第64話 解き明かされない言葉
その日、リディアは一日中ソワソワしていた。
学園が再開してからというもの、カイにルグナス帝国での『神代語』と『神代魔法』について聞きたいと思っていたのだが、なかなかタイミングを見つけられずにいた。
今日こそは絶対に聞こうとリディアは心に決めていたのだ。
一日の授業が終わり、カイの元へ素早く駆け寄った。
「カイ殿下、少しお時間よろしいですか?」
「うん、どうしたの?」
「ちょっと内緒のお話なので、中庭に行きましょう」
リディアはカイを誘い、中庭へと向かった。
二人でベンチに腰を下ろす。目の前には噴水があり、絶え間なく流れ落ちる水の音が響いていた。ここなら、ある程度は声を遮ってくれるだろうとリディアは考えたのだ。
「誰かに聞かれたくない話なら、魔法を使うよ」
そう言って、カイは杖を取り出した。
「ありがとうございます。そのような魔法があるとは知りませんでした」
リディアは興味深そうに、カイの杖先を見つめる。
「まあね。俺って皇子だからさ、聞かれたくない話とか結構あるんだよ」
カイはさっと空中に術式を描いた。
「――声よ、二人の間だけに留まれ」
術式が淡く光り、すぐに消える。噴水の水音が、心なしか少し遠のいたような気がした。
「これで大丈夫。内緒の話をどうぞ」
カイはにっと笑った。
「では……カイ殿下は、記号のような、模様のような、あるいは落書きのようにも見える古代語をご存じですか?」
リディアは少し緊張しながら尋ねた。
「……記号のような、模様のような古代語か」
カイは顎に手を当て、しばらく視線を宙に泳がせた。
「うーん、神代語がそれっぽいかな?」
少し考えただけで、カイの口から「神代語」という言葉が出てきたことに、リディアは驚いた。
「そうです! 神々の言葉といわれている神代語です。ルグナス帝国では、神代語や神代魔法の研究は禁止されているのですか?」
「いや? 別に禁止されてないけど」
カイはあっけらかんと言った。
(ヴァルディアでは、国王ですら自由に禁書を読めないほど危険視されているのに……ルグナス帝国では、まったく危険視されていないのね)
「ヴァルディア王国では、どちらも研究が禁止されておりまして、関連する書物も禁書となり、王族や教会が管理しているんです」
リディアがそう説明すると、今度はカイが驚いた顔をした。
「そんなに厳しく禁止してる方が驚きだよ。古代語である神代語の研究を、わざわざ禁止するなんて不自然に感じるな。帝国では昔から研究されてるよ。ただ、何百年やってもろくに分かってないらしいけどね。誰一人として解読できていない、謎に包まれた言葉だよ。ロマンはあるよね〜」
カイは軽く肩をすくめてみせた。
(何百年も研究して誰一人解読できていない……)
その事実に、リディアは息を呑んだ。
「王国が禁止にしている理由はどうしてなの?」
「禁止されている理由は、神代魔法があまりにも強大で、人の手には余るからだと聞いております」
「神々が使っていた魔法だから、強大ではあると思うけど……人間がその魔法を成功させたって記録はないんだ。残された魔術式を再現してみた研究者はいるらしいけど、正常に発動した例はない。言葉が一切解読できてないんだから、魔法だって使えるわけがないんだよ。だから帝国では、人間には使えない魔法なんじゃないかって言われてる」
「王国では昔、人が神代魔法を使ったことで、大きな被害が出たと聞いています」
「その話なら帝国にも伝わってる。でも、本当に神代魔法だったのかは怪しいと言われてるよ。自然災害だったんじゃないかって説もある」
リディアは黙ってカイの話を聞いていた。噴水の水音だけが、二人の間の沈黙を埋めていく。
「それに、帝国自体が古い技術より新しい魔導技術の開発を好む文化だから、神代語や神代魔法の研究は今では下火だね」
「では、関連する書物は残っているのですか?」
「うん。帝国の大きな図書館や研究機関なら、普通に所蔵されていると思うよ。閲覧禁止の棚じゃなくてね。ただ、専門書とか古書の扱いだから、ほとんど誰も読まないと思うけど」
リディアの目が一気に輝いた。
「まあ! ぜひ閲覧してみたいです」
その反応を見て、カイは何か引っかかったようだった。
「リディア嬢の加護はたしか『翻訳の加護』だったよね?」
「ええ、そうですが?」
リディアはきょとんとした顔だったが、カイは真面目な顔で見つめ返してくる。
少しだけ身を寄せると、リディアの耳元で囁いた。
「……もしかして君、神代語が読めるの?」
「っ……!」
突然耳元で囁かれ、リディアの顔が赤くなる。
「カイ殿下! そのような戯れはおやめください」
「分かった、分かった。悪かったよ」
カイは両手を軽く上げて、降参のポーズを取った。
「……それで、どうなの?」
「えっと……それは……」
リディアは言葉に詰まった。
カイに神代語が読めることを隠すべきか、それとも話してもいいのか。そんなことを、前もって何も考えていなかったのだ。
しかも直前にカイに動揺させられたせいで、頭の回転まで鈍っている。膝の上で、指先が無意識にドレスの裾を握りしめていた。
(どうしよう……)
ルグナス帝国で数百年研究されても、いまだ解読されていない「神代語」。
そんなものを自分が読めると伝えてしまうのは、さすがのリディアにもまずいような気がした。
「よ、読めません」
一瞬、沈黙が落ちる。噴水の音だけが、やけに大きく耳に響いた。
カイはリディアの顔をじっと見つめたあと、意味ありげな薄笑いを浮かべた。
「……なるほど。たしかに、そういうことにしておいた方が賢明だよ」
そう言って、カイは前髪をかき上げる。
「冗談で言ってみたのにまさか本当にそうだとはね。本当にリディア嬢は面白いな」
「……」
リディアは何も言えなかった。
(あきらかに、バレてる……)
ここで余計なことを言えば、ますます墓穴を掘ってしまいそうだった。
「リディア嬢は、その関連書物を見るためにルグナス帝国に行きたいってこと?」
「いえ……そこまでは、まだ何も考えておりませんでした」
「ふぅーん」
カイはなぜか機嫌よさそうに、口の端を持ち上げていた。
「じゃあ、いずれ俺が招待して帝国を案内するよ」
「ありがとうございます!」
「関連書物を帝国から送ってもらうよう頼むこともできるけど、王国では禁書扱いなんだろ? それなら、勝手に禁書を国内へ持ち込むのはまずいだろうからね」
「そうですよね……」
「とりあえず、面白い話が聞けて楽しかったよ」
カイは満足げに目を細め、ベンチから立ち上がった。
リディアも立ち上がり、カイの方を向いて軽く膝を折る。
「こちらこそ、貴重なお話ありがとうございました」
けれど、次の瞬間。
カイの表情から、わずかに笑みが消えた。
「……リディア嬢。俺以外には絶対に悟られちゃ駄目だよ」
「……え?」
「もし本当に神代魔法が使えるようになったら――世界の均衡が崩れる」
まっすぐ向けられたカイの金色の強い眼光に、リディアは心臓を掴まれたような感覚を覚えた。
一瞬、息が止まった。
噴水の水音だけが、変わらずに響き続けていた。




