第二章 無自覚ナイチンゲールと、社交界の猛毒コスメ
帝都の朝と、不穏なお茶会の招待状
小鳥のさえずりと共に、帝都の朝が訪れる。
ふかふかの羽毛布団の中でゆっくりと目を開けると、天蓋付きの豪奢なベッドの隙間から、穏やかな朝の陽光が差し込んでいるのが見えた。
「……んんっ」
大きく伸びをすると、最高級の絹のシーツが肌を滑る心地よい感触がした。
ここ数日、私は帝都の中心にそびえ立つレオン公爵の邸宅で、彼が用意してくれた『国賓級』の客室に滞在している。
前世の限界ブラック病棟で働いていた頃は、病院の仮眠室にあるパイプベッドで、消毒液と湿布の匂いに包まれながら数十分の浅い眠りを貪るのが関の山だった。
それが今や、最高のマットレスと清潔なリネン、そして静寂に包まれた完璧な睡眠環境だ。アラームに心臓を叩き起こされることも、理不尽なナースコールに飛び起きることもない。
「本当に、夢じゃないんだな……」
私は幸せを噛み締めながら身を起こし、サイドテーブルに置いていた『お下がりスマホ』を手に取った。
画面をタップすると、ピンク色の初心者マークが刺繍されたカバーの中で、液晶がパッと明るく光る。
【システム通知】
第一章『辺境のナイチンゲール編』のクリア報酬として、現代通販の【化粧品・アパレル】カテゴリのロックが解除されました!
現在保有ポイント:7010 pt
『賢者君(無料版)』より一言:
……おはようございます。新しいカテゴリが開放されましたが、くれぐれも無駄遣いはしないように。天界の取り立ては甘くありません。
「相変わらず一言多いAIね。でも、化粧品カテゴリか……」
私は【通販】アプリを開き、新しく追加されたタブをタップした。
すると、前世で見慣れたドラッグストアの基礎化粧品から、デパートの1階に並んでいるような高級コスメブランドのアイテムまで、ずらりと商品が表示された。
「あっ、ハンドクリームがある!」
私の目は、ある一つの商品に釘付けになった。
看護師という職業柄、前世の私は1日に何十回も手洗いをし、強力なアルコール消毒を繰り返していたため、手は常に荒れてカサカサだった。
今世でも、ポポロ村で患者の手当てをするためにエタノール消毒を多用したせいで、手荒れが少し再発していたのだ。レオン様にも「手が荒れている」と心配されてしまっていた。
私は迷わず、30ptを消費して『高保湿の薬用ハンドクリーム(無香料・低刺激タイプ)』をカートに入れ、購入ボタンを押した。
シュンッ、という小さな音と共に、手元にお馴染みの白いチューブが現れる。
さっそく蓋を開け、真珠大のクリームを手の甲に出して、ゆっくりと擦り込んだ。
「……あぁ、これこれ。すごくしっとりする」
ひび割れかけていた皮膚の奥まで、セラミドと保湿成分がじんわりと浸透していくのがわかる。
異世界の美容といえば、ただ油を塗るか、よくわからない香草の汁をすり込むくらいしか方法がない。この『科学的根拠に基づいた保湿』のありがたさは、限界ナースだった私にとっては何よりの癒やしだった。
身支度を整え、ダイニングルームへと向かう。
扉を開けると、すでに長大なテーブルには、焼きたてのパンと色とりどりのフルーツ、そして湯気を立てるスープが並べられていた。
「おはよう、コハル! 今日も朝飯が最高に美味いで!!」
テーブルの向こう側で、銀色のウサギ耳をピンと立てたマシロが、すでに両手いっぱいにパンを抱えて頬張っていた。口の周りにジャムをつけて、朝からフルスロットルのご機嫌モードである。
「おはよう、マシロ。朝から元気ね」
「おはよう、コハル。今朝のバイタルも極めて安定しているようだな」
