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理解と救いの境界線

放課後の図書室は、

窓の外の夕陽が本棚の影を長く伸ばし、

静けさが紙の匂いと混ざって沈んでいた。


乃雅は、返却カウンターの横で借りた本を抱えたまま、

授業のプリントを整理していた。


その背後で、

椅子がひとつ、ゆっくりと引かれる音がした。


「……乃雅くん」


振り向くと、綾女あやめが立っていた。


いつもの無表情ではない。

けれど笑ってもいない。

ただ、何かを決めた人間だけが持つ、

静かな緊張をまとっていた。


「今日、少し……話してもいい?」


乃雅は戸惑った。

綾女とは、まだ挨拶すら交わしたことがない。

教室ではいつも窓際で本を読んでいて、

誰とも群れない、

触れれば壊れてしまいそうな透明さを持つ少女。


「えっと……別に、いいけど」


綾女は一歩だけ近づいた。

その距離は、

“友達”が踏み込む距離ではなかった。


「あなたのこと、ずっと気になってたの」


乃雅は息を呑んだ。

その言葉には、

好意の熱も、恋の甘さもなかった。


ただ、

「同じ匂いを感じた」

 という、痛みに似た響きだけがあった。


綾女は続けた。


「あなた、教室に入ってきたとき……

 みんなは気づかなかったけど、

 私は分かったの」


乃雅の胸がざわつく。

何を?

どこまで?


綾女は視線を落とし、

自分の胸元を押さえるようにして言った。


「あなたの“静けさ”が、

 私の“沈黙”と同じ形をしていたから」


乃雅は言葉を失った。


綾女は、

乃雅の返事を待つように、

しかし怯えるように、

ほんの少しだけ手を伸ばした。


触れようとはしない。

ただ、

“届くかどうか”を確かめる距離まで。


「……ねえ、乃雅くん。

 あなたは、ひとりで平気な顔をしてるけど……

 本当は、誰にも触れられない場所を抱えてるでしょう?」


その声は、

恋ではなく、

救いを求める声だった。


「もし……少しでも、

 誰かに話したいと思ったら……

 私は、聞けるよ」


綾女はそれだけ言うと、

自分の言葉に驚いたように目を伏せ、

図書室の出口へと歩き出した。


乃雅は追わなかった。

追えなかった。


ただ、

綾女が残した“痛みの温度”だけが、

胸の奥で静かに揺れていた。


【女子部校舎の裏庭(夕方)】


放課後の校舎裏。

部活の掛け声が遠くに響き、

風が植え込みの葉を揺らしていた。


綾女は、校舎の影に立っていた。

乃雅と話した後の、落ち着かない呼吸を抱えたまま。


その背後から、

足音もなく泰代が現れた。


「……綾女さん」


振り向くと、

夕陽を背にした泰代が立っていた。

その表情は怒りでも嫉妬でもなく、

ただ“理解している者”の静けさだった。


「さっきの、見てたの?」


綾女の声は、少しだけ震えていた。


泰代は頷いた。


「ええ。

あなたが乃雅ちゃんに踏み込みすぎているのが、

少し気になったの」


綾女は唇を噛む。


「だって……私、分かる気がしたの。

乃雅くんの“静けさ”が……

私の中の沈黙と同じで……」


泰代は、綾女の言葉を遮らず、

ただ風の音が落ち着くのを待ってから、静かに言った。


「綾女さん。

 私たちは——XYなのよ」


綾女の肩がわずかに揺れた。


泰代は続ける。


「生まれた時から女の子として育てられた。

 外側は女の子の形をしている。

 黙っていれば、誰にも気づかれない」


綾女は目を伏せる。


泰代は、綾女の横に立ち、

同じ夕陽を見つめながら言った。


「でも乃雅ちゃんは違う。

 彼は“男の子として生まれた”。

 事故がなければ、普通の男性として生きていたはずの子」


綾女は息を呑む。


泰代は、綾女の方を向かずに続けた。


「私たちの“空白”は、

 内側に隠されていたもの。

 誰にも見えない沈黙」


「でも乃雅ちゃんの“空白”は、

 外側から奪われたもの。

 誰が見ても分かる喪失」


綾女の目に、初めて迷いが浮かんだ。


泰代は、優しく、しかし揺るぎなく言った。


「だからね、綾女さん。

 あなたが乃雅ちゃんに近づくなら……

 “救われたい”じゃなくて、

 “理解したい”でいてあげて」


綾女は、夕陽の光の中で小さく頷いた。

その頷きは、敗北ではなく、

自分の痛みの形を初めて認めた人間の頷きだった。


風が二人の間を通り抜け、

校舎の影がゆっくりと伸びていく。


泰代は最後に、

綾女の横顔をちらりと見て言った。


「乃雅ちゃんは、誰のものにもならない。

 でも……誰かを拒む子でもないの。

 焦らないで」


綾女は、

その言葉を胸の奥で何度も反芻するように、

静かに目を閉じた。



【綾女の独白(国立病院の帰り道)】


病院の自動ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。

外の空気は蒸し暑くて、蝉の声が耳の奥にまとわりつく。

母は何か言おうとして、結局、何も言わなかった。


私は歩きながら、自分の身体のどこかが、

さっき医師に告げられた言葉と噛み合わないまま、

空洞のように揺れているのを感じていた。


――染色体は、46,XYです。


あの瞬間、世界が裏返ったような気がした。

でも、痛みはなかった。

驚きも、怒りも、涙も、どこか遠くにあった。


ただ、胸の奥に、

“自分の身体が自分のものではなかった”

そんな感覚だけが、静かに沈んでいた。


私は女の子として育ってきた。

鏡に映る自分は、どこから見ても女の子で、

友達も、先生も、誰も疑わなかった。

私自身だって、疑ったことなんて一度もなかった。


なのに――

身体の奥には、子宮がなくて。

卵巣もなくて。

代わりに、鼠径部の奥に“精巣”があると言われた。


精巣。

その言葉が、胸の中で何度も跳ね返る。

私の身体のどこに、そんなものが隠れていたのだろう。

どうして、私はそれを知らずに生きてこられたのだろう。


母の歩く足音が、少し震えている。

私はその震えを聞きながら、

自分が慰めるべきなのか、泣くべきなのか、

それすら分からなかった。


――妊娠はできません。


その言葉だけが、妙に鮮明だった。

未来のどこかに、当たり前のように存在していたはずの

“母になる自分”が、音もなく消えていった。


でも、不思議と絶望ではなかった。

ただ、静かに、ひとつの道が閉じただけだった。


私は女の子として生きてきたし、

これからも、そう生きていくのだろう。

医師もそう言った。

母も、きっとそう思っている。


だけど――

“私は何者なのか”

その問いだけが、胸の奥でゆっくりと形を変えながら、

私の中に座り込んでいた。


蝉の声が遠ざかる。

夏の空は、やけに青かった。


私は歩きながら、

自分の身体の奥にある“知らなかった自分”と、

これからどう向き合えばいいのかを考えていた。


答えはまだ、どこにもなかった。


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