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元・傲慢令嬢は二度目の人生で平穏に暮らしたい! 〜地味な加護だと思っていたら、神の権限を解読できる力でした〜  作者: 星きあさ


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第8話 養蜂令嬢


 厳しい冬がようやく退き始めた頃、北国エルヴィン領にも柔らかな陽光が差し込み始めた。


 十三歳になったばかりのリディアは、庭園の東屋で何冊もの古文書を机いっぱいに広げていた。

 長い年月を経て端の擦り切れた紙面には、他種族の言語で細かな記述が並んでいる。


 その中の一文を追っていたリディアは、ふいに手を止めた。


(……あったわ)


 胸の奥が、小さく高鳴る。


 見つけたのは、森に棲む危険な魔物――クリスタルスティングについての記述だった。


 親指ほどの大きさしかないその体には、水晶のように透き通った毒針と、薄い刃のように硬い翅が備わっている。

 一匹だけでも油断できず、群れになれば騎士でさえ無傷では済まない。


 エルヴィン領では昔から、見かけたら近づかず、巣を見つければ焼き払うしかない厄介者として知られていた。


 だが古文書には、この時期の彼らは例外だと記されている。


 新しい女王が生まれ、群れの一部を引き連れて新天地を探す「分蜂」の最中だけは、普段よりずっとおとなしい――と。


(本当に、今のクリスタルスティングと同じものなら……)


 リディアは指先でその一文をそっとなぞった。


 さらに読み進める。

 好む香り。

 落ち着く振動。

 近づく際に警戒を薄める色。


 もし本当に人の手で管理できるなら。


 北の短い春と夏に、新しい収穫が一つ増えるかもしれない。


 その日の夕食の席で、リディアは意を決して口を開いた。


「お父様、お兄様。クリスタルスティングを……飼えないかしら」


 ナイフとフォークの音が止まった。


「……何を?」


 父アルヴィスが静かに問い返す。

 兄アレクシスは、聞き間違いかと思ったように瞬きをした。


「飼う、というより……養蜂に近い形ですわ。分蜂の時期だけなら、安全に誘導できるかもしれません」


「リディア」


 アレクシスの声は冗談ではなかった。


「あれは蜂というより災害だよ。うっかり刺激すれば、人が死ぬ」


「分かっています」


 リディアは頷いた。

 頷きながらも、手のひらが汗ばんでいた。


「だからこそ、試すなら今しかありません。春の分蜂の時期だけ、しかも十分な備えをした上でです」


 父はすぐには答えなかった。

 ただじっと娘の顔を見ている。


「……根拠はあるのか」


「古文書に記述がありました。完全に同一種とは言い切れませんけれど、特徴はかなり一致しています」


「古文書、か」


 アルヴィスが低く繰り返す。


「お父様。もしこれが本当なら、蜜が採れますわ」


 リディアは言葉を選びながら続けた。


「北方の花を吸った蜜なら、香りも性質も独特になるはずです。ただ甘いだけではなく、寒さや疲労に強い性質を帯びる可能性があります。普通の蜂蜜より保存が利き、体力の戻りも良いなら、冬場の備えとして大きいですわ。騎士団や医務室でも、役立つかもしれません」


 言いながら、自分の声が少しだけ上ずっているのを感じていた。


 本当は怖い。

 もし事故が起こってしまったら、

 ここまで言って何も得られなかったら、と思う。


 それでも、リディアは領地のためになるかもしれないチャンスを逃したくなかった。


「……一度だけでいいのです。危険だと判断したら、すぐやめますわ」


 短い沈黙が落ちる。


 やがてアレクシスが父の方をちらりと見てから口を開いた。


「やるとしても、リディア一人の思いつきで進める話じゃない。騎士団の護衛、先生の監修、巣箱の準備、退避の手順……全部必要だ」


「ええ、もちろんですわ」


「しかも、失敗したらすぐ中止する」


「……はい」


 アルヴィスがようやく口を開いた。


「一度だけだ」


 リディアの顔が上がる。


「騎士団がいつでも対処できる備えを整えること。マグダレーナ先生に相談し、道具類も十分に試すこと。その上で、私とアレクシスが危険と判断した場合は即座に中止する。――それが条件だ」


