遅咲きのたんぽぽ(ダンデライオンの夜)
そのホテルの部屋は、昭和の終わりを予感させるような、
少し色褪せた臙脂色の絨毯が敷き詰められていた。
「……申し訳ございません。
当方の手違いで、ツインのお部屋がすべて埋まっておりまして……」
フロントでの事務的な平謝りの声は、
部屋の重い木製扉が閉まった瞬間に、
遠い過去の出来事のように霧散した。
視線の先には、部屋の中央を占領する、
不自然なほどに広い一つのダブルベッド。
白いシーツが、窓外から差し込む夕焼けの残光を浴びて、
淡い薄桃色に染まっている。
「ふふ、
なんだか本当に、新婚旅行みたいね」
泰代は鞄をライティングデスクの上に置くと、くすくすと低く笑った。
その仕草には、学校の窓際で見せる剃刀のような鋭さはなく、
どこか風に乗って運ばれてきた綿毛のような、はかない軽やかさがあった。
彼女が歩くたびに、紺色のワンピースの裾が揺れ、
夕闇に沈む部屋の中にフローラルな香料の匂いが微かに広がる。
「泰代さん……」
私は、部屋の隅に立ち尽くしたまま、自分の鞄を強く握りしめていた。
胸の奥を突き刺すのは、困惑ではない。
お爺ちゃんの書斎で彼女の身体の真実
――大陰唇の裏側に走る、
内なる真実を包み込んだ縦の抱合痕
――を知ってから、
彼女と二人きりで同じ記号の中に閉じ込められることに、
言葉にできない熱量の高い沈黙を感じていたからだ。
「何突っ立ってるのよ、乃雅ちゃん。
お風呂、先に使っていいわよ。
それとも……一緒に浸かる?」
悪戯っぽく細められた泰代の瞳には、
他者への値踏みを超えた、深い「認識」の色があった。
私たちは、お互いの形をすでに知っている。
現代医学が「例外」と切り捨てたその肉体の輪郭を。
浴室の白い湯気の中で、
私は恥丘から会陰へと走る一本の淡い縫合痕に触れた。
高校の女子部移動前は、ずっと私を支え、
男としての砦を守っていた座位用のエピテーゼは無い、
そこには圧倒的な「無」の領分が広がる。
突起も、それを包む精巣の重みもない。
ただ磨き上げられた大理石のように滑らかな、神聖なまでの空白。
備え付けの浴衣に着替え、部屋に戻ると、
泰代はすでにベッドの上に腰をかけていた。
彼女もまた、浴衣の襟元から覗く鎖骨が、病的なまでに白く発光しているように見える。
「ねえ、こっちに来て」
泰代が白いシーツを軽く叩いた。
私は促されるまま、マットレスの端に腰を下ろした。
古いスプリングが、私の体重をそのまま受け止めるように静かに沈む。
浴衣の薄い布地越しに、私の「空白」が、ベッドの平坦な面と直に触れ合う。
男としての隆起を持たないその場所は、座るという行為において、何の遮るものもない絶対的な沈黙を守っていた。
泰代がゆっくりと横たわり、私の方へ顔を向けた。
「私ね、ふるさとの両親から手紙が届くたびに、いつも泣きたくなるようなぎこちないぬくもりを感じていたの。『普通に女の子として幸せになりなさい』って言葉の裏にある、あの人たちの怯え。……でもね、乃雅ちゃんといると、本当の孤独なんてどこにもないんだって思えるわ」
彼女の手が、躊躇いながらもシーツの上を滑り、私の手のひらに重なった。
泰代の指先は、驚くほど冷たく、そして微かに震えていた。
「私はもう、あなたなしでは歩けない。
この世界にたった一つしかない私たちの形で、
これから先の未来を選び取っていくのよ」
窓の外では、完全に陽が落ち、遠くの街灯がタンポポの綿毛のように淡く滲んでいた。
ダブルベッドという、
本来なら男女の性愛のために用意されたその舞台の上で、
私たちはただ、お互いの内側と外側に存在する「空白」を静かに認め合うように、
一つの夜の深みへと沈んでいった。
シーツの擦れる乾いた音が、夜の静寂の中にしっとりと沈んでいく。
泰代が伸ばしてきた指先は、驚くほど冷たく、