マシロの隣で、優雅にコーヒーカップを傾けていたレオン様が、漆黒の瞳を私に向けた。
軍の最高技術顧問としての冷徹な顔はそこにはなく、私を見つめる瞳はどこまでも甘く、過保護な熱を帯びている。
「おはようございます、レオン様。おかげさまで、ぐっすり眠れました」
「それは重畳だ。君が深い睡眠をとることは、この帝国のいかなる軍事会議よりも優先されるべき重要事項だからな」
大真面目な顔でそんな甘い台詞を吐きながら、レオン様は自ら立ち上がり、私のために椅子を引いてくれた。
席に着き、ふとテーブルの上に手を置いた瞬間、レオン様が微かに眉を動かした。
「……コハル。君の手の皮膚組織が、昨日よりも劇的に改善している。それに、微かだが清潔で心地よい成分の匂いがするな」
「あっ、わかりますか? 実は通販の機能が新しく開放されて、『ハンドクリーム』っていう保湿剤を取り寄せたんです。手荒れを防ぐお薬みたいなもので」
私が手の甲を見せると、レオン様はそっと私の手を取り、その滑らかになった肌を親指で優しく撫でた。
「素晴らしい。魔法に頼らず、皮膚のバリア機能を物理的に補修する概念か。君の生み出す奇跡には、日々驚かされるばかりだ。……だが、何よりも、君自身が自らを労ってくれていることが私は嬉しい」
熱を帯びた指先が肌を滑る感触に、私の心臓がドクンと跳ねる。
朝からこんな至近距離で、甘い言葉と共に手を撫でられるなんて、前世の殺伐とした日々からは想像もつかない糖度だ。
「コハル、ワテにも見せてや! ほんまや、手ぇツルツルになっとる! ええ匂いするし、美味しそうやな!」
「マシロ、これは食べ物じゃないからね! 舐めちゃダメよ!」
マシロが身を乗り出して私の手をクンクンと嗅ぎ始めたことで、なんとか恥ずかしさを誤魔化すことができた。
和やかで甘い朝食の時間が終わりに近づいた頃。
控えの執事が、銀の盆に一通の封筒を乗せてダイニングに入ってきた。
「公爵閣下。そして、コハル様。ヴァン伯爵家より、書状が届いております」
「ヴァン伯爵家……?」
私が首を傾げると、レオン様の顔からスッと温もりが消え去り、絶対零度の冷徹な表情へと変わった。
「……エレノアか。朝から不愉快なノイズを寄越すものだ」
レオン様は吐き捨てるように言い、執事から封筒を受け取った。
分厚い羊皮紙で作られた封筒には、これ見よがしに豪奢な金色の蝋印が押され、むせ返るようなキツイ香水の匂いが染み付いている。
「あの、エレノア様というのは……?」
「エレノア・ヴァン。帝国魔法院の重鎮であるヴァン伯爵の令嬢だ。極端な魔法至上主義者であり……以前から、私の婚約者の座を狙って執拗にすり寄ってくる、目障りな女だ」
レオン様が眉間を揉みながら答える。
どうやら、公爵様に熱烈なアピールをしている、プライドの高い令嬢らしい。
レオン様はペーパーナイフで封を切り、中身の手紙を一読すると、さらに不機嫌そうに目を細めた。
「『公爵閣下の心を射止めたという、新たな滞在客の女性に、ぜひ一度お目にかかりたく存じます。我が家の薔薇園にて、ささやかなお茶会を催しますので、ぜひお越しくださいませ。魔法の才に溢れた素晴らしい方とお見受けし、お会いできるのを心待ちにしております』……だと」
読み上げられた内容に、私は思わず苦笑してしまった。
魔法の才に溢れた素晴らしい方、ね。
私が「魔法が全く使えない、闘力2馬力の無能」として実家を追放されたという噂は、社交界でとっくに広まっているはずだ。それなのに、わざわざそんな嫌味な一文を入れてくるあたり、底意地の悪さが透けて見える。
「典型的なマウントですね。『どんな泥人形が公爵様の隣にいるのか、査定してやる』ってところでしょうか」
