第一話 騒音霊1
うるさいって、罪だ。
屋上に来てください。
インターホン越しに、声を振り絞って言った。
黒いどろどろとした何かが、腕を引っ張る。屋上……屋上は「味方」してくれるはずだ。
※
初夏の日差しが、レザーのアイパッチをつけた右目に痛い。三十分も早く現場についてしまった。除霊の仕事は久しぶりで、あの二人に会えることが楽しみなのだ。
岡崎真琴はマンションの屋上に目をやる。
真っ白なマンションの壁とは違う、暗澹とした気配がある。首筋がぞくりとする。
黒い人影が、落ちてくる。
どしゃり。
真琴の足元に落ちて、静かに地面に溶けていった。
「うわぁ、もう見ちゃいましたねー。お久しぶりです、真琴さん」
ごついスーツの男が、声をかけてきた。竹丸雅也だ。彼は左目にアイパッチをつけている。真琴は右目を前髪で隠しているが、竹丸は短髪で白いアイパッチを隠していない。スーツ越しでもたくましいとわかる体格に長身で、アイパッチだけ浮いて見える。
「…………久しぶり。でも、今の霊はそこまでじゃない? 竹丸一人でいけそうだけど?」
「いやぁ、それがなかなかの怨念がですね。数も多いんですよ」
竹丸は笑いながら言って、真琴の隣に立つ。出会った頃、竹丸はまだ大学生だった。今はスーツも着こなし、一人前の社会人になっている。
彼は「なんでも屋虎猫本舗」という万事屋に勤めている。真琴の本業はイラストレーターだが、時折、竹丸に依頼されて除霊の仕事を請け負っている。
「こんにちは、真琴さん、竹丸」
涼やかな声がした。
紫色の袴に紺色の羽織姿の青年が待ち合わせに加わる。初夏の都内では、浮世離れした存在だ。肌は透けるように白く、瞬く黒い瞳は魅力的に輝く。
「士郎さん、久しぶりです。お暑い中、どうも」
竹丸が嬉しそうに言った。真琴は日傘を畳んで物部士郎の隣に立つ。
「そうだね、久しぶり、士郎くん」
真琴の声はつい明るく、うきうきとした音になった。
三人でオートロックのインターホンを押すと、すぐに若い女性が出てきた。
「お暑い中、ありがとうございます。依頼人の沢田美穂子と申します。このマンションのオーナーです」
「お疲れ様です。虎猫本舗の竹丸雅也です。ご依頼の件について、詳しくお聞かせ願えますか?」
竹丸の言葉に、「はい」と力なく沢田は頷いた。
沢田が真琴と視線を合わせ、ぺこりと頭を下げた。沢田は顔色が悪く、目の下に濃い影がある。マンションに入ってすぐ、真琴の耳の奥でキーンと嫌な耳鳴りがした。
管理人室は清潔なオフィスの応接間といった感じで、これといっておかしな所はない。
「岡崎真琴と申します。霊能者です」
「物部士郎です。神主です」
二人は自己紹介をした。
沢田は冷たい緑茶を出してくれた。真琴たちがソファーに座り、沢田は小さな丸椅子に腰掛けている。ニットのカーディガンを着ている上から、二の腕をさすっていた。
「三ヶ月ほど前からなんです…………五階の住人が、誰もいない上の六階から物音がうるさいって苦情がありました。その住人は引っ越してしまって。その、六階の部屋っていうのが」
沢田が言葉を詰まらせ、咳をした。喉に何か引っかかっていて苦しいというような、ゴンゴンと響く咳だ。
「住民が、三ヶ月前に事故死しているんです。屋上から落下したみたいで。自殺も疑われましたが、いつもと変わりなかったことと、かなりお酒を飲んでいたことが検死でわかったようで」
「なるほど。その事故死から怪奇現象が起きているんですね」
竹丸が言った。
「はい。それも奇妙なのが、屋上は封鎖されているはずなんです。ドアに鍵はしっかりかけていました。それがなぜか開いていて…………実は五年前に自殺があったんです。それは私が両親からこのマンションを相続する前のことで、自殺した人が住んでいた部屋は、今は住人が何事もなく住んでいます」
嫌なんですよ、と沢田は言った。
「事故物件とか言われると…………入居してもらえないじゃないですか」
オーナーにとっては霊は迷惑な存在だ。
真琴はこめかみに手を当てて、目を閉じる。左耳の奥からする耳鳴りの音が変わってきた。男の大きな声、どんどんと床を歩く足音、何か騒いでいる声、そして女の叫び声が頭の中で響いた。
真琴は目を閉じて、絶叫が頭から退いていくのを待つ。
「――――聞こえますね」
士郎が、真琴と視線を合わせて言った。真琴は頷く。
マンションから霊の「騒音」が聞こえてくる。
「まずは、物音がしたという六階の部屋を見せてくれませんか?」
竹丸が言う。真琴も士郎も同じ考えだ。
「はい、わかりました」
沢田が鍵を持ち、エントランスに移動してエレベーターに乗った。階数が上がるたびに、騒音は大きくなっていく。
廊下に響くドアの開閉音、大声、犬のキャンキャンと鳴く声。
「このマンション、ペット可なんですか?」
真琴は尋ねた。
「いいえ、禁止なんです。けれど事故死した男性が、こっそり飼ってて…………それも近所でトラブルになっていました」
「そのようですね。さっきから騒音が聞こえています。物音や話し声。事故で亡くなった方は、騒音トラブルを起こしていたのではないですか?」
真琴の質問に沢田は青ざめた。
「す、すごい。霊能者の方だから、わかるんですね…………そうなんです。岩木さん、六階の住人は…………岩木さんはYouTubeで配信しているとかで、夜に大きな声を出したり…………」
「…………これは、どういうことだ。六階で止まらないぞ」
竹丸がエレベーターの六階のボタンを何度も押すが、到着ボタンは「R」のみ点灯している。
「もう呼ばれているみたいだね」
士郎は落ち着いて言った。
「そ、そんな」
沢田が口に手を当てる。
「すみません、沢田さん。強い力を持った霊能力者が三人も集まると、こういうことが起きるんです」
竹丸が苦笑して言う。
「ですが、ご安心ください。すぐに祓ってさしあげます」
士郎が微笑んで言った。その一言で沢田の動揺は少し落ち着いたようだが、エレベーターの壁にもたれて咳き込んだ。
「大丈夫ですか?」
竹丸が心配して声をかける。
「この咳…………原因がわからなくて」
「苦しそうで、大変ですね」
士郎が労わる言葉をかける。
「岩木さんは、なぜ屋上に行ったんでしょう?」
真琴が言い終えたと同時に、エレベーターの扉が開いた。
そこに初夏の真昼はなかった。
暗澹たる闇が広がっていた。




