらっしゃいますか」
冷たい目をした実家の若い侍女が、ノックもせずにズカズカと入ってくる。その手には、アイロンの当てられていない、地味で古びたドレスが乱暴に握られていた。
「……ゼロス様が、今夜の夜会で『コハル様に大事なお話がある』そうです。せいぜい、ご実家とゼロス様に粗相のないよう、小綺麗にしておいてくださいませ。回復魔法も使えない無能なのですから、せめて見た目くらいは」
鼻で笑い、侍女はドレスをベッドに放り投げると、すぐに部屋を出て行った。
残された私は、ベッドの上で一人、目を瞬かせた。
ゼロス様。コハル・ルナミスの婚約者である、エリート魔闘騎士。
記憶を探る。彼は厚底ブーツで身長を盛り、やたらと輝く白い歯(実は整形らしい)を鏡でチェックしてばかりの、プライドの塊のような男だ。
常に「俺の闘気と筋肉が一番だ!」と豪語し、回復魔法すら使えない私を「足手まといの木偶の坊」と見下している。
そんな彼が、大勢の貴族が集まる華やかな今夜の夜会で、わざわざ私に『公衆の面前で大事な話』をする?
「……」
ブラック病院での記憶がフラッシュバックする。
公開のカンファレンスで「お前のせいでミスが起きた」とスケープゴートにされ、責任を押し付けられ、退職に追い込まれた先輩の姿。
普通なら、不安と絶望で泣き崩れる場面かもしれない。
しかし、限界まで搾取され、過労死の果てに転生した私の脳髄は、瞬時にあるポジティブな結論を導き出した。
無能扱いされている私。傲慢で自己顕示欲の塊の婚約者。そして、大勢のギャラリーが集まる華やかな夜会。
これは、あれだ。
「……ふふっ。ついに来たわね、退職勧告(婚約破棄)!」
私はベッドの上で、力強くガッツポーズをした。
やった! やったー!!
これで実家からも、あの暑苦しい婚約者からも、堂々と、合法的に縁を切れる!
ブラックな人間関係からの、輝かしい退職手続きだ!
しかも、手元には神様のお下がりとはいえ、現代の物資を取り寄せられる魔法のスマホがあるのだ。ポイントさえ何とかして稼げば、美味しいお菓子だって、あの憧れのパンケーキだって食べられるかもしれない。
心臓が期待でドクドクと高鳴る。
もう、誰も私の手柄を奪わない。
ナースコールは、もう鳴らない。
待っててね、私の輝かしい有給休暇。
そして、自由で穏やかなスローライフ!
私は前世では一度も見せなかったような最高の笑顔で、今夜の「退職パーティ」へ向かうための、古びたドレスを手に取った。
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