第五話 白磁憑き2
士郎は山の神社で草木に囲まれて生活している。
虎猫本舗の依頼を受けて山から降りると、都会の複雑さに困惑する。大学生の時はバスと電車を乗り継いで街を歩きこなしていたことが、遠い過去のように感じられた。
街に降りてくると疲れるので、祓いの仕事の時は竹丸の家に泊めてもらう。
竹丸は虎猫本舗のビル二階に住んでいる。昭和に建てられた頑丈な鉄筋コンクリートのビルは鉄平が購入した。三階が事務所で、二階は1LDKの住居に改装、一階は鉄平の書斎だ。
竹丸の部屋はいつも散らかっている。
脱ぎっぱなしのシャツ、ドン・キホーテの派手なビニール袋、転がっているぬいぐるみ。
丸っこいピンクのウサギのぬいぐるみを、士郎は抱き上げた。
「これかわいいね」
「友達が置いていったんですよ」
言いながら竹丸はテーブルの上を片付ける。ビール缶に吸い殻でいっぱいの灰皿、コンビニ弁当。ジムに通って筋トレは欠かさないようだが、健康的な生活には感じられない。
士郎はそれらを呆れた目で見る。
「いや、これは…………最近、忙しかっただけで、吸い殻は俺だけじゃなくて友達の分もありますよ。ビールはちょっと昨晩、飲みすぎただけで」
竹丸が言い訳をする。
「プロテインばっかり飲んでたらダメだよ。どうせちゃんと食べてないと思って、今日は野菜多めのご飯にする」
士郎は泊めてもらうお礼に、いつも夕食を作る。
袴からTシャツと短パンに着替えて料理をする。ごぼうとにんじんの炊き込みご飯、里芋と椎茸の煮物、ほうれん草のおひたし、塩シャケ、大根の味噌汁。
料理をしていると竹丸が見てくるので、士郎は料理の仕方を解説してやる。わかったら自分で作りなさい、と言うと竹丸は返事だけはいい。
うまいうまいと竹丸は士郎の作った料理を褒めてくれる。
いつもほとんど一人なので、人と食事をすること、作った料理を食べてもらうことは嬉しい。
「今回の憑き物、一晩でわかると思う。向こうから訴えかけてくるからね」
食事の後、士郎は風呂から上がって言った。
「それはよかったです。もう寝ますか?」
「うん、おやすみ」
まだ夜の九時だが、毎朝五時に起きている生活なので、もう眠い。
リビングの隅に木製のパーテーションがあり、折り畳みのベッドが置かれている。士郎は枕元の小さな木のテーブルの上に、白磁の湯呑みが入った桐の箱を置いた。
横になって目を閉じる。
士郎は、夢の中で物に干渉できる。
依頼人は悪夢を見ると言っていたことから、この方法でわかると確信していた。
眠りに落ちる。意識が、すうっと導かれていく。
※
白磁の湯呑みを手に、ぼんやりと台所に立っている。
朝から晩まで着ている白い割烹着の胸元に染みができていた。昨晩、天ぷらを作ったときに油が跳ねたのだ。
「ごめんください」
玄関から声がした。
「はい、どちら様」
答えて戸を開けると、灰色の江戸小紋を着た女が立っていた。
見下してくるような、憮然とした女の顔を見て、すぐに悟った。
ああ、この人だ。
「こんにちは。こちらの奥様でいらっしゃいますね。わたくし、旦那様と懇意にさせてもらっている者です。お話よろしいかしら」
女は目を細めて笑んだ。
有無を言わさぬ態度が、もう勝敗はついたと宣言している。
ああ、気を揉んでぐずぐずしていた自分が情けない。
「どうぞ」
気弱な声と態度で女を客間に上げる。
なんとも、悔しいとも思わない。ただ怖かった。
夫が浮気をしているのは察していた。冷たくなった態度、帰らぬ夜、香水の匂い。これみよがしにシャツに付けられた口紅。
嫉妬や怒りなどもなく、ただもう怖かった。
見合い結婚で嫁いできて、厳しい義母にも逆らわず、従順に生きていればなんとかなると思った。
これで早く子供でもできれば、自分はこの家の「奥さん」に落ち着き、生きていけると信じていた。
子供はなかなか出来ず、夫の心は違う女に移った。