しかし私の手のひらに重なった瞬間に、
彼女の内側が抱える微熱を確かに伝えてきた。
46,XYという遺伝子の悪戯。
男性ホルモンを頑なに拒絶し、
完璧な少女の肉体を選択した彼女の皮膚は、
どこまでも白く、きめが細かい。
「ねえ、乃雅ちゃん」
泰代の声は、暗がりのなかで剃刀の刃のように静かに響いた。
「お爺ちゃんの書斎で『羅切師乃本』を見たとき、
私ね、怖くなかったの。
……むしろ、
やっとパズルの最後のピースが見つかったような気がしたわ」
彼女はゆっくりと身体を寄せ、
私の浴衣の裾にその白い手を滑らせてきた。
その指先が、私の下腹部、完全な「無」の領域へと近づいていく。
男としての突起も、それを支える陰嚢の重みも存在しない、
ただ磨き上げられた大理石のような、滑らかな『空白』。
「……私のここにある傷はね、
内側からすべてを奪われた『聖痕』。
でも、あなたのこれは、
最初から未来を描くために用意された『白地』よ」
泰代の指先が、恥丘から会陰へと真っ直ぐに走る、
私の淡い桜色の縫合痕にそっと触れた。
一瞬、下腹部の括約筋が不随意にきゅっと収縮し、
尿道口のあたりにツンとした微かな痺れが走る。
それは、かつて男子トイレで鎧を失い、
冷たいタイルの上で世界の拒絶を味わった時の屈辱的な痛みではない。
彼女の指先を通じて、
私の『空白』という名の聖域が、
世界で初めて正しい肯定の意味を持って息を吹き返すような、
静かで激しい熱量だった。
「泰代さん……」
私は呼吸を止め、彼女の横顔を見つめた。
薄暗い部屋のなか、彼女の瞳はタンポポの種のように儚く、
しかし決して揺るがない決意を孕んで鈍く光っている。
「私には子宮がない。
卵巣もない。
……女の子として育てられたけれど、
生命を宿す器を持たないの」
泰代は自らの浴衣の帯に手をかけ、ゆっくりとそれを緩めた。
はだけた衣類の奥、大陰唇の裏側に潜む、
かつて停留精巣を摘出したあの細い縦の傷跡が、
夜の闇に浮かび上がる。
二つの縦の線。
私と彼女の身体に刻まれたその幾何学模様は、
鏡の表と裏のように完璧に符合していた。
「でもね、『羅切師乃本』に書かれていたわ。
失われた種を肉の檻の外で再契ぶ技術……人工生殖。
そして、境界を超えた胸から白い祈りを溢れ流す、授乳の術式。
……乃雅ちゃんの『白地』から作られる種を、
聖ちゃんの子宮が受け入れ、俊が女として支え、私が看護師として守る。
……血も、子宮も、元々の性別も全部関係ない、
私たちの『8人家族』が、あの本の中にすでに設計されていたのよ」
泰代の冷たい額が、私の鎖骨のあたりにそっと預けられた。
ぎこちない、けれどこれ以上ないほど純粋なぬくもりが、
シーツを通じて私の身体全体へと染み渡っていく。
「きみはダンデライオン……。
本当に、私たちは風に飛ばされた孤独な種ね」
私は彼女の細い肩をそっと抱きしめた。
「でも、
このダブルベッドの平地の上で、
私たちの『空白』は初めて一つになったんだ。
もう、あなたなしで歩くことなんてできないよ」
夜の重力が、臙脂色の絨毯を敷き詰めた部屋を深く満たしていく。
私たちは、既存の社会が規定した「男」と「女」の枠組みを静かに踏み越え、
まだ誰も見たことのない、
しかし医学的必然によって約束された未来の家族の輪郭を、
暗闇の中で手探りするように重ね合わせ続けた。
ダンデライオン
[名の由来,民俗]
タンポポの根は辛みがあるために
イエス・キリストの受難の象徴とされ、
また一般的にも辛苦の意味をもつ。
英名ダンデライオンdandelionはフランス語のダンドリオンdent de lion(ライオンの歯の意)が転訛したもので、
葉の欠刻がライオンの歯に似るためだという。
しかしフランスでは利尿剤に使うところからピサンリpissenlit(寝小便の意)とも呼ばれる。




