第12話 社交界デビューの準備
その朝、エルヴィン家の玄関ホールは、いつもより少しだけ賑やかだった。
魔法学園を卒業したアレクシスが、王都の外交院へ初めて出勤する日だ。エルヴィン家は代々、研究や外交補佐に深く関わってきた家柄で、記録の加護を持ち、学園でも優秀な成績を収めていたアレクシスが外交院へ進むのは、ごく自然な流れでもあった。
「お母様、では行ってまいります。夜には戻る予定です」
アレクシスが、エレノアに向かって気取った様子で礼をした。
「ええ、行ってらっしゃい。くれぐれも礼儀を忘れずに。初日なのだから、上の方々の話はしっかり聞くのよ」
「はい、分かっています」
アレクシスはかすかに苦笑しながら、リディアへと視線を移した。
「リディア、兄の初出勤に何か励ましの言葉くらいないのか?」
「そうですね……くれぐれも居眠りなんてしないようにお気をつけてくださいませ、お兄様」
「失礼だな。僕がそんなへまをすると思っているのか」
「思っていませんわ。だから"くれぐれも"と言ったのです」
アレクシスが軽く肩をすくめ、それから笑った。
「まあいい。お前も来年には社交界デビューだろう。そろそろしっかり準備しておけよ」
「……余計なお世話ですわ」
「はは。では行ってくる」
玄関の扉が開き、夏の光がさっと差し込んだ。アレクシスの背中が遠ざかるのを、リディアとエレノアは並んで見送った。
扉が閉まるのを見届けてから、エレノアが微笑んだ。
王都では毎年、春の訪れとともに社交シーズンが幕を開ける。その始まりを告げる王家主催の「春の舞踏会」は、貴族の子女が一人前の淑女や紳士として社交界へ正式に顔を出す、大切な節目でもある。
「アレクシスの言う通り、あなたの社交界デビューの準備をそろそろ本格的に始めなくてはね」
「社交界デビューのドレスは、今あるもので大丈夫ですわ。新しく作る必要はありません。別に白にこだわる必要はないかと思います」
リディアは前世で湯水の如くお金を使っていたが、今はお金を使うことに抵抗があった。
お金を不要な物に使いすぎたり、わがままを言ったら、また追放されることになってしまうのではないかという恐怖があった。
「リディア、そういうわけにはいかないのよ。王家主催の春の舞踏会で着るものなのよ。白を基調とした公爵令嬢らしい装いにしないと、お父様の顔に泥を塗ることになってしまうわ」
母エレノアが、諭すように優しく言う。
「そんなことを気にする方々のことなど、放っておけばよろしいのです」
「まあ。あんなにドレスを新調するのが大好きだったじゃない。どうしてしまったのかしら」
エレノアが困ったように頬に手を添える。
「あなたが何と言おうと、ドレスの新調は決定事項ですからね」
ふー、とため息をついて、エレノアは先にサロンの方へ戻っていった。
リディアも自室へ戻ると、思わず小さく息を吐いた。
「いらないと言っているのに……」
「リディアお嬢様。来年の春、王都の社交シーズンの幕開けを告げる舞踏会でお召しになるドレスですもの。白を基調とした美しいドレスは、きっとお嬢様をより一層輝かせてくださいますわ」
侍女のエマが、にっこりと微笑んで紅茶を差し出した。
「エマまで……。あなたも、新調した方が良いと思うの?」
「もちろんです! 美しいお嬢様のお姿を拝見するのが、今から楽しみで仕方ありませんもの」
リディアは少し考えた。
今までエマの意見を取り入れて失敗したことがなかったからだ。
「……そう。エマがそこまで言うなら、作ろうかしら」
「えっ!?」
あまりにあっさりと意見を変えたリディアに、エマ自身が目を丸くした。
「当日の身支度も、エマが中心になってやってくれるかしら」
「はい! もちろんです。お任せくださいませ! お嬢様の美しさが隣国にまで轟くよう、全力を尽くしますわ!」
「隣国って……。それなりでいいのだからね」
目を輝かせるエマに、リディアは苦笑した。
前の時間軸では、装いに異様なほど執着していた。
けれどそれはすべて、クラウスに振り向いてほしい一心だったのだと、今なら分かる。
彼との結婚を望まない今、自分を飾り立てることへの興味は、自然と薄れていた。
数日後、エルヴィン家御用達の仕立て屋の店主とデザイナーが訪れた。
