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乃雅の事故

泰代の真っ直ぐな視線が、僕の『空白』に突き刺さったまま動かない。

夕闇の影が、ピアノの重い光沢をじわじわと侵食していく。

「……生まれつき、じゃないんだ」

喉の奥から絞り出した声は、自分でも驚くほど細く、震えていた。


聖が息を止める気配が伝わる。

俊の瞳が、静かに僕を捉えた。

「俊みたいに、診断書があるわけじゃない。

 聖みたいに、内側から女の子の身体が育ってきたわけでもない。

 ……僕は、エラーじゃないんだよ。

 ただの、物理的な、破壊だ」


『空白』という言葉で優しく包まれていた場所が、急激に熱を帯びて疼き出す。

脳裏に蘇るのは、九歳のあの夏。

強烈な蝉時雨と、アスファルトから立ち上る陽炎、そして世界を真っ二つに引き裂いた、あの爆発音と衝撃の記憶。


「ただの、不運な事故だったんだ。」

握りしめたスカートの裾が、手のひらの汗でじっとりと湿っていく。


「激しい衝撃があって、

 気がついたら、

 病院のベッドの上にいた。

 ……お父さんも、

 お母さんも、

 みんな僕の顔を見て泣いていた。

 何が起きたのか分からなくて。」


言葉が震え、歯がガチガチと音を立てる。

泰代は身動きもせず、僕の言葉の雫を一つ残らず聞き漏らさないよう、鋭い目を向けたままだ。


「あれは小学3年生の夏だった、

 学校の帰り道、

 県道を歩いていると。

 目の前で大きな、爆発のような破裂音がした」

大型トラックのタイヤから剥離した塊の質量が、物理法則に従い、股間へと正確に収束した。


 「『痛い』と思うより先に、視界は真っ赤な夕焼けから、無機質な『白』へと反転した。 」

  宙を舞う視界の中で、見えた。

  自分の身体の一部であったはずの肉塊が、陽炎の向こう側へと、放物線を描いて弾け飛んでいくのを。 」

まるで、不要になったパーツを切り離して大気圏に突入する、孤独なロケットのような光景だった。

挿絵(By みてみん)

救急救命室(ER)の冷徹な記録

【緊急オペ記録:症例番号 70X-3】

・外傷状態: 会陰部から恥骨上部にかけての広範な皮膚および軟部組織の欠損。

 陰茎および両側精巣の完全な外傷性切断。尿道膜様部の破断。

・処置: 挫滅組織のデブリードマン後、残存する尿道を会陰部へ転位。

 陰嚢跡地は皮弁形成により完全に平坦化。

・所見: 男性としての生殖機能保持は不可能。

 しかし、骨盤底筋群の損傷は最小限に留まる。

 この「滑らかな閉鎖」は、将来的な形成外科的アプローチにおいて特異な基盤となる可能性。


深夜の病棟は、消毒液の匂いと加湿器の微かな音に支配されていた。

乃雅は重い瞼を持ち上げ、そっとシーツの中に右手を差し込む。

かつてそこにあった、不器用な自己主張を繰り返す「突起」を探して。

指先が触れたのは、分厚いガーゼと、その奥にある「絶対的な沈黙」だった。

起伏がない。

温度のゆらぎがない。

そこには、磨き上げられた大理石のような、あるいは一度もペン先が触れていない上質な原稿用紙のような、なめらかな皮膚が広がっているだけだった。

「無い」ということが、心臓の鼓動よりも大きく、ドクンドクンと指先に響いてくる。

それは喪失感ではなく、圧倒的な「空間の獲得」に近かった。


病室の遮光カーテンの隙間から、午後の陽光が鋭い槍のように差し込んでいた。

処置台の上に仰向けになった乃雅の視界には、無機質な天井のジプトーン模様と、執刀医の銀縁眼鏡の奥で光る冷徹な瞳だけが映っている。

「……よし。今日ですべて抜くよ、乃雅君」

ピンセットが微かに触れるたび、皮膚の突っ張りから解放される奇妙な感覚が走った。

ナイロン糸が抜ける小さな抵抗は、かつて自分をこの世界に繋ぎ止めていた「男性性」という名の古い未練を、一針ずつ解いていく作業のようでもあった。

最後のひと針が抜かれたとき、そこには痛みも、痒みも、不快な違和感さえも残っていなかった。

「終わったよ。……見てごらん。とても綺麗だ」

先生から手渡されたのは、使い古された円形のステンレス製手鏡だった。

それを震える手で受け取り、自身の『空白』へと向けた。

鏡の中に広がっていたのは、「男の子」の姿ではなかった。


「……無かったんだよ。

 男の子の象徴も、睾丸も、皮膚ごと全部、文字通り根こそぎ毟り取られていたんだ。

 引きちぎられたあとの肉を、

 ただ出血を止めるためだけに、

 お医者さんが平らに、

 平らに縫い合わせるしかなかった。

 だから、

 縦に一本の縫合痕があるだけで、

 僕は何もかもを失って『のっぺらぼう』になっちゃったんだ」


音楽室の空気が、完全に圧潰した。

誰も声を出すことができない。

『空白』の正体は、

神様の気まぐれでも神秘でもない、

ただの凄惨な暴力の爪痕だったのだ。


「だから、

 男子部の担任は僕に言ったんだ。

 『お前チンチン無いから女子部へ行け』って。

 大人たちにとっては、

 僕は男でも女でもない、

 ただの処理に困るバグでしかないんだよ。

 ……これが、

 僕がここにいる理由。

 僕がこのスカート制服を着させられている、

 本当の理由だよ」


言い終えたとき、音楽室にはただ、僕の激しい過呼吸の音だけが虚しく響いていた。

泰代は、突き刺した視線をそらさないまま、ゆっくりと唇を噛み締めた。


聖が鍵盤の前で、縋るような目を俊に向けて呟いた。

「俊はその診断書、誰かに教えてもらったの?」


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