「……ありがとうございます、お父様」


 胸の奥に、安堵と緊張が一緒に広がった。



 決まってからの日々は、思っていた以上に忙しかった。


 古文書に書かれていた「誘導に必要な振動」を再現するため、リディアはマグダレーナの助言を受けながら、小さな魔道具の試作を繰り返した。


「理屈は単純ですわ」


 マグダレーナは机の上に並べられた部品を見ながら言った。


「一定の振動を保つだけなら、複雑な術式は必要ありません。ですが、野外で長く安定させるには、魔力の逃げ道をきちんと作る必要があります」


「……何度やっても、途中で音が濁るのです」


 リディアが肩を落とすと、マグダレーナは少しだけ笑った。


「最初から上手くいく方が珍しいのですよ。貴女は少し、頭の中で完成形を急ぎすぎますわね」


 その言葉に、リディアは小さく息を吐いた。


 領地の役に立ちたい。

 何か結果を出したい。

 そう思うあまり、焦ってしまっていた。


「はい……気をつけます」


 結局、魔道具そのものはリディアが基礎を組み、マグダレーナが安全面を補強する形でようやく完成した。


 巣箱も、父の指示で木工職人と騎士団が何度も意見を出し合いながら作り直された。

 軽すぎれば倒れる。重すぎれば運び込めない。

 出入り口の幅一つでさえ議論になった。


 リディア一人で進められる話ではないのだと、そのたびに思い知らされる。



数日後。

リディアはアルヴィス、アレクシスと共に、クリスタルスティングが棲む森の奥へと向かった。

 

 まだ雪解けの湿り気が残る土の上に、騎士たちが慎重な手つきで巣箱を運び込んでいた。


 騎士団長ハンスと副団長ルッツも同行している。

 二人とも剣を佩き、普段以上に気を張っていた。


「お嬢様」


 ハンスが低い声で言う。


「念のため申し上げておきますが、少しでも異変があれば我々の判断で退避します。よろしいですね」


「ええ、判断は任せます」


 リディアはそう答えたが、喉は少し乾いていた。


 リディアは用意してきた薄緑の布を皆に配った。

 古文書によれば、分蜂中の群れはこの色を若葉に近いものとして認識し、警戒をわずかに緩めるらしい。


「全員、布は頭からかぶってください。肌もできるだけ隠して」


 騎士たちは素直に従ったが、表情には隠しきれない緊張と疑心が混じっていた。


 巣箱の内部には、蜜蝋と乾かした香草を薄く擦り込んである。

 さらに、古文書にあった通りの香り――氷晶花の抽出液と樹液を混ぜたものをごく少量だけ煙にして流す準備も終えていた。


「……では、始めます」


 リディアの声に、誰もが息を潜めた。


 火を入れる。

 ごく細い銀がかった煙が立ちのぼる。

 続けて、魔道具に魔力を流し込む。


 リディアたちは設置を終えると、巣箱から離れて草陰に身を潜め、固唾を呑んで様子を窺った。


 魔道具からはジ……ジ……と、低く一定の振動音が生まれた。


 女王を呼ぶ羽音に似せた音。

 古文書はそう記していた。


 だが。


 何も起きない。


 風が木々を揺らし、煙が細くたなびいていくだけだ。


 沈黙が長く伸びる。


「……来ませんね」


 ルッツが小声で言った。


 リディアは返事ができなかった。

 もし間違っていたら。

 ここまで人を巻き込んでおいて何も起こらなかったら。


 胸の奥がじわじわ冷たくなる。


 その時だった。


 ブゥゥゥン……。


 遠くから、低い羽音が近づいてきた。


「っ」


 誰かが小さく息を呑む。


 一匹。

 それからもう一匹。


 透明な翅が春の光を細かく弾きながら、クリスタルスティングが巣箱の周りを旋回し始めた。


 偵察だ。


 リディアは思わず爪が食い込むほど拳を握りしめた。


(お願い……)


