第9話 お茶会での素敵な出会い
それは、初夏の柔らかな陽光が降り注ぐ日のことだった。
王都近郊に壮麗な屋敷を構える侯爵令嬢から、一通の招待状が届いた。
同年代の令嬢たちが一堂に会する、顔合わせを兼ねたお茶会への誘いだ。
春から夏にかけてのこの時期、社交界は最も賑わう。
夜会や茶会が連日のように開かれるため、普段は領地で過ごす貴族たちも、この季節だけは王都の邸宅へ移って生活することが多かった。
(……この時期のお茶会、前の人生でも出席した気がするわ)
鏡の前で身支度を整えながら、リディアはぼんやりと記憶を辿った。
けれど、いくら思い出そうとしても細かな情景は霧の向こうだ。
当時の自分にとっては、きっと取るに足らない社交の一つでしかなかったのだろう。
だが、今回は違う。
(ここで同世代の令嬢たちと、少しでも良い関係を築いておかないと)
将来、自分を待ち受けているかもしれない「断罪」という最悪の未来を避けるための布石でもあった。
(できることなら……もしまた何かが起きても、私の言葉に耳を傾けてくれる人がいてほしい)
そんな淡い、けれど切実な願いを胸に、リディアはお茶会の会場へ向かった。
会場となるサロンに足を踏み入れると、初夏の風と共に甘い花の香りが鼻をくすぐった。
磨き上げられた大理石の床。
大きく取られた窓。
明るい光を受けてきらめくティーセット。
すでに数名の令嬢たちが集まり、小さな輪を作って談笑している。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
リディアが丁寧に挨拶すると、主催者である侯爵令嬢が、花が綻ぶような笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「こちらこそ、お越しいただけて嬉しいですわ、リディア様。まあ……そのドレス、とても素敵ですこと」
感嘆混じりの声に、リディアは内心でそっと安堵した。
今日身につけているのは、深く落ち着いた青のドレスだ。
流行りの飾りをいくつも盛った派手なものではなく、線の美しさが際立つ上品な一着。
エマが「今のリディア様には、こういう方がずっとお似合いです」と強く勧めてくれたものだった。
(……良かった。これで正解だったのね)
「深い青がとても上品で、リディア様の白い肌によく映えていらっしゃいますわ」
「ありがとうございます。そう言っていただけて嬉しいです」
穏やかに返しながらも、胸の奥では少しだけ肩の力が抜ける。
以前の自分なら、目立つことばかり考えていた。
けれど今は、“浮かないこと”や“感じよく見えること”の方がずっと大事だと分かる。
リディアはその後も、他の令嬢たちと一人ずつ挨拶を交わしていった。
相手の家名、顔、雰囲気を頭の中で静かに整理していく。
そうして一通り言葉を交わし、ふとサロンの奥へ視線を巡らせた、その時だった。
大勢の令嬢の中でも、ひときわ異彩を放つ少女が、窓際で静かに立っていた。
背筋はすっと伸び、扇を畳む仕草一つとっても無駄がない。
赤みのある茶色の髪を高い位置で一つに結び、澄んだ瞳で周囲をどこか客観的に見ている。
(……あの子は)
リディアの心臓が小さく跳ねた。
前の時間軸でも、彼女のことはよく覚えている。
女性でありながら騎士のような気高さを持ち、学園では男女問わず多くの生徒に憧れられていた存在。
その少女が、リディアの視線に気づいて、柔らかく口元を上げた。
(――っ)
一瞬だけ、彼女の背後に大輪の赤い薔薇が咲いたような気がした。
かつてのリディア自身も、遠くからその姿に密かに憧れていたのだ。
「初めまして。カレン・エーデルと申します」
エーデル侯爵家の令嬢。
そして、後に剣も魔法も一流と名を馳せることになる少女だ。
「リディア・エルヴィンと申します。……カレン様、失礼ながら、あまりに立ち姿が美しくて見惚れてしまいましたわ。その赤いドレスも、髪のお色によく似合っていらして、本当に素敵です」
