EP 6
公爵の出張過保護と、ポポロコーポの深夜カオス会談
泥水とメロロン果汁に塗れた激闘の初日を終え、ポポロ村は静かな夜の帳に包まれていた。
村の境界線近く、満天の星空の下に鎮座していたのは、のどかな農村の風景にはおよそ不釣り合いな巨大車両だった。
ルナミス公爵家の威信を懸けて開発された、移動式特装VIPトレーラー。外装には最高強度の防弾魔導装甲が施され、内部には帝都の一流ホテルすら凌駕する豪奢な設備が整えられている。
「……ふぅ。ポポロ村の空気は澄んでいて、夜風が本当に気持ちいいわね」
私はルナ・スパ特製のシルクの館内着に身を包み、トレーラー内の最高級ソファに深く腰掛けながら、心地よい疲労感に息を吐いた。
マンドラの捕獲にメロロンの精神汚染のトリアージと、現場監督としての初日は息をつく暇もなかった。
「気持ちいいのは結構だが、君のバイタルサインは明らかな過活動状態を示しているぞ。私の至宝」
ふわりと、最高級ダージリンと極上の白檀が混ざり合った甘い香りが満ちる。
振り返る間もなく、背後から伸びてきた長くてたくましい腕が、私の身体をすっぽりと包み込んだ。
濃紺のシャツの袖を捲り上げたレオン様が、ごく自然な動作で私を膝の上へと引き上げ、その広い胸板の中へと閉じ込める。
「れ、レオン様……っ。移動式の宿舎とはいえ、ここポポロ村ですよ? 誰が入ってくるか分かりませんから……」
「完全防音、魔導結界による絶対封鎖、そして我が影の部隊が半径五百メートルを二十四時間体制で警戒している。誰一人として、私と君の逢瀬を邪魔することは許されない」
レオン様は私の抗議を極上の微笑みで受け流すと、湯気の立つ白磁のティーカップを私の口元へそっと運んできた。
中に入っているのは、彼が自ら調合したという、安眠作用のあるカモミールと陽薬草の特製ハーブティーだ。
「さあ、一口飲みなさい。……君が他人の更生のために奔走するのは誇らしいが、君自身の心臓の鼓動を整えることは、私の宇宙において最優先の義務なのだからな」
「もう……本当に過保護なんですから」
私は観念して温かいハーブティーを口に含んだ。
芳醇な香りと柔らかな甘みが、強張っていた神経をじんわりと解きほぐしていく。
「どうだ、少しは落ち着いたか?」
レオン様の長い指先が、私の額にかかった前髪を優しく払い、そのまま首筋から肩のラインへと滑り落ちていく。
その触れ方はどこまでも丁寧で、壊れ物を扱うように繊細でありながら、私を何者にも渡さないという強烈な独占欲を孕んでいた。
「君の左手の指輪……脈拍がようやく正常値に戻ったな。……愛おしいよ、コハル。君のその小さな身体に、これ以上無理をさせるわけにはいかない。今夜は私の腕枕で、朝まで一度も起きることなく眠るのだ」
「レオン様……ありがとうございます」
彼の力強い胸元に耳を当てると、トクン、トクンと規則正しい命の音が聞こえる。
前世の冷たい病棟で独りぼっちだった私を、これほどまでに甘やかし、全存在を肯定してくれる唯一無二の婚約者。
トレーラーの中は、甘くて温かい、完全なる二人だけの楽園だった。
――しかし。
その甘美な空間から、わずか数百メートル離れた場所では。
およそ神話の調停者たちとは思えない、凄惨で所帯じみた地獄の日常が繰り広げられていた。
ギシッ……ギシッ……。
ポポロ村の一角に佇む、木造三階建ての独身アパート寮――『ポポロ・コーポ』。
一階の大広間兼共同食堂の引き戸が、ガラガラと力なく開け放たれた。
「……た、助けてぇぇ……。誰か、湿布……冷えピタを私の腰に貼ってぇぇ……っ」
