第二話 騒音霊2
「私の傍を離れないで」
真琴は沢田の手をとって、屋上に出た。
竹丸が先頭に立つ。士郎が羽織を脱ぎ捨て、テニスラケットケースに入っていた小型の祓え串を手に構えた。
地面は黒い。方々から呻き声がする。貯水槽から黒い人影が勢いよく落ちて、地に溶けていった。繋いだ沢田の手は震えている。
「怖いでしょ、目を閉じていて」
真琴は言って、アイパッチを外した。
紫色の目で霊体を見る。黒くもやのかかった姿は、はっきりと中年の女や子供に変化していった。紫色の目で捉えられたそれらの浮遊霊たちは、煙のように消えていく。
竹丸もアイパッチを外して、浮遊霊たちを祓っている。
「視る」だけで祓えるこの紫の目の力は、怨霊に目を捧げることで得た。
―――もう、四年も前になるな。
久しぶりに竹丸と並んで紫の目の力を使っていると、ふと感慨深くなった。士郎、竹丸、真琴。三人の絆が結ばれた「忌み地」の大祓の壮絶さは、今となっては懐かしい。
士郎が祓い串をシャッと鳴らすと、霊が霧散する。
黒い地面が元の灰色のコンクリートに戻っていく。
銀色の柵を、爪の長い大きな手がつかんでいる。
ぬぅ、と、のっぺりとした白い顔が現れる。長い髪は体を覆っていた。
「…………なかったこと、なかったことにしたのに」
低い、ねばついた声で女の霊は言った。
真琴の体は重くなった。この世に留まり続けている霊体は怨霊となり、人を蝕む力を得る。六年前に自殺した女の霊だ。自殺した霊特有の沈鬱さがある。
その存在を紫の目で捉え、真琴は竹丸の手を握った。ごつごつとした手がしっかりと握り返してくる。
二人が手を繋ぐと、目の力は強くなる。
「祓いたまえ、清めたまえ」
祓え串を士郎が振り、祝詞を奏上する。
女の霊体が歪み、髪が強風に靡くように動く。その体の芯は棒きれのように細い。
うあ、うぁあと女は呻きながら顔を手で覆う。
「利用、されたのに…………悔しい、悔しい」
女は呟きながら、徐々に小さくなっていった。髪の毛が抜け落ちて、小さな頭と細い体となる。
光が差した。
霊は、細面の顔に水色のワンピースの女性へと変化した。
「誰にも供養されていませんでした。ようやくあの世にいけそうです…………」
女性が頭を下げた。
「でも、でも、あの人が――――」
霊が沢田を指差す。
「あの人は私を利用しました。それだけが無念です」
女の霊はそう言い残して消えた。
何があったのか。利用したとはどういうことか。
問いかけても答えはないだろう。
沢田は全身を震わせ、歯の根が合わぬ音まで聞こえてきそうだ。
ドン! と地面を叩くような音がした。
屋上の中央に黒い穴がぽっかり開くと、そこからチワワが飛び出してきて、キャンキャン吠えながら沢田の足にまとわりつく。
「やめて、あっち行って!」
沢田が叫んだ。
竹丸が犬の首根っこをつかみ、そっと胸に抱くと、するっと白くなって消えた。
屋上に大きな足音が響く。
大きな頭に肉厚の肩、腹の突き出た男が現れた。男は血走った目でこちらを睨んでいる。怨念は体から黒い煙となって可視化されていた。
沢田が顔をそむける。
「俺はその女に殺されたんだ!」
轟音の声に、吹き飛ばされるのを耐えるように沢田は腕で顔を隠す。
「岩木さんですね」
落ち着いた声で士郎が問いかけた。
「そうだ」
男が答えた。
※
沢田美穂子は大学卒業後、事務職をしていたが、上司のパワハラで体調を崩して辞めた。
体をゆっくり休めなさい。そして生前贈与しておいた方がいいから、とマンションの管理人になるよう両親に勧められた。
管理人の業務は掃除やゴミの管理、住人からの要望対応など、やることは多いが、一人なのが気楽でよかった。
美穂子は一階の管理人室の隣に住み込みで働いていた。
早朝にインターホンが鳴った。
寝ぼけ眼で起き上がり出ると、若い男の住人だった。
「605室の平田です。隣の人が、毎晩うるさいんですよ。叫んだり怒鳴ったりしてて……それに、犬の鳴き声も聞こえてくるんです。ここってペット禁止ですよね?」
眉間に皺を寄せた平田がまくしたてた。
沢田はそれを聞いて、また苦情がきた、と苦い気持ちになった。604号室の岩木が引っ越してきてから、他の住民からも苦情が入っていた。
「すみません。注意します。ご迷惑をおかけして、すみません」
沢田は頭を下げた。
「しっかりしてくださいよ」
平田が強く言って玄関から去る。
注意します。
そう言いながら、沢田はまだ岩木に一言も言えていない。怖いからだ。声が大きい男は苦手だ。
だけど、管理人ならばきちんとしなくては……今日こそ、注意しよう。
沢田は夜に岩木を訪ねた。
ドアの向こうからキャンキャンと犬の鳴き声が聞こえる。大音量の音楽も聞こえてきた。
沢田は何度もインターホンを鳴らした。
「なんだよ、あんた誰?」
インターホンから男の不機嫌な声が聞こえた。入居の時に一度会ったはずだが、もう忘れられているようだ。
「管理人の沢田です。お話があってきました…………出てきてもらえますか?」
小さく舌打ちが聞こえた。
ドタドタと大きな足音がして、ドアが開く。
岩木は丸坊主の大きな男だ。
沢田は身が竦む。パワハラをしてきた上司と威圧感が似ている。息がつまる。
「あの……夜は静かにして頂けませんか? えっと……あの、苦情がきているんで……」
「苦情? 誰が? 俺、今、仕事中なんですけど」
岩木が顔をしかめて言う。
「お仕事……?」
「俺、YouTuberなの。ゲーム実況とか歌ってみたとかさあ、いろいろやって再生数稼いでんだよね」
「そうなんですね。せめて昼とかにしてもらえたら助かるんですけど……」
「えー、俺、夜型なんだよね。夜の方が集中できるから。そんなにうるさくしてねーよ。苦情言ってる奴が大袈裟なんじゃねーの?」
岩木が腕を組み、玄関ドアにもたれて片足のサンダルで地面を叩くように足踏みをした。
沢田はびくっと震えてしまう。
「いえ、あの。ですけど……気をつけてください」
俯いてなんとか言い、頭を下げる。
私は悪くないのに。
バンッと大きな音を立ててドアが閉まった。
犬のことを注意できなかった。
会社勤めも管理人も一人前にできないのか。
自分が情けなくなる。
ついに平田は引っ越してしまった。
沢田の下の階の住人の主婦は、毎日のように「犬の鳴き声と走る音がうるさい」と苦情を言いに来た。
どうして静かにできないんだろう。
沢田の上司は大きな物音を立てて、不機嫌をアピールしてきた。上司は指で机をカツカツ叩き、暴言を吐き、足音もドアの開閉音もうるさかった。
うるさいんだよ。
管理人ならしっかりと住民の暮らしやすさを守らなければならない。
「岩木さん、YouTuberなんでしょう。だったら、いいお話がありますよ。このマンション……屋上に、自殺した霊が出るんです。特別に解錠して、お見せします」
沢田は笑顔で言った。




