第67話 各家に伝わる建国史
ここ数日、リディアは勉強に身が入らなかった。
本を開いても、気づけば同じ行を目で追っている。ぼんやりしていることが増え、エマにも心配されるほどだった。
先日、父から聞いた建国の話が、頭から離れない。
自分の祖先である初代エルヴィンも、和平を信じて集まった人々を殺す側にいた。
(誇りに思っていた初代当主が、まさか人を騙し、虐殺に加わっていたなんて……)
家族や仲間を守るためだったという。
けれど、共に暮らす道は、本当になかったのだろうか。
いくら考えても、答えは出なかった。
ただ、父が語ったのは、エルヴィン家に伝わる建国史だ。
ほかの家には、それぞれの祖先が何を考え、どう行動したのか、父の話にはなかったことも伝わっているかもしれない。
なぜ、和平に応じた天奉族を殺すという決断に至ったのか。
そして、和平を仲介しながら、最後には惨劇を隠すことを選んだ初代グラウは、どのような人物だったのか。
もう少し、知りたかった。
(トビアス様、クラウス様、セドリック様、ローレンツ様……。皆さまは各家の長男だもの。すでに、お聞きになっているかもしれない)
彼らも、自分と同じように衝撃を受けたのだろうか。
それとも、リディアの知らない事情を聞かされているのだろうか。
(……各家に伝わるお話を、聞かせていただけないかしら)
リディアは机に便箋を広げ、ペンを取った。
『先日、父から、一般に知られているものとは異なる建国の経緯を聞きました。
皆さまの家には、どのように伝えられているのでしょうか。差し支えのない範囲でお聞かせいただければと思い、お手紙を差し上げました。
三日後の放課後、ご都合がよろしければ、王都のエルヴィン家の屋敷へお越しいただけますでしょうか。
今回は、クラウス殿下、トビアス様、セドリック様、ローレンツ様の四名に、同じお願いをしております。
個人的なお話ですので、このお誘いについては、ほかの方にはご内密にしていただけますと幸いです。
お返事をお待ちしております。
リディア・エルヴィン』
四通の手紙を速達の風切鳥に託すと、ほどなく返事が届いた。
ローレンツには断られるかもしれないと思っていたが、四人とも招きに応じてくれた。
三日後の放課後。
王都のエルヴィン家の屋敷に、四人が集まった。
サロンには、やわらかな光が差し込んでいた。
卓上にお茶と菓子が並び、給仕が一段落したところで、リディアは口を開いた。
「皆さま、お越しくださってありがとうございます。これから内密のお話をいたしますので、お付きの方々には、別室でお待ちいただいてもよろしいでしょうか」
四人は了承し、それぞれの従者や護衛に声をかけた。
リディアも使用人たちを下がらせ、扉が閉まったのを確かめてから杖を取り出した。
「――声よ、五人の間だけに留まれ」
外で鳴いていた小鳥の声が、ふっと遠のいた。
「念のため、こちらの声が外に漏れないよう、魔法をかけました」
「へえ。便利な魔法だね」
トビアスが、興味深そうに周囲を見渡す。
「ええ。カイ殿下に教えていただいたのです」
「なるほど。カイ殿下か」
リディアが微笑むと、トビアスも口の端を上げた。けれど、その笑みはどこか引きつって見えた。
セドリックが彼に同情するような視線を向けたが、リディアには理由が分からなかった。
杖を置き、改めて四人に向き直る。
「お手紙にも書きましたが、先日、父から建国時の天奉族の件を聞きました。それから、どうしても考えてしまって……」
膝の上で、そっと手を重ねた。
「自分の祖先も、あの騙し討ちに加わっていたと知り、衝撃を受けたのです」
四人の表情から、先ほどまでのくつろぎが消えた。
「リディア嬢の気持ちは分かるよ。私も、初めて聞いた日は眠れなかった」
クラウスが言った。
その隣で、セドリックも頷く。
「俺も、最初は信じられなかった。……まずは、エルヴィン家ではどう伝えられているのか、聞かせてもらえるだろうか」
「ええ」
リディアは、父から聞いた話を伝えた。
この地を治めようとした初代王たちが、天奉族に和平を持ちかけ、宴で騙し討ちにしたこと。
その後、大規模な虐殺が行われたこと。
和平を仲介した初代グラウには計画が伏せられており、彼は惨劇の後、さらなる流血を防ぐために歴史を隠す役目を引き受けたこと。
話し終えると、トビアスが応じた。
「大筋は、僕が聞いた話と同じだよ」
「うちもだ」
セドリックが続き、クラウスとローレンツも同意を示した。
あの惨劇があったことは、どの家でも同じように伝えられているらしい。
リディアは、ずっと心に引っかかっていた疑問を口にした。
「和平に応じてくださったのに……どうして、それではいけなかったのでしょうか」
少し考えるように間を置いてから、トビアスが答えた。
「アイゼン家に伝わる話では、初代は、そもそも天奉族が和平に応じるはずがないと思っていたらしい。力の差が、あまりにも大きかったからね」
「勝てる相手と、和平を結ぶ必要はない、と……?」
