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EP 15

限界ナース、公爵家にて永住権を獲得する

小鳥のさえずりと、窓から差し込む柔らかな朝陽。

どこからか、こんがりと焼けたパンと温かいスープの匂いが漂ってくる。

私はゆっくりと目を開け、ふかふかのシーツの中で大きく伸びをした。

「……よく寝たぁ」

身体中を満たしていた鉛のような疲労感は、跡形もなく消え去っていた。

前世の限界ブラック病棟では、朝は絶望の始まりだった。耳をつんざくようなスマートフォンのアラーム音に心臓を跳ねさせ、消毒液と血の匂いが染み付いたナース服に袖を通す。

昨日と同じ激務が待っていると知っていながら、重い足を引きずって通勤電車という名の牢獄へ向かっていた。

でも、今は違う。

アラームは鳴らない。ナースコールもない。理不尽に怒鳴る医師も、手柄を奪うお局師長もいない。

空気はどこまでも澄み切っていて、私の心拍数は驚くほど穏やかだった。

(……前世の私は、もう本当に終わったんだな)

ふと、遠い異国の海で強制労働に就いているであろう、元婚約者のゼロスのことを思い出した。

私を「回復魔法が使えない無能」と見下し、婚約破棄を突きつけて実家から追放した傲慢な魔闘騎士。彼は自らの無知と不衛生によって部隊を壊滅させ、レオン様の冷徹な『法と論理』によって社会的に抹殺された。

