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赤道直下の白い光

■ンガポール到着 ――湿気の中の決意

1987年、チャンギ空港。

タラップを降りた瞬間、俊の頬を叩いたのは、

日本では決して感じたことのない、

重く、濃密で、身体の輪郭を曖昧にする湿気だった。


スーツケースの取っ手が手のひらに食い込み、

その痛みだけが、俊を現実へ繋ぎ止めていた。


(ここで、僕は“終わらせる”。

そして、始める。)


タクシーの窓から見える街は、

英語と中国語とマレー語が混じり合い、

どの言語にも属さない俊の身体のように、

境界が曖昧だった。


病院の白い外壁が視界に入ったとき、

胸の奥でひとつだけ、古い鼓動が震えた。


■ 術前 ――身体の最後の主張

病室で看護師が淡々と体毛を剃り落とす。

剃刀の刃が皮膚を滑るたび、

俊の身体は“男としての最後の抵抗”を

かすかに震わせていた。


浣腸で内臓の奥まで空になったとき、

俊は奇妙な浮遊感に包まれた。


昼間の診察室で、

ラトナム教授が俊の睾丸を掴んだときの

あの鈍い痛みが、まだ皮膚の裏に残っている。


(これが、檻の最後の音だ。)


俊は静かに目を閉じた。


■ 手術室 ――白い光の下で


手術室の扉が閉まると、

赤道直下の湿気は完全に遮断され、

**冷房の冷気と金属の匂いだけが支配する冬**が訪れた。


無影灯が点灯し、

俊の身体の凹凸を容赦なく照らし出す。


器械台の金属音が、

氷の粒のように空気を跳ねた。


ラトナム教授の手袋が、

パウダーの乾いた音を立てて指に馴染む。


俊はその音を聞きながら、

自分の身体が“これから別の形に縫い直される”ことを

静かに受け入れていった。


■ 麻酔導入 ――空白へ沈む瞬間


麻酔マスクが顔に当てられ、

冷たい酸素が肺に流れ込む。


白い薬液が静脈を滑り、

氷の粒が腕から肩へ、胸へと上昇していく。


その冷たさが心臓に触れた瞬間、

俊はふいに思い出した。


乃雅の下腹部に走る、あの一本の縫合痕の静けさ。


その“空白”だけは確かに胸の奥に残っていた。


(あの静けさの隣に立つには、

僕もまた、何かを手放さなければならない。)


無影灯の光が滲み、

金属の匂いが遠ざかり、

世界が白く溶けていく。


俊の意識は、

乃雅の“のっぺらぼうの平地”を胸に抱いたまま、

静かに落ちていった。


■ 覚醒 ――新しい空白の重み


目覚めたとき、

天井のファンがゆっくりと回り、

湿った熱帯の夜気が窓の外で揺れていた。


下腹部には、

硬質プラスチックのステントが深く押し込まれ、

内部から肉を引き絞るような鈍痛が走る。


尿道カテーテルが喉の渇きを強調し、

ドレインの袋に淡い赤が溜まっていく。


しかし俊の胸を満たしたのは、

痛みではなかった。


(……もう、ないんだ。)


衣服を突き破る不穏な突起も、

新陳代謝の雑音も、

もうどこにも存在しない。


俊は静かに脚を揃えた。

骨盤の傾きだけで、

完璧な菱形のラインが描かれる。


(乃雅、僕はようやく、

あなたの隣に立てる。)


■ 帰国 ――新栄町ビルへ


名古屋の湿気は、

シンガポールのそれとは違い、

どこか乾いた懐かしさを帯びていた。


スカートの奥では、

まだ癒えきらぬ縫合線が脈打ち、

歩くたびにステントが内部を押し広げる。


俊は前屈みになりながら、

新栄町ビルの真鍮のドアを押し開けた。


薄暗い部屋の奥に、

三つの影が浮かび上がる。


最初に動いたのは乃雅だった。

俊の腰のラインを見た瞬間、

喉仏が小さく上下した。


言葉はなかった。

だがその沈黙こそが、

二人の“空白”が共鳴した証だった。


泰代が立ち上がり、

俊の立ち姿を解剖学的な正確さで見つめる。


「……キレイ。

 私と同じね。」


その一言が、

俊の縫合線を熱く脈打たせた。


その時、

部屋の隅で静かに日記帳を閉じた聖が、

俊の歩幅と骨盤の傾きを一度だけ確認し、

まるで診察室で事実を告げるような声で言った。


「……切ったんだね、俊。」


驚きでも、哀れみでもない。

ただ、

“同じ境界に立った者”としての確認だった。


俊は小さく頷いた。

その頷きは、

自分の肉体の歴史をすべて受け入れた者だけが持つ、

静かな透明さを帯びていた。


聖はそれ以上何も言わなかった。

ただ、

俊の新しい“空白”を真正面から受け止めるように、

深く息を吸った。


俊は茶封筒をテーブルに置いた。

中には、

自分の肉体が解体され、

再構築されていく過程が記録されたフィルム。


乃雅の指先が震えながら封筒へ伸びる。


その瞬間、

四つの身体が初めて“同じ地平”に立った。


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