午後の図書室
放課後の図書室は、校舎のどこよりも静かだった。
ページをめくる音と、古い紙の乾いた匂いが、薄い陽光の中でゆっくりと混ざり合っている。
乃雅は、返却棚に本を戻したあと、自然と視線を奥の窓際へ向けた。
——泰代がいた。
白い指先が文庫本の端をなぞり、ページをめくるたびに、微かな呼吸の揺れが生まれる。
彼女の周囲だけ、空気が一段階薄くなるような静けさがあった。
乃雅は迷った。
けれど、足は勝手にそちらへ向かっていた。
椅子を引く音が、図書室の静寂に溶ける。
「……隣、いい?」
泰代は顔を上げず、ページの途中で指を止めた。
「ええ。どうぞ」
その声は、図書室の空気と同じ温度だった。
乃雅が座ると、泰代は本を閉じずに、ただ少しだけ角度を変えた。
その動きは、拒絶でも歓迎でもなく、
——“そこにいることを許す”という、静かな合図だった。
乃雅は表紙を覗き込む。
「……太宰?」
「『女生徒』。何度読んでも、言葉の温度が変わるのよ」
泰代はページをめくりながら、ふと横目で乃雅を見る。
「あなた、覗くなら……隣に座ればいいのに、って思ってた」
「え?」
「だって、あなたの視線、すぐ分かるもの」
泰代の声は淡々としているのに、どこか柔らかかった。
しばらく、二人は何も話さなかった。
ただ、ページをめくる音と、窓の外の風の気配だけが流れていく。
泰代が突然、しおりを挟んで本を閉じた。
「……乃雅ちゃん」
「ん?」
「あなたの“空白”って、静かよね」
乃雅は息を呑んだ。
泰代は続ける。
「私の身体は、内側がずっと騒がしかった。
でも、あなたのは……見ていると、呼吸が整うの」
その言葉は、告白ではなく、観察だった。
けれど、観察だからこそ、深く刺さる。
「……だから、隣にいると落ち着くのよ」
泰代はそう言って、また本を開いた。
まるで、今の言葉は本の余白に書かれた注釈にすぎないと言わんばかりに。
乃雅は返事をしなかった。
ただ、泰代のページをめくる音に合わせて、自分の呼吸がゆっくりと整っていくのを感じていた。
チャイムが鳴る。
泰代は本を閉じ、立ち上がる。
「……また、ここで読んでもいいわよ」
それだけ言って、泰代は窓際の光の中へ歩いていった。
乃雅はしばらく席に残り、
彼女の残した静けさの余韻を胸の奥で確かめていた。
——この午後の温度は、きっと忘れない。




