聖(正丈)の「再誕」
放課後の保健室を出た乃雅の足音は、無人の廊下に低く、短く吸い込まれていった。
脳裏に焼き付いて離れないのは、泰代が示した大陰唇の裏側の光景だ。
わずかに赤みを帯びた、縦の縫合痕。
それを、可哀想な少女の傷跡としては捉えていなかった。
恥丘から会陰へ走る己の「完全な空白」と、彼女の「削ぎ落とされた聖痕」。
二つの縦の線は、肉体という構造物が平均値から弾き飛ばされた際に出力した、必然の幾何学模様だった。
泰代の縦の傷の余韻が、乃雅の胸の奥で静かに疼いていた。
その疼きは、数週間前の“もうひとつの縦の痛み”――
正丈(聖)が授業中に崩れ落ちた、記憶を呼び起こした。
あの日、男子部職員室で担任から、女子部へ行けと聞いた時。
「お前のアソコは空白だろ、校医からの意見書も出ている。
校長先生の判断だ、女子部へ行け。
正丈も一緒だ。
友達が一緒の方がいいだろ。」
その言葉の不躾な質量に眩暈を覚えながら、正丈に呼び出され、放課後の生物準備室のドアを開けた。
部屋の隅には、等身大の人体解剖模型が立っていた。
夕闇のなかに剥き出しの筋肉と内臓の構造を晒し、
ただ即物的な物体として直立するその標本は、
これから二人の少年に課せられる肉体の不条理を予言しているかのようだった。
「驚いたろう、乃雅。
先生から聞いたよ。
僕たちの女子部編入の話を。
このまえの授業中、僕のお腹の中で起きていたのは、単なる腹痛じゃなかったんだ、最初盲腸かと思ってたけど。
毎月、女の子たちが下着を汚すはずのあの血が、僕の身体の中には出口がなかった。
行き場を失った経血が、内側から子宮を膨らませ、内臓の、神経を、容赦なく圧し潰し続けていた。
それが『留血症』という病名さ」
正丈は窓の外の紫色の空を見つめた。
その瞳には、自らの運命を冷徹に俯瞰する、鋼鉄のような知性が宿っている。
「暗いMRIの筒の中で、ガガガガという金属音が響くたび、
黒板に書かれたはずの数式が、僕の頭の中でひとつずつ形を失っていった。
θの角度が歪み、コサインの線が波打ち、記号が意味を持たないただの線に戻っていく。
呼吸のリズムも金属音と噛み合わなくなり、吸気と呼気の間に小さな“空白”が生まれた。
その空白が広がるたび、僕の身体の中心がわずかにずれ、
僕の“男としての論理”も同じ速度で崩れていくのが分かった。
僕は一分の隙もない論理で男として生きてきたのに、この肉体は、内側から僕を完全に裏切ったんだとね。
染色体は46,XX。
生まれついた時から、僕の内部には完璧な子宮と卵巣が設計されていた。
ただ、副腎の悪戯で、外側の形だけが男性化していただけだった。」
正丈はゆっくりと視線を落とし、ズボンのウール地に指先を這わせた。
布地が擦れる微かな音が室内に響く。
衣服の摩擦が、張り詰めた沈黙をさらに濃くしていく。
「医師は『本来の構造に戻しただけだ』と言って、僕を切り開いた。
内側で暴れていた血の塊を抜き、塞がっていた道を均した。
……でもね、乃雅。
僕はもう悲しんではいないんだ。
肉体の設計図に裏切られたのなら、僕は僕自身の意思で、本物以上に完璧な『偶像としての美』をこの肉体の上に立ち上げてみせる。
名前も変えるよ。
これからは、聖と呼んでくれ」
その潔癖で逃げ場のない論理の重みに、乃雅は息を呑んだ。
隅に立つ人体標本が、薄闇の中で沈黙のままこちらを見ていた。
剥き出しの筋肉と神経の走行が、ホルマリンの匂いに溶けながら、
俺たちの肉体が“設計図として組まれている”という事実だけを、無言で突きつけてくる。
人体の設計図という冷酷な事実だけが、
白く融解していく。
女子部編入が単なる学校側の都合ではなく、
構造的な必然として、同じ欠落を抱えた者たちが一つの場所へ手繰り寄せられているのだと確信していた。
乃雅は泰代から音楽室で聞きたい事があ事を思い出した。