「そう考えたんだろうね。だから、応じると聞いても安心できなかった。和平を結んでも、力の差はなくならない。彼らが考えを変えれば、いつでも自分たちを従わせられる、と」
トビアスは、卓上のカップへ視線を落とした。
「その不安は、僕にも理解できるよ。家族や仲間の命が懸かっているのなら、相手が優しいというだけで、すべてを委ねるのは怖いと思う」
リディアにも、その気持ちは想像できた。
力を持つ者の意思一つで、自分や大切な人の運命が変わってしまう。その恐ろしさは、確かにある。
「初代アイゼンは、グラウに尋ねたという。和平を結んでも、これからずっと天奉族に怯えて暮らすことになるのではないか、とね」
「初代グラウ様は、何と?」
「『大丈夫。そんなことにはならない』。そう言い切ったと伝わっているよ」
トビアスは顔を上げ、ローレンツを見た。
「そして、天奉族がどれほど温厚で、よい人々なのかを語った。でも、初代アイゼンには、その確信が理解できなかった。どうして、そこまで信じられるのか。相手に心酔しているのではないか、と」
リディアは眉を寄せた。
父の話を聞いたときには、善意で和平を進めていた人だと思った。
だが、仲間たちは、その熱意さえ疑いの目で見ていたのだ。
「さらに、初代王がグラウを疑う言葉を口にした。それを聞いて、初代アイゼンも、やはり何かあるのではないかと思うようになった」
「疑っている方がほかにもいたから、自分の疑いも正しいと感じてしまったのですね」
「うん。でも、皆が同じことを疑っているだけでは、証拠にはならない。……うちには、その区別がつかなくなっていたと記されているよ」
ローレンツが、息をついた。
「なるほど。僕の家では、初代グラウは、和平が成立すれば仲間たちも安心し、喜んでくれると思っていたと聞いています」
その声は穏やかだった。
リディアは、ちらりと彼の横顔を見た。いつもと変わらない、やわらかな表情。その胸の内は読み取れなかった。
(……いえ、今は、お話を聞くことが先)
「天奉族の側について、仲間を捨てたつもりなどなかったのでしょう。ただ、仲間たちとの溝を埋められないまま交渉を進めたことを、後に深く悔いたとも伝わっています」
トビアスが眉を下げた。
「皆のために進めていたことが、仲間には逆の意味で受け取られていたんだね」
「……そうですね」
ローレンツは短く答えた。
(初代グラウ様は、天奉族とはお話ができていたのに、一緒に歩んできた方々とは、思いを通わせられなかったのね……)
誰もが同じように和平を望んでいたわけではない。
相手を信じてほしいと願うだけでは、仲間たちの恐れを取り除くことはできなかったのだ。
それでも、納得はできなかった。
「ですが……そこから、宴で殺してしまおうという決断に至るなんて……」
「ああ」
セドリックが、低く応じた。
「その計画の中心になったのが、初代ヴァルデックだ」
リディアは、彼を見た。
「剣と攻撃魔法の双方に優れた人だったと聞く。自分の武力にも自信があった。だが、その人から見ても、天奉族は正面から戦って勝てる相手ではなかった」
セドリックは、膝の上で両手を組んだ。
「正義感の強い人で、騙し討ちなどしたくなかったらしい。それでも、計画を進めた。初代グラウは天奉族側についているかもしれないと考え、何も知らせなかったんだ」
「……かもしれない、というだけで?」
リディアの問いに、トビアスが目を伏せた。
「うちにも、そう伝わっている」
セドリックはしばらく黙っていたが、やがて続きを語り始めた。
「宴に集まった天奉族は、無防備だった。襲われるとは思っていなかったんだろう。初代ヴァルデックは、その人々を殺した」
リディアは、膝の上の手を握りしめた。
「これで本当によかったのかと、迷いがよぎったという。だが、その気持ちを抑え、考えるのをやめて、ただ無心に手を下した」
誰も、すぐには口を開かなかった。
恐れていた相手が、自分たちを信じて目の前に座っている。
それでも、刃を向けたのだ。
「アイゼン家には、その後のことも残っているよ」
沈黙を破ったのは、トビアスだった。
「『敵を倒したはずなのに、仲間たちは皆、下を向いていた』と」
セドリックが、短く息を吐いた。
「虐殺の後、王はヴァルデックに言ったそうだ。『すべての責任は私にある。お前は私の命令に従っただけなのだから、気を病むな』と」
そこで、クラウスへ視線を向ける。
「殿下の前で恐縮ですが、我が家では、命令だったからといって、自ら手を下した事実は消えないと伝えております」
クラウスは、その言葉を黙って受け止めていた。
やがて姿勢を正し、口を開いた。
「王家では、初代王フリードリヒが、なぜ天奉族を信じられなかったのかも伝えられている」
リディアは、彼に向き直った。
「恐れていたのは、本当だった。だが、それだけではなかったんだ」
クラウスの表情は硬かった。