気づけば、胸の内にあった感嘆がそのまま口をついて出ていた。
カレンは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、すぐに少し照れたように微笑む。
「ありがとうございます。そんなふうに真っ直ぐに言っていただけるなんて、思いませんでしたわ」
「本当にそう思ったのですもの。……少し言いすぎてしまいましたかしら」
「いいえ。むしろ嬉しいです」
そう言って笑うカレンの表情は、凛々しい印象よりも少し柔らかかった。
その笑顔を間近に見て、リディアの胸はまた小さく高鳴った。
(……やっぱり素敵な方だわ)
⸻
その時だった。
ビリッ――と、布が裂ける鋭い音がサロンに響いた。
「きゃっ……!」
場の空気が一斉に揺れる。
振り向くと、少し離れた場所で一人の令嬢が、自分のドレスを押さえたまま真っ青になって立ち尽くしていた。
どうやら移動の際、幾重にも重なったフリルが家具の装飾に引っかかり、裾の一部が裂けてしまったらしい。
「まあ……」
「派手なものを着てくるから、ああなるのよ」
「お気の毒だけれど、少し目立ちすぎでしたわね」
扇の陰から、ひそやかな嘲笑が漏れる。
令嬢は顔を真っ赤にし、今にも泣き出しそうだった。
(……私も前は、あんなふうに飾りばかりを優先していたわ)
リディアはその姿に、一度目の自分を重ねた。
周囲の助言にも耳を貸さず、ただ華やかさだけを求めていた頃の自分。
もしエマの言葉を聞いていなければ、今日の自分が同じ目に遭っていたかもしれない。
リディアは迷わず歩み寄った。
「大丈夫ですわ」
そっと声をかけ、令嬢の冷えた手を取る。
「私の予備のドレスがありますから、そちらに着替えましょう。エマ、お願いできるかしら?」
控えていたエマがすぐに頷く。
「かしこまりました」
「そんな……エルヴィン様のお召し物をお借りするなんて、とても……」
令嬢はぶんぶんと首を振った。
その反応も無理はない。公爵令嬢の誂えたドレスなど、恐れ多すぎると思って当然だ。
「遠慮なさらないで」
リディアはあえて、少しだけ押し切るような調子で言った。
「私があなたに着ていただきたいのです。ですから、ここは甘えてちょうだい」
その言い方なら断りづらいと分かってのことだった。
「……ありがとう、ございます……」
令嬢は目を潤ませたまま、小さく頷いた。
別室へ移動し、エマが手際よく着替えを手伝う。
リディアが用意させたのは、装飾を抑えた淡いブルーのドレスだった。
「先ほどのドレスも華やかでお似合いでしたけれど、こちらの方があなたのお顔立ちがよく映えると思いますわ」
着替えを終えた令嬢の姿を見て、リディアは素直にそう思った。
余計な装飾が減った分、彼女自身の明るい雰囲気がよく見える。
「……本当に?」
「ええ。とても素敵です」
令嬢は涙の残る目で、それでも少しだけ笑った。
そのまま二人で会場へ戻る。
周囲の視線はまだ残っていたが、先ほどまでの露骨な嘲りは薄れていた。
リディアが間に入ったことで、あからさまに笑うわけにもいかなくなったのだろう。
そして、その一連の様子を、カレンが興味深そうに見つめていたことに、リディアはまだ気づいていなかった。
やがて茶会が本格的に始まると、話題は自然と最近の噂話へと移っていった。
「エルヴィン領の蜂蜜、素晴らしいと聞きましたわ。どんなお味なのですか?」
不意に振られた話題に、リディアは瞬きをした。
クリスタルスティングの蜜は、採取が始まってまだ日が浅い。
生産量も少なく、今はほとんど領内でしか使われていないはずだ。
(もう噂になっているのね)
「そうですね……とても澄んだ甘さ、とでも言えばよいでしょうか。濃いのに重たくなくて、後味がすっと消えていくような蜜ですの」
説明すると、令嬢たちがうっとりしたように息をついた。
「まあ、一度味わってみたいですわ」
