借り物の『平地』
「その『平地』は、借り物の『平地』。
一歩外へ出れば、重力が、湿度が、
そしてあんた自身の肉体が、
再びそれを『有』へと戻そうと襲いかかってくる。
……いい、俊。
乃雅ちゃんが一生をかけて背負うその『空白』を、
あんたは毎日、自分の手で作り続けなきゃならないのよ。
それが『模倣者』に課せられた、美しき刑罰なの」
俊は、なずなに促されるまま、震える足で立ち上がった。
『平地』を走る鈍い圧迫感。
テープが皮膚を強く引き絞り、
本来そこにあるはずの「重み」が消失している。
その不自然な軽やかさこそが、俊にとっては「正しい形」への予感だった。
「……叔母さん、おしっこに行きたくなったら、どうすればいいの」
俊の問いに、
なずなは鏡台に置かれた紅を指先で弄びながら、
冷たく、けれどどこか慈しむような声で答えた。
「座るのよ、俊。
膝を閉じ、背を丸めて、その『無』から滴り落ちる音を静かに聞きなさい。
それが、あんたが捨て去ろうとしている『肉の傲慢』が流す最後の涙だと思えばいいわ」
「……そうやって、お姉さんに、お医者さんを紹介してもらって、診断書を書いてもらったんだ。」
泰代は、突き刺した視線をそらさないまま、ゆっくりと唇を噛み締めている。
その沈黙を切り裂いたのは、俊の、酷く乾いた笑い声だった。
「……ふっ、はは。バグ、か。そうかもしれないね、乃雅」
俊は机の上に置いたままの、「診断書」を、愛おしそうに、指先でなぞった。
「でもね、乃雅。
僕のこの「診断書」は、
僕が模倣者として生きるために、
肉体に課した刑罰の証明書だ」
俊の瞳が、黄昏を反射して鈍く光る。
泰代は譜面台からゆっくりと身体を離すと、机の上の「診断書」から、僕たち3人の顔へと順番に視線を巡らせた。
「……なるほどね。よく分かったわ」
泰代は腕を組み、窓の外の、完全に陽の落ちた街並みを一瞥した。
泰代はポケットからペンライトを取り出し、自らの顔を青白く照らしながら、冷たく言い放った。
「うちのお爺ちゃんがね、阿野乃雅って名前を聞いて、会いたいって言ってるのよ」