「フリードリヒは、半神の英雄レオンハルトの子孫であることを誇りにしていた。ところが、天奉族は、その血筋を理由に彼を敬うことはなかった」
「神々に仕えていた方々なのに、ですか?」
「彼ら自身も、神と人との間に生まれた者を祖先に持っていたからだ」
リディアは目を見開いた。
(天奉族も、半神の子孫だったのね……)
神々に仕えていたというだけではなかった。
彼らもまた、その血を引く者たちだったのだ。
「天奉族にとっては、フリードリヒだけが特別な存在ではなかった。だが、彼はそれが気に入らなかったそうだ。神の血を引く特別な者は、自分だけであってほしかった、と」
クラウスは、一度言葉を切った。
「自分を敬わず、自分よりも強い者たちがいる。誇りを傷つけられた思いと、彼らへの恐怖が重なっていたのだろうね」
「それで、天奉族も、いつか自分たちを従わせるはずだと……?」
「ああ。この地を支配したいと望んでいたのは、初代王自身だった。だから、自分より強い天奉族も、同じことを望んでいるに違いないと考えたんだ」
リディアは、父の言葉を思い返した。
初代王たちは、この地を自分たちが支配してこそ、安心して暮らせると考えた。
その言葉の内側には、恐れだけでなく、自分だけが特別でありたいという願いもあったのだ。
「……初代王は、ご自身でそれを認められたのですか?」
「ああ。惨劇の後にね」
クラウスが息を吐くと、ローレンツが口を開いた。
「惨劇の後、初代グラウは王の前にひざまずき、地に額をつけて、泣いて謝ったそうです」
淡々とした声だった。
リディアは、背筋が冷えるような思いで耳を傾けた。
「『私が無理に和平を進めたせいで、このようなことになってしまった』と。仲間たちとの溝を埋められないまま、宴を開いた自分の責任だと考えたのです」
「ですが……初代グラウ様は、騙されていたのですよね?」
「ええ。ただ、自分が橋渡しをしなければ、彼らは宴に来なかった。その思いから、離れられなかったのでしょう」
ローレンツは視線を伏せた。
「『和平を結べば、皆が幸せになれると思っていた。だが、私の考えは間違っていたようだ』。そう言って……『私も殺してほしい』と願ったと伝わっています」
リディアは息を詰めた。
(そこまで、ご自分をお責めになっていたなんて……)
戦いに反対し、誰も死なずに済む道を探していた人が、自分の死を望んだ。
その心情を思うと、やりきれなかった。
「その話は、王家にも伝わっている」
クラウスが、静かに言った。
「初代王は、その言葉を聞いて、ようやく気づいたそうだ。疑っていた友は、ただ皆が幸せになることを願っていたのだと」
間を置いて、続ける。
「『間違っていたのは、お前ではない。私が愚かで小心だったばかりに、和平を選ぶことができなかった。お前のように、強者を信じる勇気を持てなかった』。そう告げたという」
ローレンツが頷いた。
「ええ。王は、初代グラウの願いを受け入れませんでした。しかし、その言葉を受けても、初代グラウは自分を責め続けたそうです」
「それで……惨劇を隠す役目を、引き受けられたのですね」
「はい。もうこれ以上、血を流させたくなかった。そのために、自分にできることをしようとしたのでしょう」
リディアは、すぐには何も言えなかった。
父から話を聞いたとき、心に残ったのは、初代グラウが惨劇を隠すことを選んだという事実だった。
けれど、その選択に至るまでに、彼は自分の命さえ差し出そうとしていたのだ。
だからといって、歴史を書き換えたことを正しかったとは思えない。
殺された天奉族が、後の世でも蛮族として語られ続けている。そのことへの悲しみは消えなかった。
それでも、初代グラウが何を背負おうとしていたのかは、父の話を聞いたときよりも、少し分かった気がした。
「……皆さまのお話を聞けて、よかったです」
リディアは、四人を見渡した。
「まだ、うまく受け止められません。事情が分かっても、どうにかできなかったのかと思ってしまうのです……」
「それでいいんじゃないかな」
トビアスが言った。
「この話を受け継いできた人たちも、きっと君と同じ気持ちを抱えてきたんだと思うよ」
「……ええ、そうですね」
リディアは頷いた。
父の話が、間違っていたわけではない。
ただ、それだけでは分からなかったことが、今日、いくつもあった。
同じ宴について語っていても、それぞれの家に残されている言葉は違った。
その違いを聞いて初めて、見えてくるものがあった。
天奉族を恐れた者。
仲間を疑った者。
迷いを抑えて、手を下した者。
そして、皆を救おうとして、自らを責め続けた者。
その中に、自分の祖先もいた。
リディアは、冷めかけたお茶へ視線を落とし、それからもう一度顔を上げた。
「話しづらいことを聞かせてくださって、ありがとうございました」
問いかける前よりも、胸に抱えるものは増えていた。
けれど、一人で父の言葉を思い返していたときとは違っていた。
少なくとも、ここにいる四人とは、この重さを分かち合えた気がした。




