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羅切師乃本

「乃雅くん。君の身体のことを、泰代からも聞いたよ。」

泰代は、膝の上で組んだ指をぎゅっと握りしめていた。まるで、この瞬間をずっと覚悟していたかのように。

その声は、医師のように冷静で、僧侶のように静かだった。

泰代のおじいちゃんは古文書をそっと撫でる。

「これは、我が家にだけ伝わる記録だ。

公の医学史には一切残っていない。

だが、確かに“存在した”人々の記録だ。」


乃雅は、祖父の手元から目を離せなかった。

「江戸の末期、紀州の山間部には“羅切師らせつし”と呼ばれる外科集団がいた。」

祖父の声は淡々としているのに、その言葉は乃雅の胸に深く沈んでいく。


「彼らは、 “肉を断ち、魂を残す” という独自の哲学を持っていた。」

ページをめくるたび、古い墨の匂いがふわりと立ち上る。


「欠損や喪失を“終わり”と見なさず、 “白地しろじ”と呼んだ。 何もないのではなく、 何にでもなれる余白だと。」

乃雅の心臓が、ゆっくりと脈打つ。


「乃雅くん。 君の身体は、事故で“奪われた”のではない。」

祖父は、まっすぐに乃雅を見た。


「羅切師の言葉で言えば…… 君は“白地”を得たのだ。」

乃雅の喉が震えた。


「白地とは、

 未来を描くための最初の一枚。

 誰にも汚されていない、

 誰にも規定されていない、

 純粋な始まりだ。」

乃雅の胸の奥で、何かが静かにほどけていく。


「泰代もまた、 “内側の真実”を抱えて生まれた子だ。」


祖父は優しく言う。

「君と泰代は、 羅切師の言葉で言えば、 “同じ地平に立つ者”だ。」

乃雅は、初めて自分の“空白”が“意味”を持つように感じた。

「乃雅くん。 これは、君が持っていなさい。」

乃雅は震える手で受け取る。

「君の身体は、 喪失ではなく、 “始まり”だ。」

その言葉は、乃雅の胸の奥深くに静かに沈み、消えずに残った。


泰代の祖父が乃雅に語る:泰代の身体の真実

「乃雅くん。

 生まれた時から、

 静かに戦ってきた、

 泰代の身体のことを、

 君にも話しておこう。」


その声は、まるで長い手術を終えた医師のように静かだった。

「泰代は、生まれつき アンドロゲン不応症(AIS) だ。」


乃雅は息を呑む。祖父は続ける。

「染色体は XY。

 だが、男性ホルモンが身体に届かない。

 だから、外見は“女の子”として育つ。」

その説明は、医学書のように正確で、しかしどこか祈りのように優しかった。


「泰代には、

 子宮がない。

 卵巣もない。

 大陰唇まで下りた、

 精巣が眠っていた。」

乃雅の胸が痛む。


泰代の祖父は、古い羅切師乃本を開きながら、静かに乃雅へ向き直った。

「乃雅くん。

 泰代の身体には、

 大陰唇の合わせ目に沿って、

 細い抱合痕が残っているだろう。」

乃雅は息を呑む。祖父は続ける。


「それは、現代医学で言えば 未下降精巣を摘出した痕だ。だがね……」

祖父は古文書の一節を指でなぞった。『抱合線に沿いて、内なる真実を静かに包み込むべし』


「羅切師は、

 泰代のような子を“異常”とは呼ばなかった。

 “内側に真実を宿す子”と記した。」

祖父の声は、まるで祈りのように静かだった。


「泰代の抱合痕は、

 手術の傷ではない。

 あの子が“自分の形”を選んだ証だ。

 羅切師の言葉で言えば……“内なる真実の封印”だよ。」

乃雅は胸の奥が熱く、きゅっと締めつけられるのを感じた。


「だがね、

 乃雅くん。

 それは“欠けている”のではない。

 泰代の身体が選んだ形なんだ。」


「泰代は、

 ずっと黙っていた。

 誰にも言わなかった。

言っても理解されないと知っていたからだ。」

祖父の声は、まるで孫娘の心をそっと撫でるようだった。


「だが、あの子は強い。

自分の身体を恥じたことは一度もない。

ただ、“説明されること”を恐れていた。」


乃雅は、泰代の沈黙の重さを思い出す。

「乃雅くん。

 君の“空白”を、

 泰代が一目で理解した理由……

 それは、あの子もまた“内側に空白を抱えていた”からだ。」


乃雅の胸が熱くなる。

「泰代はね、

 自分の身体が“普通”ではないことを、

 誰よりも早く理解していた。

 だが、それを悲劇とは思わなかった。」


祖父は微笑む。

「むしろ、誇りにしていたよ。

 “私は私の形で生まれた”とね。」


「泰代は、看護師を目指すだろう。

 自分と同じように“身体の真実”を抱える人を救いたかったからだ。」


祖父は、湯呑みを両手で包み込む。

「乃雅くん。

 あの子は、君の“空白”を恐れない。

 むしろ、誰よりも理解する。」

乃雅は、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じた。


「泰代の身体は、医学的には“例外”だ。

 だがね……」

祖父は、障子の向こうの夕陽を見つめた。


「例外とは、

 “世界に一つしかない形”という意味でもある。」

乃雅は息を呑む。


「泰代は、

 世界に一つの身体を持って生まれた。

君もまた、

 世界に一つの身体を持って生まれた。」

祖父は、ゆっくりと微笑んだ。


「だからこそ、君たちは出会ったんだよ、これから同じ道を歩くことになるだろう。」


羅切師乃本らせつしのほん

その古文書には羅切師たちの禁断の変錬術へんれんじゅつ

 単なる肉体の切除記録ではない、

 失われた種を肉の檻の外で再契むすぶ『人工生殖』、

 そして境界を超えた胸から白い祈りを溢れ流す『授乳』の術式――すなわち、

 禁断の変錬術が、絵図と共に克明に記されていた。

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