第68話 礼拝堂の異変
秋も半ばに差しかかり、朝の柔らかな光が、色づき始めた木々の葉を優しく照らしていた。
リディアが学園の廊下を歩いていると、布に包んだ植物を大切そうに抱えた男子生徒とすれ違った。
布の隙間からのぞいていたのは、青い花弁に黄色い縁取りを持つ、目を奪われるほど美しい花だった。
(あら、珍しい。たしか「トレーカ」だったはず。どこかに飾るのかしら)
トレーカは、その美しさから観賞用として人気のある植物だ。
しかし栽培が難しく、市場に出回ることも少ないため、こうして目にする機会は滅多にない。
そしてもう一つ、トレーカには特徴があった。
花や葉を炙ったり、火にくべたりすると、毒を含んだ煙を発するのだ。
もっとも、普通に飾っているだけなら危険はない。
リディアも特に気に留めることなく、そのまま教室へと向かった。
その日の午後。
フィオナは次期聖女としての務めの一環で、学園の礼拝堂を訪れていた。
神へ日々の感謝を捧げる祈りの時間は、彼女にとってすっかり習慣になっていた。
一方その頃、リディアは教室で、いつものようにカレンとトビアスと言葉を交わしていた。
「午後の授業は、礼法・社交ですね」
「昼食の後にそれか。ますます眠くなりそうだな」
「これについては、トビアス様に同感です。ダンスのように体を動かす内容ならよいのですが、座ったまま真面目なお話を聞き続けるのは辛いですよね」
カレンが珍しく弱音を吐いた。
厳しい剣術の授業では弱音ひとつ吐かず、むしろ率先して動く彼女だが、退屈な話をじっと座って聞き続けるほうが、よほど苦行らしい。
かくいうリディアも、授業で扱う内容のほとんどはすでに家庭教師から教わっている。
そのため、時折襲ってくる眠気と戦うことも少なくなかった。
「ある意味、一番辛い授業かもしれませんね」
リディアがそう言うと、二人も渋い顔でうなずいた。
そのときだった。
窓際にいた生徒が外を眺め、ふと声を上げた。
「あら、礼拝堂の煙突から煙が上がってる。もう暖炉に火を入れたのね」
「早くない? まだそんなに寒くないのに」
その言葉に、リディアは何気なく礼拝堂へ目を向けた。
たしかに、煙突から薄い煙がたなびいている。
その瞬間、今朝見かけた青い花が頭をよぎった。
(……まさか。あんな貴重なトレーカを、わざわざ燃やすはずがない)
一度は浮かんだ疑念を振り払う。
けれど、季節外れの暖炉と、今朝見たトレーカ。
二つの光景が、どうしても頭の中で結びついて離れなかった。
(もし、あのトレーカが暖炉にくべられていたら……)
ただの考えすぎなら、それでいい。
そう思った瞬間には、リディアは席を立っていた。
「私、礼拝堂のほうへ行ってきます」
フィオナが無事であることを、この目で確かめたい。
その只ならぬ様子に気づいたカレンとトビアスも、すぐに席を立った。
「リディア様、どうされたんですか?」
「考えすぎかもしれないけれど、念のため確認しておきたくて」
足早に廊下を進みながら、リディアは今朝目にした花について二人に説明した。
美しい見た目とは裏腹に、火にくべると毒を含んだ煙を発する植物であること。
それが今、礼拝堂の暖炉にくべられていないか確かめたいこと。
「礼拝堂には今、フィオナ様がおられます。急いで確認しないと……!」
カレンの表情が一気に険しくなる。
トビアスも眉をひそめ、足を速めた。
礼拝堂の前へたどり着き、リディアが扉へ手を伸ばした瞬間、トビアスがその腕を止めた。
「待って。一応、毒を三分間だけ無効化する魔法をかける」
杖を取り出すと3人へそれぞれ魔法をかけていった。
「よし、これで大丈夫だ。ただし三分しかもたない。手早く済ませよう。……開けるよ」
扉を開いた瞬間、三人は思わず顔をしかめた。
「うわ……これはすごい匂いだな」
トビアスが口元を押さえる。
甘さと苦さの入り混じった、むせ返るような独特の香りが、礼拝堂の中に充満していた。
「フィオナ様……!」
真っ先にカレンが声を上げ、堂内を見回す。
しかし、祭壇の前にも、並んだ長椅子の周辺にも、フィオナの姿はない。
ほかに倒れている者も見当たらなかった。
リディアが暖炉へ目を向ける。
まだ小さく燻っている火の中に、黒く縮れた青い花弁が残っていた。
(やっぱり……トレーカだ)
「火を消す」
トビアスが杖を向け、水の魔法で暖炉の火を消した。
その間に、リディアとカレンは手分けして窓を開け放つ。
できる限りの換気を済ませると、三人はすぐさま礼拝堂を出た。
(フィオナ様は、一体どこへ行ってしまったの……?)
