泰代のお爺ちゃん
黄昏の音楽室で、泰代から「お爺ちゃんが会いたがっている」という宣告を受けてから、
数日が経っていた。
その間、僕たち3人は、執行猶予中のように息を潜めて過ごした。
僕は夜、お風呂に入るたびに自分の平坦な『空白』を見つめ、
俊は毎日テープで『平地』を作りながら、
聖は下腹部の鈍い痛みに耐えながら、
それぞれの「理由」の重さに押し潰されそうになっていた。
そして、約束の週末がやってくる。
泰代に導かれるようにして、僕たち4人が足を踏み入れたのは、
鬱蒼とした雑木林に囲まれた古びた洋館だった。
そこは、泰代のお爺ちゃんの書斎。
重い木の扉を開けた瞬間、
鼻腔を突いたのは、
古い防虫剤と乾燥したホルマリンが混ざり合ったような、
酷く乾いた「医療の骸」の匂いだった。
壁一面の書棚には、医学書や古い解剖図譜が並び、
部屋の奥には、革張りの大きな執務椅子が置かれている。
そこに、その老人は座っていた。
「待っていたよ、阿野乃雅くん」
泰代のお爺ちゃんは、深く刻まれた目元の皺の奥から、
鋭い、けれどどこか狂気的な歓喜を孕んだ瞳で僕をじっと見据えた。
かつて多くの難手術を手がけた元外科医だという。
俊は無意識に『平地』を押さえながら、一歩下がった。
聖は僕の袖をちぎれんばかりに握りしめ、ガタガタと震えている。
「お爺ちゃん、約束通り連れてきたわよ」
泰代が、使い慣れた様子でデスクの明かりを灯した。
老人の手元にある一冊の古びた和装本を照らし出す。
「私の事を覚えているかな、もう8年前の事なので忘れてしまったかもしれないね。
君の出刃医だったんだ、医者を辞める最後の手術だった。」
お爺ちゃんは、指先で和装本の表紙を愛おしそうになぞりながら、低く、地響きのような声で笑った。
「素晴らしい……。
俊くんの精巧な『偽装』も、聖くんの『遺伝子の悪戯』も、医学の範疇で説明がつく。
だがね、乃雅くん。
君のその『空白』は、ただの事故の不運なんかじゃない。
あの夏の手術は、出血を止めるためだけに君の傷口を縫い合わせたが……それは嘘だ」
「え……?」
僕は、足元から崩れ落ちそうになる衝動を、辛うじて堪えて老人を見つめた。
老人は和装本を開き、江戸時代の絵図を僕たちに差し出した。
「君の肉体を美しく縫い上げたその術式は、
現代医学の教科書には載っていない。
それはかつて、江戸の裏社会で男を無に帰した闇の技術――の系譜だ。
乃雅くん、その技術の継承者だったのさ」
その本の表紙には、君の事が書かれている。




