第66話 初代グラウの選択
王都の屋敷の研究室で、リディアは例の本を眺めていた。
『もし本当に神代魔法が使えるようになったら――世界の均衡が崩れる』
カイの言葉が、頭から離れない。
(ルグナス帝国で数百年研究されても、誰も解読できなかった神代語……。このまま研究を進めてもいいのかしら)
本に視線を落としても、先ほどから内容が少しも入ってこなかった。
その時、ガチャリと鍵の開く音がした。
この部屋の鍵を持っているのは、リディアと父のアルヴィス、兄のアレクシスだけだ。
けれど、アルヴィスは母のエレノアと共にエルヴィン領へ戻っている。アレクシスも、今は外交院の仕事に出ているはずだった。
(……いったい、誰?)
リディアは身をこわばらせ、扉を見つめた。
「おお、リディアか」
開いた扉から顔を見せたのは、アルヴィスだった。
「お父さま……! 王都にいらしていたのですか?」
「ああ、少し用事があってな。数日はこちらに滞在する予定だ」
アルヴィスの姿に、肩の力が抜ける。
アルヴィスは扉を閉めると、ふうと息をつき、テーブルを挟んでリディアの向かいに腰を下ろした。
その視線が、彼女の手元の本へと移る。
「それで……何か分かったか?」
「ええ。カイ殿下にお尋ねしたところ、帝国では神代語や神代魔法の研究は禁止されていないそうです。関連する書物も、大きな図書館や研究機関で閲覧できるようでした」
「ほう。王国とは、ずいぶん扱いが違うんだな」
アルヴィスの目に、研究者らしい輝きが宿る。
「ですが、数百年研究を続けても、誰も神代語を解読できていないそうです。そのため、今では研究も下火になっていると……」
「数百年か……。帝国でも、それほど長く解読できずにいるのだな」
アルヴィスは考え込むように顎へ手を当てた。
リディアは本の端に指を添えたまま、ためらいがちに続ける。
「それから……もし本当に神代魔法を扱えるようになれば、世界の均衡が崩れると。カイ殿下から、忠告を受けました」
「……忠告?」
アルヴィスが顔を上げた。
「お前が神代語を読めることを、殿下に話したのか?」
「いえ。読めないとは申し上げたのですが……おそらく、気づかれてしまいました」
言葉にすると、あの時の自分の振る舞いが、いっそう不用意に思えた。
「申し訳ありません……」
父の様子をうかがうと、アルヴィスは腕を組み、難しい顔で視線を落としていた。
「……これは、まずかったかもしれんな。まさか、帝国が数百年かけても解読できない言葉を、リディアが読めるとは……」
そこで一度言葉を切り、小さく息を吐く。
「それが広く知られれば、どうなるか。カイ殿下が、他言せずにいてくださればよいのだが」
「おそらく……他言はなさらないかと」
答えながらも、言い切ることはできなかった。
二人は顔を見合わせ、困ったような苦笑を交わす。
「私も軽率だった。帝国の事情を知りたいばかりに、そこまで考えが及ばなかったな」
アルヴィスは姿勢を正し、リディアを見た。
「今後は、ほかの者に悟られないよう、十分に気をつけなさい」
「……はい」
本に添えた指に、知らず力がこもる。
知りたいという気持ちだけで進めてよいことではないのだと、改めて思い知らされた。
しばらく本を見つめていたリディアは、ふと、父に尋ねたかったことを思い出した。
「お父さま。もう一つ、お聞きしたいことがあるのですが」
「どうした?」
「以前から気になっていたのです。どうしてグラウ家は、ほかの公爵家からも特別に扱われているのでしょうか?」
アルヴィスは、すぐには答えなかった。
何かを考えるように黙り込んだあと、ゆっくりと口を開く。
「そうだな……。それを話すには、まず、この国の建国について話さなければならない」
「建国の話、ですか?」
ヴァルディア王国の建国史なら、幼い頃から何度も教わっている。
英雄レオンハルトの気高き血を引くフリードリヒ・レオンハルトが、四人の忠義なる友――後の四大公爵家の祖と共に立ち上がった。
当時、この地は神の教えに背く蛮族や、空を焼き払う黒竜の脅威にさらされていたという。
フリードリヒは友らと共に災厄を討ち払い、荒れ果てた大地を浄化した。
そうして、神に選ばれし正統なる王統、レオンハルト家を頂点とするヴァルディア王国が誕生した――。
リディアが思い浮かべていることを察したのか、アルヴィスは静かに首を振った。
「一般に教えられている建国史ではない。王家と、我々四大公爵家にだけ伝えられている、本当の歴史だ」
「……本当の歴史?」
リディアは眉をひそめた。
「建国以前、この地には、天奉族という種族が暮らしていた」
「歴史書で、蛮族と呼ばれている方々ですか?」
「そうだ。紫色の髪と瞳を持ち、かつて地上にいた神々に仕えていたと伝えられている。だが、歴史書に描かれているような、争いを好む者たちではなかったそうだ」
「では、どうして戦うことに……?」
「初代王たちは、この地を自分たちの手で治めようとしていた。だが、そこにはすでに天奉族が暮らしていたんだ」
アルヴィスは、わずかに視線を落とした。
「彼らは人間より大柄で、身体能力にも魔力量にも恵まれていた。見たこともない魔法を使い、神々から授けられたという秘宝を守っていたそうだ。正面から戦っても、勝つのは難しかったという」
「それなら……争わず、共に暮らすことはできなかったのでしょうか?」
「初代グラウは、そのつもりだったのだろうな。だが、初代王たちは、共存では満足できなかった。天奉族がいる限り、この地を思うままに治めることはできないのだから」