這いつくばるようにして敷居を跨いできたのは、全身からメロロンの腐ったような甘い異臭を放ち、泥と汗で髪を固めた世界神ルチアナだった。
這うようにして入ってきた彼女の前に、無情にも立ち込めていたのは――
濃厚で暴力的な、ドロドロの豚骨スープの匂いだった。
「おい、ドアをさっさと閉めんかい。スープの温度がコンマ一度下がるだろうが」
食堂の巨大な寸胴鍋の前。
純白の調理着にねじり鉢巻きを巻き、巨大な木べらで豚骨を粉砕しながら睨みつけてきたのは――調停者の一角、かつて水爆並みのブレスで世界を滅ぼしかけた竜王デューク(人間形態:頑固親父風イケオジ)だった。
「ひぃっ、デューク……! アンタ、神の調停者のくせに、なんで夜中の十時にアパートの共同食堂で豚骨ガラを煮込んでんのよぉぉっ!?」
「うるせえ。我が友・太郎の残した至高の味を再現するためだ。……おい、駄犬。トッピングのキクラゲと青ネギの仕込みはどうした」
デュークが顎で指した先、居間のちゃぶ台で、マルボロ・アイスブラストの煙を天井へ吐き出しながら、ルナミス新聞の競馬欄に赤ペンを走らせていたのは――
同じく調停者の一角、絶対零度を操る狼王フェンリルだった。
「あー? 聞こえねえな。今、明日の帝都メインレース『第3回・マンドラ記念(G1)』の予想で忙しいんだよ。……おいルチアナ、お前邪魔だ。そこに転がるなら、タローソン行ってアイス買ってこい。金は……ツケで」
「誰が買い出しに行くかぁぁっ! 私はこの世界の創造主よ!? なんで竜王がラーメン屋の頑固親父で、狼王が競馬狂いのヒモニートになってんのよぉぉっ! 尊厳はどこへ行ったの尊厳はぁぁっ!!」
ルチアナが畳をバンバン叩いてヒステリックに叫んだ、その瞬間だった。
ドスッ。
ちゃぶ台の端に、履き古された緑色の便所サンダルが、一切の音もなく無造作に乗せられた。
「あ?」
ルチアナが視線を上げると、そこには――。
背中に『第6聖獣 麒麟降臨』『全国制覇』の金糸刺繍が入った、ド派手な金ピカ光沢ジャージ。
超強力ポマードで一分の隙もなくビシッと固められた、黄金のリーゼントヘア。
くわえタバコのショートホープから紫煙をくゆらせ、冷ややかに片目を細めた男――第六の聖獣にして次元超越者、リキ兄貴が座っていた。
「……夜分にギャーギャー喚いてんじゃねえぞ、アマ」
ドスの利いた、魂の底を直接殴りつけるような重低音。
神話の次元超越者の威圧感に、ルチアナは息を呑んで硬直した。
「リ、リキさん……! 聞いてよぉ! 私、今日一日、泥だらけでマンドラ追っかけて、メロンに骨抜きにされかけて、コハルには新聞紙で頭ポカポカ叩かれて……! もう限界なのよ! 私の推しの月人君のファンクラブの継続費すら危ういのよぉぉっ!!」
ルチアナが涙目で縋り付こうとした瞬間、リキ兄貴は手元のエンジェルすまーとふぉん(耐衝撃ゴールドケース仕様)をテーブルにトンと置いた。
画面には、ルナミスキングのテイクアウトアプリで注文した『特大ルナミスバーガーセット(ポテトL・ナゲット付き)』の配達完了画面が表示されていた。
「くだらねえ」
リキ兄貴は煙草の灰を灰皿に落とすと、鋭い眼光でルチアナの眉間を射抜いた。
「てめえのケツも拭けねえヤツが、神だの創造主だの偉そうな看板背負ってんじゃねえよ。借金作ったのもてめえ、枠溶かしたのもてめえだろ。男でも女でも、自分がやらかした落とし前は、己の拳でキッチリつけるのが筋ってもんだろうが」
「う、ぐ……っ!」
正論すぎるヤンキー哲学の前に、ルチアナは二の句が継げない。
「タイムカードは切っといてやったがな」
リキ兄貴はフッと紫煙を吐き、無造作に立ち上がった。
