乃雅のダイレーション
「……痛い? 俊。」
乃雅の声は、
夜の空気の湿度に溶けるように静かだった。
俊は浅い呼吸のまま、
かすかに頷いた。
「痛いよ、乃雅……。
これ、自分で入れる時は、
ただ“痛い”っていうしかないの。
でも……乃雅が手伝ってくれると……
なんだか、
身体の奥が柔らかくなる感じがする。」
俊の言葉は、
部屋の冷たい空気の中にぽつりと落ちた。
それはかつて俊が
自分の身体の“うるささ”として呪い、
切り離したかったもの。
そして乃雅が九歳の夏に
熱と光の中で失った、
形のない“重さ”の記憶。
二人がそれぞれ違う仕方で手放したものが、
今、医療器具を介して
皮肉にも同じ“気配”として立ち上がっている。
乃雅はダイレーターを握る指先に、
じわりと集まってくる熱を感じていた。
俊の新しい身体の内壁が、
異物を受け入れようとして
微かに、規則正しく脈打っている。
それは俊が自ら選び、
作り上げた“新しい境界”の弾力だった。
「……乃雅が手伝ってくれると、」
俊は長い睫毛を濡らしたまま、
シーツを握りしめて言った。
「痛いのに……
奥のほうが、
すごく静かになるの。
朝になっても、
もうあの“雑音”が戻ってこないんだって、
あなたの手が教えてくれるみたいで。」
乃雅はゆっくりと進めた。
維持しなければ、
俊の“平地”はすぐに癒着し、
身体の防御反応によって塞がってしまう。
憐れみも、
情欲もない。
ここにあるのは、
俊の身体を肯定し続けるための、
静かな合図だけ。
ふいに俊の下腹部が小さく緊張し、
内側の筋肉が器具を強く締めつけた。
「あ……っ、
乃雅……ごめん、
ちょっと……
きつい……かも……」
「動かないで、俊。
……力を抜いて。」
乃雅は片手を俊の平坦な下腹部にそっと当て、
呼吸のリズムを合わせた。
その瞬間、
俊の身体の奥の緊張が
ゆっくりとほどけていく。
痛みは消えない。
でも“敵”ではなくなる。
俊の身体が、
乃雅の静けさに同調していく。
その夜、
二人は“失われたもの”ではなく、
今ここにある身体の形を
確かめ合っていた。