 最初の一匹が、煙の中を横切る。

 しばらく迷うように飛んでから、巣箱の入口へ近づいた。

 そして、すっと中へ入っていく。


「……入った」


 誰かが、呆然と呟いた。


 やがて二匹目、三匹目も同じように箱の周囲を調べ、再び飛び去っていった。


 しんとした森の中で、皆が身じろぎもせず待つ。


 数分後。


 今度は、先ほどとは比べものにならないほど重い羽音が森の奥から押し寄せてきた。


 黒い塊のように見える群れ。

 その中心で、ひときわ大きな個体がゆっくりと飛んでいる。


「女王だ……」


 ハンスの声にも、緊張がにじむ。


 リディアは息を止めたまま見つめた。

 女王は巣箱の前で一度だけ大きく旋回し、それから吸い寄せられるように入口へ向かう。


 中へ入った。


 次の瞬間、働き蜂たちも整然と後に続いていく。


 すべてが終わるまで、誰一人として声を出せなかった。


 最後の一匹が箱の中へ消えた時、ようやくリディアは長く息を吐いた。


「……成功、したのですね」


「ああ……どうやら」


 父アルヴィスの声も、普段より少しだけ掠れていた。


 アレクシスが小さく笑う。


「リディア、今にも泣きそうな顔をしてる」


「していませんわ」


「してるよ」


 そう返された瞬間、自分でも頬が熱くなっているのが分かった。


 本当に、ぎりぎりだった。

 期待よりも、不安の方がずっと大きかったのだと、今さら思い知る。



 とはいえ、そこからが本当の始まりだった。


 群れを迎えられたからといって、すぐ蜜が採れるわけではない。

 巣箱の置き場所、周囲の花の量、人が近づく頻度、煙の量。

 少し条件がずれるだけで、群れはすぐ不安定になる。


 最初の数日は、遠くから観察するだけに留めた。

 巣箱の近くに立つのも、まだ怖い。


 リディアは毎日のように記録を取り、父や兄、マグダレーナとも情報を突き合わせた。


「思ったより縄張り意識が強いですね」


「ええ。古文書より少し攻撃性が高い気がしますわ」


「なら、人の導線を変えよう。森の見回りルートも調整した方がいい」


 そんなやり取りが何度も続く。


 そしてようやく、ごく少量ながら最初の蜜を採れたのは、それから数週間後のことだった。



 採れた蜜は、透き通るような淡い琥珀色をしていた。


 花の香りが強すぎるわけではない。

 だが蓋を開けた瞬間、ひんやりした森の朝のような香りがふわりと立つ。


「……綺麗」


 リディアは思わず呟いた。


 一口、ほんの少しだけ舐める。

 舌に触れた瞬間は意外なほどすっきりしていて、その後からゆっくり甘みが広がった。


 濃厚なのに重たくない。

 飲み込んだ後、喉の奥に涼しい余韻が残る。


「これは……面白い味だな」


 アレクシスが瓶を光に透かしながら言う。


「甘いだけじゃない。後味が妙に澄んでる」


「北方の花の香りが強く出ているのでしょう」


 アルヴィスも小さく頷く。


 その後、少量ずつ試した結果、分かったのはまずこの程度だった。


 保存性が高いこと。

 体が少し温まりやすいこと。

 疲れた時に口にすると、回復が早いように感じること。

 喉の痛みや軽い不調の時に、湯に溶かすと楽になること。


 さらに、魔力を大きく消耗した後というより、日々の訓練や研究でじわじわ削れた疲れにはよく合うらしかった。


「派手な薬効ではありませんが……」


 医務室付きの薬師が報告書を見ながら言う。


「滋養と保温にはかなり優れています。軽い魔力疲労の後に摂らせると、翌日のだるさが少ない者が多いようです」


 そこでルッツが、横から口を挟んだ。


「“少ない”どころではありませんな。普通の蜂蜜で同じように湯割りを作って試した時とは、明らかに反応が違いました」


 リディアが顔を上げる。


「比較したのですか?」


「ええ。騎士団の方で簡単にですが」


 ルッツは少し得意げに続けた。


「夜警明けの者たちに、いつも使う蜂蜜湯と、このクリスタルスティングの蜜の湯割りを分けて飲ませてみたのです。クリスタルスティングの蜜を飲んだ方が体の温まりが早く、指先のかじかみが抜けるのも明らかに早かった」


「訓練後も同じです」


 今度はハンスが腕を組んで言う。


「普通の蜂蜜でも腹の足しにはなりますが、こちらは疲労の抜け方が違う。半刻休めば十分だった者が、さらに動けるようになった。そういう声が多い」


 アルヴィスがゆっくりと頷いた。


「なるほど。即効性の回復薬ではない。だが、普通の蜂蜜より明らかに上質で、寒冷地と消耗時に強い補助素材……そう見るべきだな」


 リディアはその評価に、逆に少しほっとした。


 何もかも万能すぎては、エルヴィン領の収益源ではなく、国の管理下に置かれてしまうのを心配していたのだ。


 滋養強壮。

 軽い魔力疲労への補助。

 寒冷地での体調維持。


 エルヴィン領では、確かに価値のある性質ばかりだった。



 春の終わり頃には、森の生息地沿いに巣箱がいくつか増設されることになった。


 だが、まだ領地の一大産業と呼ぶには早い。

 父アルヴィスは慎重だった。


「まずは公爵家内と騎士団、医務室で試験的に使う。売り出すのは生産が安定してからだ」


「はい、その方がよろしいと思いますわ」


「名前を一応決めておかないとな。まずは“晶蜂蜜”あたりの仮称にしておこう」


 晶蜂蜜は、領民の間ではすでに噂が広がり始めていた。


 森の厄介者だったクリスタルスティングが、蜜をもたらした。

 公爵令嬢が古い本を読み、道を開いた。

 まだ量は少ないが、今年の冬は少し心強いものになりそうだ――と。


 その噂を耳にした時、リディアは少しだけ照れくさくなった。


 自分一人で成し遂げたことではない。

 父も、兄も、先生も、騎士団も、たくさんの人が関わっている。


 それでも以前の自分なら見向きもしなかった“地味な知識”が、こうして少しだけ誰かの役に立ったのだと思うと、胸の奥が静かに熱くなった。


(……こういうので、いいのかもしれないわね)


 誰かに羨ましがられる華やかな成果ではなくてもいい。

 この土地の冬を、ほんの少しでも楽にできるなら。


 それはきっと、十分に価値のあることだった。


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