「欠勤扱いにされてこれ以上減給されたら、てめえ本当にマグローザ漁船行きだからな。……おいデューク、俺のバーガー温めるからレンジ空けろや」
「フン、勝手に使え」
「あ、あの……私の晩御飯は……?」
床で震えるルチアナがおずおずと尋ねると、厨房からデュークが、脂でギトギトになった巨大な寸胴鍋の底を指差した。
「食いたきゃ、その裏庭にある洗い場へ行け。今日仕込みで使った寸胴鍋十個と、スープ用の骨壺五十個の皿洗いが残っている。……全部洗い終えたら、底に残ったスープの出汁ガラと、タローソンの廃棄直前の米麦草を食わせてやる」
「出汁ガラぁぁぁっ!? 私、犬じゃないのよぉぉぉっ!!」
「嫌なら食うな。働かざる者食うべからず、だ。太郎の国の言葉だが……貴様のような穀潰しには、これ以上ない金言だろう」
デュークが木べらを振り下ろして一喝する。
「う、うぅぅ……っ! フレアぁぁ! 助けてぇぇぇっ!!」
ルチアナが隣の女子棟へ向かって絶叫すると、薄い襖がピシャリと開き、そこから姿を現したのは――
割烹着を着て、両手に洗濯物の山を抱えた、不死鳥フレア(自称・永遠の17歳、実態は過労死寸前のシングルマザー)だった。
「うるさいわねぇぇぇっ!! こっちはヒエンの明日の作業着のアイロンがけと、アパート中のシーツの洗濯で手一杯なのよっ! 不死鳥なのに過労で羽が抜け落ちそうなの! 自分のケツくらい自分で拭きなさいよ、このドラ娘がぁぁっ!!」
バチィンッ!!
投げつけられた濡れ雑巾が、ルチアナの顔面に吸い付くように直撃した。
「ぎゃあああああぁぁぁっ!?」
「ほら、さっさと鍋を洗いに行け! 洗剤はタローマンの安物だから、手が荒れる前にゴム手袋を嵌めなさい!」
フレアは怒鳴り散らしながら、鬼の形相で襖をピシャリと閉めてしまった。
「「「…………」」」
静まり返るポポロ・コーポの食堂。
漂うのは、豚骨スープの熱気と、リキ兄貴のファミレスバーガーの匂い、そしてフェンリルの煙草の煙だけ。
神話の英雄も、世界を創った神も、この木造アパートにおいてはただの「生活に追われる同居人」に過ぎなかった。
「……ぐすっ。洗えばいいんでしょ、洗えばぁぁぁ……っ!!」
ルチアナは顔から雑巾を引き剥がすと、涙と鼻水で顔をグシャグシャにしながら、冷たい夜風が吹き荒れる裏庭の洗い場へとトボトボと歩き出していった。
ゴシゴシと冷水で寸胴鍋を擦るその背中に、かつての威厳など一欠片も残っていなかった。
翌朝。
小鳥の囀りと共に目を覚ました私は、レオン様の温かい腕の中から身を起こし、トレーラーの窓を開けた。
「おはよう、コハル」
すでに完璧に身だしなみを整えたレオン様が、淹れたての紅茶を手に優雅に微笑んでいる。
「おはようございます、レオン様。……ふふ、昨夜はよく眠れました」
「それは何よりだ。……ところで、外の洗い場に、昨夜からずっと寸胴鍋を抱いたまま白目を剥いて倒れている不審物が転がっているのだが、あれはトリアージの対象か?」
窓の外を見下ろすと、裏庭の井戸端で、両手をふやけさせ、泥と豚骨の脂に塗れてピクピクと痙攣しているルチアナの姿があった。
その足元には、ピカピカに磨き上げられた五十個の鍋が、まるでピラミッドのように美しく積み上げられている。
「……あらあら。一晩かけて、ちゃんとやり遂げたみたいですね」
私はクスクスと笑いながら、エプロンの紐を結び直した。
「さあレオン様、今日も一日、更生プログラムを進めましょう。……今日の現場は、元氷魔将軍スアイさんの雪山サウナですわ!」
平民ナースによる容赦のないデトックス。
駄女神の魂を根底から叩き直す、極寒と熱風の第3の試練が、幕を開けようとしていた。