私が前世で培った「お局様の嫌味翻訳スキル」で意訳すると、マシロが「なんやと!?」とウサギ耳を逆立ててテーブルを叩いた。
「コハルを泥人形やて!? あんなぁ、コハルはワテの親友で、世界一の聖女なんやぞ! そんな性格悪いお茶会、ワテが行ってケーキ全部食い尽くした上で、そいつの顔面マッハで蹴り飛ばしたるわ!」
「マシロ、暴力はダメよ。気持ちは嬉しいけど」
「マシロの言う通りだ」
レオン様が手紙をテーブルに放り投げ、冷徹な声で断言した。
「こんな招待、受ける必要はない。エレノアの目的は、魔法が使えない君を大勢の令嬢の前で孤立させ、公衆の面前で恥をかかせることだ。君の尊いバイタルを、あんな無価値な女の嫉妬で乱させるわけにはいかない。即座に欠席の返状を出せ」
レオン様が執事に命じようとした、その時だった。
私は「待ってください」と、彼の手をそっと押さえた。
「……コハル?」
「レオン様。このお茶会、私、行きます」
私の言葉に、レオン様は驚いたように目を丸くした。
「前世……いえ、昔の私なら、こういう嫌味な集まりからは逃げ出していたかもしれません。でも、逃げてばかりじゃダメだと思うんです」
私は、自分自身の心の中にある、確かな決意を言葉にした。
「もし私がここで逃げれば、彼女は『レオン様はあんな腰抜けの泥人形を選んだのか』と、レオン様の見る目まで馬鹿にするでしょう。それは、絶対に嫌です」
ブラック病棟で、いつも誰かの影に隠れて、理不尽に耐えるだけだった私。
でも、今世の私には、強力な現代知識があり、何よりも「自分を守り、認めてくれる人たち」がいる。
「私は、レオン様に守られるだけの存在にはなりたくありません。堂々と、公爵様の隣に立つに相応しい人間だと、自分で証明したいんです。……だから、行かせてください」
私が真っ直ぐに彼を見つめてそう告げると、レオン様の漆黒の瞳が、大きく見開かれた。
しばらくの間、彼は何も言わずに私を見つめ返し……やがて、深く、熱い吐息を漏らした。
「……君という女性は。本当に、私のあらゆる計算を狂わせる」
レオン様は、テーブルの上に置かれた私の手を、壊れ物を扱うかのようにそっと持ち上げた。
そして、私を真っ直ぐに見据えたまま、その手の甲に――ハンドクリームの良い香りがする肌に、今度は深く、熱い口付けを落とした。
「っ……!」
「君のその健気で誇り高い決意に、私はまたしても理性を削り取られた気分だ。……分かった。君の意思を尊重しよう」
唇が触れた場所から、火が付いたように熱が広がっていく。
顔を真っ赤にする私に、レオン様は至極真面目な顔で、しかしどこか好戦的な笑みを浮かべて告げた。
「だが、忘れるな。君の後ろには、帝国の法と、この私という絶対の武力がついている。もしエレノアが君に少しでも危害を加えようとするならば、私はヴァン伯爵家ごと、この社会から完全に抹消する。……それだけは、覚えておきなさい」
過保護を通り越して、もはや国家レベルの脅迫である。
しかし、その重すぎるほどの愛情が、今の私には何よりも心強い最強の盾だった。
「はい。いってきます、レオン様」
私は、前世の「嫌味なお局様からの呼び出し(カンファレンス室)」を思い出しながら、小さく息を吐いた。
モンスターペイシェントの相手なら、限界ナース時代に死ぬほど経験してきた。理不尽なマウント合戦だろうと、陰湿な嫌味だろうと、大人の対応で完璧に捌いてみせる。
不穏な香水の匂いが漂う招待状を前に、私の心臓は恐れではなく、新たな戦い(有給休暇の防衛戦)に向けた静かな闘志で、力強く脈打っていた。
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