第11話 歴史と鉱石
窓の外には、北国らしい澄み切った青空が広がっていた。
夏の陽射しが明るく差し込み、書斎の机を照らしている。それでも窓辺を抜ける風には、北の地らしい涼やかさがあった。
今日の午前中は、家庭教師との講義の日だ。
重厚な木の書棚に囲まれた書斎には、紙とインク、それに古い革表紙の混ざった匂いが満ちていた。
リディアの向かいに座っているのは、幼い頃からエルヴィン家に仕える老家庭教師――フランツ先生である。
痩せた指で眼鏡を押し上げ、先生はわざとらしく咳払いを一つした。
「さて、リディア様。本日は我がヴァルディア王国の建国伝承について、改めてお話しいたしましょう」
先生の声音はいつも通り厳かだが、その目元にはどこか嬉しそうな色がある。
昔話や伝承の類になると、この先生は途端に饒舌になるのだ。
「公爵令嬢たるもの、歴史をただ暗記するだけではいけません。言葉の奥にある誇りや流れを理解してこそ、ようやく自分の立つ場所が見えてくるのです」
「はい、先生」
リディアが背筋を伸ばすと、先生は満足そうに頷き、分厚い本をゆっくりと開いた。
「そもそも建国伝承というものは、どの国にも多少の脚色があるものですが――おや、そういえば昔、南方の小国で“建国王が巨大魚に乗って海から現れた”という伝承を読んだことがありましてな」
「先生、脱線なさっています」
「む……いけませんな。ですが、歴史の寄り道もまた学びで――」
「先生」
「はいはい、本題に戻りましょう」
少ししょんぼりした顔で咳払いをし直し、先生は朗読を始めた。
「太古、世界はまだ混沌のただ中にあり、神々は大地を築き、山河を作り、最後に粘土から人を形作った――とされております」
先生はところどころ本を閉じて、自分の言葉で補足を入れる。
そのせいで授業はよく横道に逸れるが、乾いた暗記にはならない。
「つまり、人とは神の“最後の作品”である、と。この考え方が、今もヴァルディアの信仰の根っこにあります」
リディアは頷きながら、ノートに走り書きをしていく。
「その後、神々は人に作物の育て方や織物、そして“言霊”――今でいう魔法の種を授けたと伝えられております。ここが重要ですな。ヴァルディアでは魔法は便利な力であると同時に、“神から預かったもの”という感覚が抜けません」
先生はそう言って、一度目を細めた。
「だからこそ、加護も魔法も、人のため国のために使うべし、という教えに繋がっておるわけです」
(……そこが、良くも悪くもこの国らしいところなのよね)
リディアは心の中でそう呟いた。
フィオナのことが脳裏をよぎる。
与えられた力が、そのまま生き方を縛ることも、この国では珍しくない。
「人は増え、神々を崇め、その偉大なる力に感謝と畏怖を捧げておりました。
しかしある時、増長した人々を戒めるため、天より巨大な岩が落とされました。世界が灰燼に帰そうとしたその時、神の血を引く半神の英雄レオンハルトが、ただ一人立ち上がったのです。
彼は巨岩を己の身で受けとめ、この大地を救ったのです。そしてその岩こそが、今も王宮の背後にそびえる、あの雄大な岩山だと伝えられておりますな」
「あの大きな岩山に、そんな壮大な伝承があったのですね……」
リディアは思わず感嘆の吐息を漏らした。
「それから、神々が去った後、人は自ら立ち、やがて英雄レオンハルトの血を引くフリードリヒ・レオンハルトが、四人の忠義なる友と共に国を築いた――これが建国伝承の骨組みです」
先生は指先で机をとんと叩いた。
「王家が中央に立ち、その四方を四大公爵家が支える。今の形は、この時からほとんど変わっておりません」
「北のエルヴィン、南のヴァルデック、東のアイゼン、西のグラウ……ですね」
「左様」
先生は機嫌よく頷いた。
「エルヴィン家は知と研究、外交、学術を担う家です。リディア様のように本を読むお方が増えるのは、実に喜ばしい――おや」
そこで先生のまぶたが、ふっと閉じかけた。
「先生?」
「……はっ。寝ておりませんぞ。今のは考えを深めていただけで」
「ふふ、本当に?」
「本当です」
先生はそう言い張ったものの、耳が少し赤い。
リディアは笑いをこらえながら、もう一度ノートへ目を落とした。
前の人生なら、こういう授業は退屈なだけだった。
けれど今は違う。
伝承の真偽そのものより、そこから今の国の形がどうできたかを考えるのが面白かった。
どこまでが神話で、どこからが政治なのか。
その境目を想像するだけで、頭の奥が少し熱くなる。
授業が終わる頃には、机の上には文字がびっしり並んでいた。
午後からは、父アルヴィスと、学園から戻る兄アレクシスと共に、領地の銀鉱山へ向かう予定になっていた。
きっかけは、先日三人で読み解いた古文献である。
そこに、特定の鉱石だけを浮かび上がらせるらしい「透過魔法」に関する記述があり、試してみようという話になったのだ。
リディアはエマに手伝ってもらい、長い銀髪を邪魔にならないようきっちり編み上げた。
厚手の旅装に着替えると、エマが不安そうに眉を寄せる。
「リディア様、本当に危ないところへは行かれませんよね?」
「入口付近だけよ。お父様もお兄様も一緒だし、大丈夫」
「それでも心配ですわ……」
エマは納得しきらない顔をしていたが、それ以上は言わなかった。
その時、廊下の向こうから勢いのある足音が聞こえてきた。
「ただいま! 間に合った!」
