第10話 図書館でも出会いは落ちている
父の蔵書を見せてもらったあの日を境に、リディアの日常は少しずつ色を変えていった。
父アルヴィス、そして兄アレクシスと共に、古い魔術や異種族の伝承を研究する時間が、今の彼女にとっては何より楽しみなものになっていた。
研究といっても、決して堅苦しいものではない。父の書斎や陽光の差し込む図書室で、それぞれが気になった古書を持ち寄り、疑問を投げ合う——そんな穏やかで知的なひとときだ。
「ええと……この単語は……何だったかな」
分厚い古書を片手に、アルヴィスが眉を寄せる。
その横で、アレクシスはすでにインク壺の蓋を開け、記録用の紙を広げて待機していた。
「お父様、それは“トロールの精巣”ですわね」
「おお、助かった」
アルヴィスは何のためらいもなく頷いた。
「さすがリディアだ。辞書を引く手間が省ける」
「省ける、じゃありませんわ」
「研究は辞書を開く時間も惜しいときがあるのだ」
「そう言ってお父様は時々、食事中にも変な単語を口になさるのですよね」
リディアが少し呆れて言うと、アレクシスが堪えきれずに吹き出した。
「確かに。母上が聞いたら空気が凍るな」
「お前たち、父を何だと思っている」
「研究者ですわ」
「研究者ですね」
兄妹に揃って返され、アルヴィスはわざとらしく肩を落とした。
「……まったく、おそろしい子どもたちだ」
そう言いながらも、目元は少し笑っている。
リディアはくすりとしながら本へ視線を戻した。
「今回の文脈だと、薬効というより儀式用ですわね。後ろの挿絵も……かなり不穏ですし」
「なるほど、だからこんなに嫌な感じの図が多いのか」
アレクシスが顔をしかめながら記録していく。
彼の《記録》の加護は、一度見聞きした情報を正確に写し取るのに優れている。整理役としてはこれ以上ない適性だ。
「こうしてまとめられるのは、やっぱりアレクシスの力が大きいな」
アルヴィスが感心したように言う。
「リディアが読み、アレクシスが残す。完璧な布陣じゃないか」
そこまで言ってから、アルヴィスは不意に感極まったような顔になった。
「……なんて果報者なんだ、私は」
「また始まりましたわ」
「優秀で可愛い子どもを二人も授かるとは。神々に感謝せねばならん」
「父上、それはもう朝晩の祈りでやってください」
アレクシスが呆れたように言うと、アルヴィスは「それとこれとは別だ」と真顔で返した。
リディアはそのやり取りを見ながら、ふと胸の奥がやわらかくなるのを感じた。
(前の私は、この時間の良さなんて全然分かっていなかったのね)
地味で面白みのない加護だと思っていた。
けれど、こうして誰かの役に立てるのは思っていた以上に嬉しい。
前の人生で読んだ本の数なんて、とっくに超えている。
知識が増えるたび、世界の見え方まで少しずつ変わっていくようだった。
ある日、アルヴィスがふと思い出したように言った。
「今日は国立図書館へ行くのだが、リディアも一緒に来るか?」
「はい! ぜひ行ってみたいですわ」
返事が少し弾みすぎたのか、アルヴィスとアレクシスが同時にこちらを見た。
「そんなに嬉しいのか」
「……嬉しいです。あの、行ったことがありませんもの」
本当は、前の人生でも行こうと思えば行けたはずだ。
けれど当時のリディアは、図書館より華やかな店や社交の方にばかり気を取られていた。
(今思うと、もったいないことをしたわ)
馬車に揺られながら、リディアは窓の外の街並みを眺めた。
「それで、ご褒美は何がいい?」
不意にアルヴィスがそんなことを言い出す。
「ご褒美?」
「あれだけ資料の整理を手伝ってもらったからな。何か欲しいものがあるなら聞こうと思っていた」
少し考えてから、リディアは口を開いた。
「先日のお茶会でいただいたクッキーがとても美味しかったのです。街の中心部に新しいお店ができたと聞きましたので、帰りに寄っていただけますか?」
アルヴィスが一瞬きょとんとして、それから笑った。
「そんなものでいいのか」
「そんなものとは何ですか」
「ははは。では、店ごと買い取ってしまおうか」
「やめてくださいませ!」
リディアが思わず強めに返すと、前に座っていたアレクシスが肩を震わせた。
「父上ならやりかねないから笑えないな」
「何だその言い方は」
そんな軽口を叩いているうちに、馬車は国立図書館へと到着した。
国立図書館は、初めて目にするリディアにとって、少し圧倒されるほど壮大だった。
高い天井。
迷路のように連なる巨大な書架。
紙とインク、それに古い革表紙の混じった静かな香り。
(……すごい)
自然と歩幅が小さくなる。