夏の明るい日差しがサロンの窓辺を照らす中、気合の入ったエレノアとエマ、そして所在なげなリディアがサロンに集まった。
「お久しぶりでございます、リディアお嬢様」
店主とデザイナーが、深々とお辞儀をした。
「久しぶりね。今回も頼りにしているわ」
ドレスへの無関心を悟られないよう、リディアは淑女らしい完璧な微笑みを浮かべた。
大きなトランクから、最高級のシルク、ベルベット、タフタ、サテンといった生地見本が次々と取り出される。
(生地だけで、気が遠くなるような量ね……)
「すべて、エルヴィン公爵家の令嬢であられるリディア様のために、国内外から集めた最高級品にございます。来春の春の舞踏会にふさわしいものだけを、厳選してまいりました」
店主が誇らしげに、艶やかな布を並べていく。
「あら、この生地も素敵。こちらもなかなかね」
「本当ですわ、奥様! どれもリディアお嬢様のためにあるような素晴らしいものばかり!」
エレノアとエマが楽しそうに声を弾ませ、盛り上がっている。
(二人が楽しそうなら、それでいいわ……)
ふと、見覚えのある光沢のある生地が目に入った。前の時間軸で、リディアが選んだ生地だ。
「……あ、その生地だけはやめてちょうだい」
「あら、素敵なのに。どうしてダメなの?」
「なんとなく、嫌なの。他にも素晴らしい生地はたくさんあるのでしょう?」
エレノアは不思議そうに首を傾げたが、「あなたがそう言うなら」と深くは詮索しなかった。
すると、デザイナーが奥のトランクから、一際慎重に一枚の生地を取り出した。
「『大真珠貝の絹』はいかがでしょうか。海に住む魔獣『大真珠貝』の足糸から取れる、極めて希少な糸で織り上げたものです」
その生地は、単なる白ではなかった。虹色の光沢を内包した乳白色で、角度を変えるたびにオーロラのように色が揺らめく。
「この絹は、深海の圧力を受けて鍛えられた強靭な糸でございます。これに銀の刺繍を施すには、並の針では折れてしまうでしょう。魔法で強化したミスリル針を用い、一針一針、お嬢様の輝かしい未来を祈りながら縫い上げさせていただきます」
「まあ……! なんて神秘的な生地なの」
エレノアがうっとりとその布地を見つめる。
「これは滅多に市場に出回らぬ逸品。私も非常に苦労して手に入れました。これほどのものを身につけられるのは、公爵家か王家の方くらいでしょうな」
店主がさらに誇らしげに胸を張る。
エマも「素敵……!」と目を輝かせた。
「本当に、素晴らしい生地。こんなに美しいものは初めて見たわ」
(……この生地、前の時間軸では見なかった。もし知っていたら、きっとこれを選んでいたわね)
リディアの胸に、かつての虚栄心とは違う、純粋な感嘆が湧き上がる。
「リディア、この生地で決まりね? あなたの銀髪や肌の色に、これ以上なく合うわ。店主、これにしてください」
リディアが答える前に、母が即決した。
「いえ、お母様。これほどのお品は、私には少々……」
「リディア、誰に遠慮しているの? 私は、あなたの晴れ舞台に最高のものを着させてあげたいのよ」
「お母様……」
母の深い慈しみが胸に染み、リディアは言葉を呑み込んだ。
お父様もお母様も、自分に甘すぎる。
「生地が決まったところで……シルエットは、可憐さと気品を両立する『ローブ・ド・クール』風はいかがでしょうか。肩口はふんわりと膨らませて可愛らしさを出しつつ、手首まではタイトに絞ることで、公爵令嬢らしい知性を感じさせます」
「ええ、それが良さそうね」
リディアは素早く頷いた。
(私がさっさと決めないと、どんどん華美な方向へいってしまいそうだわ)
「アクセサリーは、銀細工の小ぶりなティアラを。繊細な銀の蔓が髪に絡みつくようなデザインに、瞳と同じ色の石……アクアマリンかブルームーンストーンを一つ、中央に嵌めましょう。首元には、肌に沿うような真珠のチョーカーを。中央に小さな銀のチャームを添えて」
(アクアマリンやムーンストーン、それに小粒の真珠なら、それほど高額にはならないはず。これなら……)
リディアは内心で予算を計算しながら、納得して頷いた。
「それも素敵! そうしましょう」
母の弾んだ声と共に、リディアのデビューを飾る一着が決まった。
その後、数回にわたるフィッティングを経て、ドレスは一針一針、リディアの知らない「新しい未来」を縫い込むように完成へと近づいていった。