不安を抱えたまま外へ出たところで、三人は揃って足を止めた。
「……え?」
少し離れた場所に、フィオナがいた。
しかも、背の高い男と何事もなかったかのように話をしている。
「あら? 皆さん、どうしたんですか?」
三人に気づいたフィオナが、きょとんと首を傾げた。
「フィオナ様!」
カレンが真っ先に駆け寄る。
「ご無事ですか!?」
「ええ。私は大丈夫ですけど……何かあったんですか?」
三人の慌てぶりに、フィオナはますます困惑した様子だった。
リディアも駆け寄りながら、フィオナの隣に立つ男を見る。
(この方は……学園で働いている方かしら?)
するとトビアスが、そっとリディアへ耳打ちした。
「この人は、セドリックに頼んで手配してもらった護衛だよ」
(ああ……!)
夏休み前にトビアスが話していた、フィオナの護衛だった。
「こちらの方に食堂への道を尋ねられまして。それで、ご案内していたところなんです」
フィオナは何も知らない様子で説明した。
三人の口から、ほとんど同時に安堵の息が漏れる。
「よかった……」
カレンが心底ほっとした様子で呟く。
それから、先ほど礼拝堂で起きていたことをフィオナへ説明した。
「実は、礼拝堂の暖炉に、燃やすと毒を出す植物がくべられていたんです」
「えっ?」
フィオナが目を丸くした。
「そうだったんですか? 私、祈ることに夢中で、暖炉には全然気づきませんでした。この方に声をかけていただいて、本当によかったです」
どうやらフィオナ自身は、偶然礼拝堂を離れることになったのだと思っているらしい。
しかし、実際は違っていた。
リディアとカレンがフィオナの側にいる間、トビアスは護衛の男を少し離れた場所へ連れていき、事情を尋ねた。
男は、礼拝堂の中に漂う普段とは異なる匂いに気づいたのだという。
何かが起きているかもしれないと考え、万一に備えてフィオナを外へ出した。
ただし、彼女を不用意に不安がらせないよう、食堂への道を尋ねるふりをして。
長く護衛の仕事に就いてきたからこそ、わずかな異変にも気づけたのだろう。
話を聞き終えたトビアスは、真剣な表情で男へ向き直った。
「助かった。貴殿が気づかなければ、フィオナ嬢がどうなっていたか分からない。感謝する」
「いえ。任された仕事をしたまでです」
男は淡々と答えた。
「この件については、セドリック様にも報告しておきます」
「ああ。頼む」
トビアスはそう答えると、三人のもとへ戻ってきた。
「それじゃあ、俺たちは教室に戻ろう」
フィオナを護衛に任せ、リディア、カレン、トビアスの三人は教室へ向かって歩き出す。
しばらくして、トビアスが小さく息を吐いた。
「……問題は、誰があの花を暖炉にくべたのか、だな」
「ええ、そうですね」
リディアが短く応じる。
するとカレンが二人を見比べ、戸惑ったように口を開いた。
「ちょっと待ってください。つまり、誰かが故意にフィオナ様を狙ったということですか?」
「うん……今の段階では、まだ断言できないけどね」
トビアスは慎重に答えた。
カレンは、ベアトリクスの事件の背後にある事情を知らない。
だからこそ、フィオナの周囲で立て続けに起きる異変の意味が分からないのだろう。
しばらく考え込むように黙っていたカレンが、やがて二人を見つめた。
「……お二人は、もしかして何かご存知なのですか?」
ヘーゼルブラウンの瞳が、真っ直ぐにリディアへ向けられる。
三人の間に、わずかな沈黙が落ちた。
リディアは思わず息をのんだ。
(本当のことを話して、カレン様まで巻き込んでしまってよいのかしら……)
その迷いを察したのか、トビアスがカレンへ向き直った。
「カレン様。まだ未確定なことが多いんだ。今の段階で話してしまえば、無関係かもしれない人物の名誉を傷つけることになりかねない。それは避けたい」
そして、まっすぐ彼女を見つめる。
「だから、今はまだ詳しく話せない。申し訳ない」
誤魔化すのではなく、言えない理由まで正直に伝える。
カレン相手には、そのほうがよいと判断したのだろう。
「……そうですか。分かりました」
カレンは静かに首肯し、顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの戸惑いに代わり、強い決意が宿っている。
「では、まずはフィオナ様を狙った不届き者を見つけましょう」
あまりにもカレンらしい答えだった。
リディアとトビアスは顔を見合わせ、それから小さく首を縦に振る。
この迷いのなさが、今のリディアにはなによりも心強かった。