「生産が安定したら商会を通して出せるようになると思います。その時はぜひ」
にこやかに答えながら、リディアは内心で少しだけ満足していた。
(これは、きっと売れるわね)
領地の特産品が求められている。
その事実が嬉しかった。
「この間、観劇の折にクラウス様とルーカス様をお見かけしたの。お二人とも一段と素敵になられていて……」
「そろそろ、王子殿下方の婚約者選びも本格的になるのではないかしら?」
「リディア様、何かご存じではありませんこと?」
好奇心に満ちた視線が一斉に集まる。
リディアは淑やかな微笑みを崩さず、ゆっくりとティーカップを傾けた。
「さあ……。恥ずかしながら、わたくしの耳にはまだ何も届いておりませんの」
「まあ、リディア様がご存じないのなら、本当にまだ先のお話なのかしら」
「セドリック様も、最近ますます大人びて見えますわよね」
「ローレンツ様も、あの優しいお顔立ちで……」
令嬢たちは次々と名前を挙げては、夢見るように頬を染めている。
リディアはどこか他人事のようにそれを聞きながら、出されたクッキーを一つつまんだ。
(……あら、これ。前の人生では気づかなかったけれど、とても美味しいわ)
サクリとした食感のあとに、ふわっとバターの香りが広がる。
「カレン様、このクッキー、とても美味しいですわ。ぜひ召し上がってみて」
隣のカレンに声をかけると、彼女は少し意外そうな顔で、それから小さく笑った。
「本当に。リディア様って、時々とても素直に物をおっしゃいますのね」
「良いものは良いと申し上げたいだけですわ」
「ふふ、それは素敵なことです」
そんな会話で少しだけ場が和らいだ、その時だった。
「ねえ、皆様お聞きになりまして? 神殿で“特別な祝福”を授かった少女がいるという噂を」
その一言に、リディアの指先がぴくりと止まった。
(……ついに、この話題が出たのね)
「ああ、“聖浄の祝福”でしょう?」
「邪気や呪いを祓う、神からの加護だとか……まるで物語の聖女様みたいですわ」
「今度、魔法学園へ入学するそうよ」
「下位貴族の出身なのに、すごい才能だとか」
サロンの空気が、驚きと好奇心でざわついていく。
リディアはカップを持つ手に力が入らないよう、そっと膝の上でドレスの裾を握った。
(フィオナ様……)
前の人生で、確かにその稀有な加護を宿していた少女。
純粋で、不器用で、それでも懸命に自分の役目を果たそうとしていた人。
「……素晴らしい力ですね」
少し考えるように、カレンが口を開いた。
「ですが、それほどの力を持つとなると、使う側の負担も相当なものではないでしょうか」
その言葉に、リディアははっとしてカレンを見た。
(……そうだわ)
力の華やかさばかりに目を奪われて、使う側の痛みなんて一度も考えたことがなかった。
前の人生では、ただ羨み、憎み、それだけで彼女を見ていた。
胸の奥が、氷を押し当てられたようにひやりと冷える。
(……前の私は、本当に愚かだった)
フィオナを思い出すと、悔しさとも後悔ともつかない感情がじくりと疼いた。
この時間軸では、絶対に同じ過ちは繰り返さない。
自分の破滅を避けるためにも、そして彼女を巻き込まないためにも。
余計な因縁を作らないこと。
それが今の自分にできる、せめてもの償いだ。
お茶会が閉会を迎え、令嬢たちが順に会場を後にしていく中、カレンがリディアのもとへ歩み寄ってきた。
「リディア様」
「はい?」
「もしよろしければ、また……こうしてお話しさせていただけませんか?」
一瞬、リディアは言葉を失った。
それからすぐに、ぱっと顔を明るくする。
「……ええ、もちろんですわ。喜んで」
(嬉しい……!)
前の人生では、遠くから見ているだけだった憧れの人。
けれど今、その距離は確かに少し近づいている。
(この出会いを、無駄にはしない)
新たな希望の灯を胸に、リディアは去っていくカレンの背中を見送りながら、やわらかく微笑んだ。