両親を早くに亡くして身寄りもない。手に職もなく、女一人でどう生きていけばいいやら。
お盆に、青い縞模様の丸い湯呑みを置く。その隣に、愛用している白い湯呑みを置いた。
これだけが、もはや自分だけの物のようだ。
やかんが鳴って湯が沸いた。
緑茶の青い匂いを嗅ぐと、意識がきりりとした。
そうか、ここで終わらせよう。
殺鼠剤の瓶を開けて、白い湯呑みの茶の中に入れる。
盆を持って客間に行った。
女に青い縞模様の湯呑みのみを出す。
「おたくの旦那様、あなたと別れて私と結婚したいと言ってるのよ。離縁してくださらない?」
女の言葉に頷き、白い湯呑みを手にして、一気に飲み干す。
「物分かりのいい奥様でよかったわ」
女は勝ち誇った顔で帰っていった。
見送る足はふらついたが、すぐには死ねないようだ。
買い物から帰ってきた義母を出迎え、だるい体で夕食を作り、床についた。
深夜に赤い血を吐いた。
一睡して目が覚めたが、体が起こせない。気分が悪く、胸が苦しくなった。意識が遠のいていく。
しまった、遺書を書き忘れた。
最期の最期まで自分の迂闊さに呆れてしまう。
最期に、白い湯呑みでお酒が飲みたい。
新婚の頃は夫の晩酌につきあって、あの白い湯呑みで少しお酒をいただいた。
あの頃が幸せだったなぁ。
頬に涙が流れて、冷たくなった。
律子は息を引き取った。
※
目覚めた士郎は泣いていた。
体を起こしても涙は流れ続けた。
「律子さん、わかりましたよ。あなたの想い、伝えましょう」
士郎は箱を開けて、囁いた。
※
解決したと依頼人に報告し、事務所に来てもらった。
士郎が夢で見たすべてを話した。
湯呑みを愛用していた律子という名の女性。愛人に離縁を迫られ、行くあてもないと悩み、自ら毒を飲んで死んだ。誰にも知られず、ひとりで亡くなった。
「………おばあちゃんのお母さん、そんな人だったんだ。略奪婚とか闇深すぎ」
美知は悲しそうに俯いた。
さみしい。
湯呑みから感じた気持ちを聞いたとき、真琴は持ち主がここまで追い詰められて死んだとはわからなかった。
控えめな人で損をしている。
真琴は彼女を追い詰めた夫と愛人に怒りを感じる。
「今から、律子さんの悲しみを慰めます」
士郎が言った。
竹丸が木の桶と清酒をもってきた。
桶を清酒で満たす。
士郎は紺色の紐で着物をたすき掛けして、腕を出す。
白磁の湯呑みを両手で持ち、桶につける。
士郎の細く長い指が、器の縁をなぞる。
まるで傷跡を慰撫するように、丁寧に洗う。
たっぷりと何度も清酒を湯呑みに注いではこぼすを繰り返した。
桶から出された湯呑みは清々しく白い。
器はさらに手拭いで磨かれた。
所作の一つ一つから、慈しみを感じられた。
それを、割烹着の女性が覗き込んでいる。
彼女は微笑んでいた。
「はい、これで律子さんの苦しみは慰めました。大事にしてくださいね。時々、日本酒を注いであげてください」
士郎が湯呑みを箱にしまい、美知に言った。
「大切にします。日本酒ですね。おじいちゃんから何がいいか聞いてみます」
美知は涙ぐんだ笑顔で受け取った。
士郎はすごいな、と真琴も泣きそうになった。
※
祖母の遺品にもらった白磁の湯呑み。家に置いておくと謎の物音がして、悪夢を見る。お祓いしてほしい、という依頼は見事に士郎が解決した。
『それでよ、孫が俺と日本酒飲んでくれるとはねぇ。律子様のおかげだよ』
依頼人の孫を紹介してくれた辰三爺さんは、嬉しそうに語る。
『しかし、気の毒な話だったねぇ。家に押しかけて、離縁迫った挙句に奥さん死んじまって、愛人は何も思わんかったんかね』
「何も思わなかった、むしろラッキーぐらいやったんでしょう。それぐらい気ぃ強い人やないと、押しかけてこないでしょう」
鉄平は言いながら、うっすら見えた割烹着姿の女性を思い出す。
優しい気配だった。