扉を開けて入ってきたのはアレクシスだった。
学園から戻ったばかりだというのに、すでに顔つきが少し浮き立っている。
「お兄様、ずいぶんお早いですのね」
「馬車をちょっと急がせた」
「ちょっと、で済ませた顔ではありませんわね」
「父上も同じ顔をしてるよ、きっと」
その言葉通り、すぐ後から現れたアルヴィスの目も、妙にきらきらしていた。
革鞄にはロープや小型のハンマー、記録板まで入っている。
「よし、行くぞ」
「お父様、楽しみにしすぎではありませんか?」
「未知の魔法の実地試験だぞ。楽しみにしない研究者がどこにいる」
あまりにも堂々と言い切られ、リディアは思わず笑ってしまった。
アルヴィス自ら大荷物を背負って現れたので、使用人たちは驚いて慌ただしくアルヴィスから荷物を預かる。
「旦那様、お荷物は我々がお持ちいたしますので……」
「ああ、悪い悪い。ついな」
従者にやんわりとたしなめられ、アルヴィスは苦笑した。
銀鉱山へ向かう途中、どこで聞きつけたのか、騎士団長ハンスと副団長ルッツも同行することになった。
「鉱山には魔物も出ますし、足場も悪い。旦那様方だけで行かせるわけにはいきません」
ハンスの口調はきっぱりしていた。
護衛というより、半分は監視である。
実際、二人の放つ威圧感のせいで、道中は拍子抜けするほど平穏だった。
鉱山の入口をくぐると、湿った空気が頬を撫でた。
中は薄暗く、岩肌には古い採掘の跡が残っている。
少し進んだところで、アルヴィスが足を止めた。
「この辺りでいいだろう」
父は鞄から魔法陣の写しを取り出し、平らな地面に広げた。
その中央に、足元に落ちていた何の変哲もない石ころをそっと置く。
「この魔法の要は“同一波形の排除”だ」
アルヴィスが説明を始める。
「中心に置いた石の魔力波形を基準にして、周囲の似た波形――つまり大部分の岩盤を一時的に視覚から透過させる。そうすれば、異なる鉱石だけが浮き上がって見える、という理屈だ」
ハンスとルッツは興味深そうに魔法陣を覗き込む。
父は得意げに古文献から読み取った呪文を唱え始めた。
だが。
魔法陣は青白く弱く光るだけで、岩壁には何の変化も起きない。
「……おかしいな」
アルヴィスが眉を寄せた。
「お父様、その音節の抑揚が少し違う気がしますわ」
リディアが遠慮がちに言うと、父は露骨に顔をしかめる。
「分かっている。だが、未知の魔法をいきなりお前に使わせるのは不安なんだ」
「では、俺がやりましょう」
アレクシスが一歩前へ出た。
「正確に再現するのは得意ですから」
杖を構え、広げた魔法陣と中央の石へ意識を集中させる。
リディアは固唾を呑んで、兄の横顔を見つめた。
「――透過せよ」
紡がれた音は、驚くほど滑らかだった。
次の瞬間、世界が変わる。
目の前の岩壁や足元の地面が、まるですりガラスのように淡く透け、その奥に埋まっているものだけがぼんやりと浮かび上がったのだ。
「……っ!」
リディアは思わず息を止めた。
黒に近い半透明の層の向こうで、ところどころに細い光が走っている。
鈍い銀白色の筋。
それがいくつも、岩の中に眠っていた。
「見えた……!」
アレクシスが息を荒くしながら呟く。
「銀鉱ではない、別の反応も混じっているな」
アルヴィスが前のめりになる。
その光は、普通の銀よりも冷たく澄んでいた。
「……普通の銀とは、光り方が違いますわね」
リディアがそう呟いた瞬間、父がはっと顔を上げた。
「ああ。恐らく、ミスリルではないだろうか」
「……ミスリル」
「断定はできない。だが、その可能性は高い」
だがその直後、透過の術がふっと解け、視界は元の無骨な岩壁へ戻った。
「はぁ……っ」
アレクシスが杖を支えに肩で息をする。
「維持がきついな……数秒が限界だ」
「かなり魔力を使うのね」
リディアが駆け寄ると、アレクシスは苦笑した。
「便利だけど、乱用できる魔法ではなさそうだ」
アルヴィスは岩壁をじっと見つめたまま、すぐには何も言わなかった。
やがて、落ち着いた声で口を開く。
「ハンス、ルッツ。ここはすぐに大規模採掘へ移るのではなく、まず封鎖だ」
「はっ」
「信頼できる鉱夫と技師だけを呼ぶ。外への口も慎重にしろ。ミスリルなら価値は高いが、だからこそ余計な目を引く」
ミスリルの発見は大きい。
しかし、すぐに掘って終わりという話ではない。
採掘路の安全確認。
精錬の手配。
権利関係。
そして、王都や他家にどう伝えるかという政治。
成果は大きい。けれど、そのまま即利益になるわけではない。
その現実を、リディアは改めて学ぶことになった。
帰り道、父は珍しく静かだった。
興奮はしているのだろうが、頭の中ではもう次の段取りを組み始めているのだろう。
「お父様」
「うん?」
「……成功、でしたわね」
そう言うと、アルヴィスはようやく少しだけ笑った。
「ああ。だが、ここから先の方が長いぞ」
「はい」
「それでも」
アルヴィスはちらりと娘を見た。
「お前たちと読んだ古文献が、こうして現実の役に立ったのは嬉しい」
その言葉に、リディアの胸の奥がじんと温かくなる。
ふと、晶蜂蜜のことを思い出した。
あの時も、すぐに何かが変わったわけではない。けれど確かに、そこから新しい流れが生まれたのだ。
馬車の窓の外には、澄んだ青空がどこまでも広がっている。
北の短い夏の光を浴びながら、リディアは胸の奥に、小さな期待が灯るのを感じていた。