リディアは、父の顔を見つめた。
「正面から戦えば勝てない。そこで我々の祖先は、彼らに和平を持ちかけた。そして宴の席で、英雄や有力者たちを酔わせて……騙し討ちにしたんだ」
「……え?」
「その後、大規模な虐殺が行われた」
あまりにも淡々と告げられた言葉を、すぐには理解できなかった。
「そんな……。ひどすぎます。歴史書には、そのようなことは……」
「書かれていない。正史からは消されたんだ」
リディアは言葉を失った。
何度も聞かされてきた、誇らしい建国の物語。
その裏で、和平を信じて集まった人々が殺されていたという。
「では……グラウ家も、その騙し討ちに加わっていたのですか?」
「いや。初代グラウは温和な人格者で、戦いに反対していたそうだ。率先して彼らと対話し、和平の橋渡しを務めていた。宴を取り仕切ったのも、初代グラウだった」
「天奉族の方々は……和平を疑わなかったのですか?」
「彼らは温厚で、他者を疑うことが苦手だったという。人間のことも、力が弱く、短気で、些細な嘘をよくつく未熟な種族だと見ていたそうだ」
アルヴィスは、小さく息を吐いた。
「だが、和平そのものを偽り、約束を破って命を奪うとまでは、考えていなかったのだろうな」
「それでは……初代グラウ様は、本当に和平を結ぶおつもりで……?」
「ああ。初代王と、エルヴィン、アイゼン、ヴァルデックの三家は、宴で裏切るつもりだということを、グラウには伏せていたらしい」
リディアは息を呑んだ。
「天奉族の方々だけでなく、初代グラウ様も騙したということですか?」
「……そうなるな」
アルヴィスは、重い口調で答えた。
「初代王たちは、天奉族が自分たちを上回る力を持つ限り、家族や仲間の安全も、彼らの意思一つで覆ると考えたそうだ。この地を自分たちが支配してこそ、安心して暮らせるのだと」
リディアは膝の上で手を握りしめた。
和平を装い、人々を殺した側に、自分の祖先である初代エルヴィンもいたのだ。
(家族や仲間を守るため……。でも、天奉族の方々は、和平に応じてくださったのに)
自分たちより強いというだけで、相手の言葉を信じず、その命も土地も奪った。
それを、守るための行いと呼んでよいのだろうか。
言葉を探したが、何を言えばよいのか分からなかった。
「初代グラウは、ひどく心を痛めたそうだ。自分が橋渡しをした宴で、そのようなことが起きたのだからな。そして、もうこれ以上、血を流させないと誓ったという」
「……その後は、どうなさったのですか?」
アルヴィスは、わずかに間を置いた。
「惨劇を、隠すことを選んだ」
リディアは父を見つめた。
「……隠したのですか?」
「ああ。建国後、事実が明るみに出れば、生まれたばかりの王国が再び戦火に包まれる危険があった。初代グラウは、起きてしまったことを隠すことで、これ以上の流血を防ごうとしたんだ」
「そのために、歴史を書き換えた……?」
「そうだ。記録を書き換え、都合の悪い文献を消し、教会を通じて新たな建国史を広めた」
幼い頃から疑いもせずに覚えていた歴史。
そこに書かれた言葉の一つひとつが、急に違う意味を持ったように感じられた。
「それ以来、グラウ家は国内の情報を管理する役割を担ってきた。何を人々に知らせ、何を伏せるのか。世論をどこへ導くのか。国にとって危険となる勢力への裏工作も含めてな」
続くアルヴィスの声に、リディアは耳を傾けた。
「王家が表立って行えない汚れ仕事も、長年引き受けてきたんだ。だからこそ、王家も、ほかの三公爵家も、グラウ家を単に同じ爵位を持つ家としては扱っていない」
「……教会も、その役割に関わっているのですね」
「ああ。教会は、グラウ家が情報を管理するうえでの要でもある」
リディアはゆっくりと息を吐いた。
グラウ家が特別に扱われる理由を、ただ知りたかっただけだった。
けれど、聞かされた話は、思っていたよりもずっと重いものだった。
「この話は、アレクシスにはすでに伝えてある」
アルヴィスは静かに言った。
「本来なら、お前に話すつもりはなかった。だが、お前が前の時間軸で、グラウ家に関わる何かに巻き込まれていた可能性もある。何も知らないままでいるより、耳に入れておくべきだと思ってな」
リディアは小さく目を見開き、父の顔を見た。
「お父さまは……初代グラウ様のなさったことを、どう思われますか?」
アルヴィスは、しばらく黙っていた。
「正しかったかどうかは、私にも分からない」
やがて、ゆっくりと答える。
「ただ、グラウ家がその役目を引き受けたからこそ、今の平穏があるのかもしれないな」
リディアは、すぐには頷けなかった。
争いを防ぎたいという気持ちは分かる。
けれど、神々に仕えていたと伝えられる人々が、歴史の中では「神の教えに背く蛮族」とされている。
命を奪われたうえに、後の世では、討たれて当然の者として語られ続けているのだ。
その思いを、うまく言葉にはできなかった。
沈黙ののち、アルヴィスが再び口を開いた。
「それから……天奉族が守っていた秘宝は、王家の手に渡った」
「神の秘宝、ですか?」
「そうだ。その後、長く王家で保管されていたそうだが……」
アルヴィスは、そこで一度言葉を切った。
「現在は、その所在が分かっていないそうだ」
リディアの指先が、わずかに震えた。
奪われ、王家へ渡った神の秘宝。
それが今は、どこにあるのかさえ分からない。
父の言葉を受け止めきれないまま、リディアは窓から見える遠くの空に目をやった。