今頃は、マグローザ漁船という過酷なカニ漁船で、波に揉まれながら借金返済の地獄を味わっているはずだ。

彼が落ちぶれていく過程で、私は一度も彼を蹴落とそうとはしなかった。

復讐の罠を仕掛けたわけでも、罠に嵌めたわけでもない。

私はただ、目の前の困っている人たちを、私の持っている知識で助けただけ。

ゼロスは、傲慢さゆえに自ら『トリアージ:黒』の札を首から提げ、勝手に自滅していったのだ。

彼に対して、憎しみはもうミリグラムも残っていない。

ただ、「私の担当外になってくれて、心底ほっとした」という、清々しい感情があるだけだった。

「コハルー! 起きてるかー!」

バンッ! と元気よくドアが開けられ、銀色のウサギ耳をピンと立てたマシロが飛び込んできた。

彼女の両手には、村人たちが差し入れてくれた焼きたてのパンと、新鮮な野菜のサラダが山盛りに乗ったお盆が掲げられている。

「村の衆が、聖女様にって朝ごはん持ってきたで! ワテ、つまみ食いすんの必死で我慢したんやから褒めてな!」

「ふふっ、えらいえらい。ありがとう、マシロ」

私がベッドから降りて彼女の頭を撫でてやると、マシロは「えへへ」と嬉しそうに目を細めた。

前世では、心から笑い合える対等な友達と、朝ごはんをゆっくり食べる時間なんて皆無だった。

美味しいご飯と、私を無条件に肯定してくれる最強の親友。これ以上の幸せがあるだろうか。

「おはよう、二人とも。素晴らしいバイタルサインだ」

続いて部屋に入ってきたのは、漆黒の軍服を纏ったレオン公爵だった。

彼は私の顔を見るなり、昨日までの氷のような冷徹さが嘘のように、極端に甘く、熱を帯びた瞳を向けた。

「よく眠れたか、コハル。睡眠中に、過去のトラウマで心拍数が乱れることはなかったか?」

「はい、レオン様。一度も目は覚めませんでした。とっても快適な朝です」

「そうか。それは何よりだ。……だが、今日からはもっと完璧な睡眠環境を約束しよう」

レオン様は私の前に進み出ると、私の手を取り、その手の甲に恭しく唇を落とした。

「馬車の準備はできている。私と共に、帝都の公爵邸へ行こう。……私の生涯の妻として」

「っ……はい!」

私は、顔を真っ赤にしながらも、はっきりと頷いた。

もう迷いはない。私を搾取する世界には、二度と戻らない。

私はこの、少し理屈っぽくて過保護すぎる天才公爵様と一緒に、絶対的な平穏を手に入れるのだ。

ポポロ村の広場には、村人たちが総出で私たちのお見送りに集まっていた。

「聖女様! いつでもこの村に帰ってきてくだせぇよ!」

「手洗いとうがい、絶対に忘れませんからね!」

「お幸せにーっ!」

馬車に乗り込む私に向かって、村人たちが口々に感謝と祝福の言葉を投げてくれる。

誰も私を妬んだり、引きずり降ろそうとはしない。

私はただ「善く生きた」だけだ。それだけで、こんなにも温かい居場所をもらうことができた。

「みんな、ありがとう! 元気でね!」

私が窓から手を振ると、隣に座っていたマシロが「ワテら、また遊びに来るからな! 芋用意しとけよ!」と大声で叫んだ。

パカラッ、パカラッ。

軽快な馬蹄の音と共に、豪奢な公爵家の馬車がゆっくりと動き出す。

遠ざかるポポロ村の景色を見つめながら、私は深く、安堵の息を吐き出した。

「……これで、本当に私の『絶対有給休暇』は完成ですね」

私がぽつりと呟くと、向かいの席に座っていたレオン様が、すっと私の隣に移動してきた。

「有給休暇、か。地球の概念だったな。……だが、それは『いつか労働に戻る』ことを前提とした言葉だろう?」

「えっ、あ、そうですね」

「ならば訂正しよう。コハル、君が手に入れたのは一時的な休暇ではない。私の傍での『完全な永住権』だ。君の労働は、未来永劫、この私が禁止する」

レオン様は私の肩を引き寄せ、力強い腕でぎゅっと抱きしめた。

彼の胸の奥から聞こえる、トクトクという力強い心拍音。それが、私の自律神経を信じられないほど穏やかに鎮めていく。

「君がその知識で誰かを救いたいと願うなら、私が全力で支援しよう。だが、君を不当に搾取しようとする輩が現れれば……いかなる高位貴族であろうと、帝国の法と論理で完膚なきまでに叩き潰す」

それは、帝国最高権力者からの、甘く重たい絶対過保護の宣戦布告だった。

私は彼の腕の中で、心からの安心感に包まれながらふわりと微笑んだ。

「ふふっ、心強いです。でも、レオン様がいれば、もう怖いものなんて何もありません」

私が彼を見上げて笑いかけた、その瞬間だった。

『ピロリン♪』

エプロンのポケットで、すっかり聞き慣れたスマホの電子音が鳴り響いた。

雰囲気のいいところで鳴るなんて、相変わらず空気が読めないシステムだ。私は苦笑しながら、画面の割れたスマホを取り出した。

【システム通知】

第一章『辺境のナイチンゲール編』のクリア報酬として、現代通販の【化粧品・アパレル】カテゴリのロックが解除されました!

現在保有ポイント:7010 pt

「おっ、新しいカテゴリが開いた。これでマシロに可愛いお洋服を買ってあげられるわね」

「ほんまか!? うおおっ、コハル最高や! さすがワテの親友!」

はしゃぐマシロの横で、私は通知の続きに目を落とした。

画面の隅にいるAI『賢者君(無料版)』から、珍しく長文のメッセージが届いていた。

『賢者君(無料版)』より一言:

……帝都へのご帰還、および公爵閣下とのご婚約、おめでとうございます。

しかし、浮かれるのはまだ早いです。

帝都の社交界では、突如として公爵の隣に現れた『無能な元令嬢』に対する、一部貴族たちの【嫉妬・陰謀】のパラメーターが急上昇しています。

次なる厄介な患者(物理的・社会的に)が、あなた方を待ち受けている模様。

どうか油断なきよう。マグローザ漁船は、いつでもあなたの乗船をお待ちしております。

「……マグローザ漁船の勧誘、しつこいわね」

私は思わずジト目で画面を睨みつけた。

どうやら、私のスローライフは、ただお菓子を食べて寝ているだけで終わるわけではないらしい。

公爵様の溺愛を受けるということは、それに嫉妬する新しい『私を見下す者たち』との遭遇を意味する。

でも、不思議と恐怖や焦りはなかった。

前世の、孤独で絶望的だったブラック病棟での戦いに比べれば、今の私は最強のパーティーを組んでいるのだから。

「どうした、コハル? バイタルに微かな変動が見られるが」

レオン様が心配そうに私の顔を覗き込む。

「何か面白いもんでもあったんか?」

マシロがウサギ耳を揺らして、身を乗り出してくる。

私はスマホをエプロンのポケットにしまい、二人に向かって最高に晴れやかな笑顔を向けた。

「ううん、なんでもないわ。ただ……帝都での新しい生活が、ちょっとだけ賑やかになりそうだなって思っただけ!」

どんな理不尽な陰謀が待っていようと、どんな理不尽な患者が現れようと。

私の『善行ポイント通販』と『無自覚なナイチンゲール魂』、そして天才公爵の絶対過保護と、神獣の親友の武力があれば、全ては最高の後味の良いカタルシスへと変わるだろう。

馬車は、華やかな帝都の門へ向かって、真っ直ぐに道を進んでいく。

搾取されて過労死した限界ナースの、誰も蹴落とさずに最高に報われる異世界スローライフ。

その輝かしい第二章の幕開けは、もう目の前まで迫っていた。


お読みいただきありがとうございます!


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