アルヴィスは受付近くで知人に声をかけられ、少し席を外した。
アレクシスも父の資料運びを手伝うためにそちらへ行ってしまう。
少しだけ一人になったリディアは、近くの書架を見上げた。
ずらりと並んだ背表紙。
その多くが、自分の知らない文字で書かれている。
「……君、何をしているの?」
不意に背後から声をかけられ、リディアはびくりと肩を揺らした。
振り返ると、そこには少し寝癖の残るやわらかな亜麻色の髪の少年が立っていた。
ふわりと、心安らぐようなハーブの香りが漂ってくる。
「……どんな本があるのか、タイトルを眺めていたの。あまりに膨大で、圧倒されてしまって」
少年はリディアの返答より先に、棚の方へ目を向けた。
「えっ……ここ、読めるの?」
目を丸くしている。
「ここ、古代語の区画だよ?」
「ええ。そういう加護を授かりましたの」
その瞬間、少年の瞳が夜空の星みたいに輝いた。
「すごい!」
少し大きめの声に、近くの司書がちらりとこちらを見た。
少年は慌てて口元を押さえ、「失礼」と小声になる。
「それじゃあ、あの辺の魔導書も? 向こうの棚の、あの妙に分厚いやつも?」
「努力が必要なものもありますけれど、大抵の言語なら」
「それ、すごいどころじゃないよ……」
少年は本気で感嘆しているようだった。
「言葉の壁を越えられるなんて。君が触れることのできる世界はとんでもなく広いんだろうね」
その言葉に、リディアは少しだけ目を見開いた。
前の人生では、この力を大したことのないものだと思っていた。
便利ではあっても、派手さのない地味な加護だと。
でも今、目の前の少年は、何の迷いもなくこの力を尊いものとして見てくれている。
「……ありがとう」
気づけば、素直にそう言っていた。
「そんなふうに言っていただけると、自分の力が少し誇らしく思えますわ」
にっこりと笑うと、少年は一瞬、ぽかんとした顔になった。
「……わあ」
「……何ですの?」
「いや、その……笑うと、白銀のバラが咲いたみたいだなと思って」
「え?」
「銀色の髪と、その笑顔。ぱっと、冬の朝に咲いた花みたいで綺麗だったから」
「……っ!」
あまりにさらりと言われて、リディアは思わず言葉に詰まった。
(な、何なのこの方……)
わざとらしい口説き文句のようには聞こえない。
だからこそ余計に困る。
少年はその反応に気づいていないのか、ぶつぶつと何か考え込み始めていた。
「白銀のバラ……エルヴィン公爵家……紋章はグリフォン……」
「……どうして、私がエルヴィン家だと分かったのですか?」
「ああ、それは」
少年はあっさり答えた。
「エルヴィン公爵と一緒に入ってきただろう? 公爵閣下は尊敬している方だから、つい見てしまうんだ」
その言い方が妙に自然で、リディアは少しだけ笑ってしまう。
「まあ。では、あなたは?」
「失礼。僕はトビアス・アイゼン」
その名を聞いた瞬間、リディアの記憶がはっきりと繋がった。
(そうだわ……トビアス様)
アイゼン公爵家の嫡男。
学園では常に上位を争う天才。
前の人生では、世界が違いすぎてほとんど接点がなかった相手だ。
「君と本の話ができて、今日はかなり幸運な日だよ」
そう言って笑うトビアスは、家格を鼻にかける様子がまるでない。
むしろ、面白い本を見つけた時の子どもみたいな顔をしていた。
そこへ、父アルヴィスが戻ってきた。
「リディア、ここにいたか」
トビアスはすぐに居住まいを正し、礼儀正しく頭を下げる。
「初めまして、公爵閣下。トビアス・アイゼンと申します。お嬢様に少し、本のお話を伺っておりました」
「おお、アイゼン家のご子息か。相変わらず本が好きなようだね」
「はい。今日は思いがけず、素敵な出会いまでありました」
その言い方に、リディアは少しだけむずがゆくなる。
トビアスは去り際、ためらいなくリディアの方へ手を振った。
「リディア嬢。またこの知の迷宮で――あるいは、別の場所で会えるのを楽しみにしています」
「ええ。きっと」
そう返すと、トビアスは満足そうに笑って去っていった。
その背中を見送りながら、リディアは胸の奥に温かなものが残っているのを感じた。
新しい知識。
新しい出会い。
そして、自分の力を自然に価値あるものとして見てくれる人。
(……悪くないわね)
前の人生では、見ようとしなかったものばかりだ。
「さて、リディア」
アルヴィスが機嫌よく声をかける。
「約束のクッキーを買いに行こうか。」
「はい、お父様!」
リディアは晴れやかな気持ちで頷いた。
知ること、学ぶこと、そして誰かと心を通わせること。
それらがこんなにも心を豊かにするのだと、以前の自分は少しも知らなかったのだ。




