第63話 第二王子の入学
窓の外にはまだ夏の名残を感じさせる強い日差しが残っているものの、吹き込む風には、どこか秋の気配が混じり始めている。
夏休みが終わり、リディアたちは二年生となった。
久しぶりに顔を合わせた生徒たちは、心なしか少し肌が焼けている者も多く、教室のあちこちで休暇中の出来事を楽しそうに語り合っていた。
フィオナとカレンも例外ではなかった。
カイやトビアスを相手に、夏休みにエルヴィン領で過ごした数日間のことを、まるで夢のようだったと楽しそうに話している。
自分の領地での出来事をそんなふうに語ってもらえることが、リディアには嬉しくもあり、少し気恥ずかしくもあった。
「いいなぁ。俺たちも行きたかったな」
カイが羨ましそうに呟くと、トビアスも同意するように頷いた。
「エルヴィン領は本当にいいところだよ。前にみんなで行ったときのことが懐かしい。たまにルーカスとも、あのときの話をするんだ」
クラウスも懐かしむように目を細めた。
「ルーカス殿下なんて、次はいつエルヴィン領へ行けるのかと、定期的に俺に確認してくるんですよ」
セドリックが苦笑交じりに続ける。
「あら、そうなのですね」
リディアは頬を緩めた。
「そのように言っていただけて嬉しいです。ありがとうございます。皆さん、またご都合のよいときにいらしてください。家族もきっと喜びます」
そう言って、にっこりと微笑んだ。
(お世辞も入っているのかもしれないけれど……自分の領地を褒めてもらえるのは、やっぱりとても嬉しいわ)
自分でも少し単純だと思いながら、リディアは密かに喜びを噛みしめた。
その日の授業を終え、リディアが廊下を歩いていると、背後から声をかけられた。
「リディア様、お久しぶり」
聞き覚えのある、けれど久しく耳にしていなかった声だった。
リディアが振り返ると、そこにはにこにこと笑う少年が立っていた。
「ルーカス様!」
思わず声が弾む。
「お久しぶりです。まあ……ずいぶん大きくなられましたね」
以前会ったときには、リディアとそれほど目線の高さも変わらなかったはずだ。
けれど今では、わずかに見上げなければならない。顔立ちからも少年らしい幼さが薄れ、少し低くなった声やしっかりしてきた体つきにも、以前とは違う大人びた印象があった。
「そうなんだよ。最近ちょっとゴツくなってきちゃってさ」
ルーカスは自分の身体を見下ろすと、わざと肩をすくめて身を縮めた。
そして幼い頃と変わらぬ仕草で、上目遣いにリディアを見る。
「昔みたいに可愛い僕のほうが、リディア様は好きだった?」
少し首を傾げ、わざとらしいほど可愛らしい表情を浮かべた。
背丈は変わっても、どうやらこのあざとさだけは健在らしい。
そしてリディアは、早速それにやられた。
「そんなことありません! 今も昔も、ルーカス様は愛らしいです!」
「だよねぇ。ありがとう」
ルーカスは満足そうに頷いた。
その様子がおかしくて、リディアはくすくすと笑う。
(久しぶりにお会いしたけれど……こういうところは全然変わっていないのね)
「ねえねえ、リディア様。このあと暇?」
「ええ。特に予定はありませんが」
「じゃあ、学園を案内してくれない? まだどこに何があるのか全然分からなくてさ」
「もちろんです。私でよろしければ」
リディアがそう答えた、そのときだった。
廊下の向こうから、ばたばたと慌ただしい足音が近づいてくる。
(この足音は……おそらく)
なんとなく予想しながらそちらへ目を向けると、案の定、桃色がかった金髪の少女がこちらへ駆けてきていた。
「リディア様〜! 今お帰りですか〜?」
フィオナは笑顔のまま近づいてきて――リディアの前に立つ少年を見るなり、ぴたりと足を止めた。
「あれ? クラウス様……?」
数秒の沈黙。
そして、目の前の人物が誰なのか気づいた瞬間、フィオナの顔色が変わった。
「……っ、失礼いたしました! ルーカス殿下!」
慌てて膝を折り、頭を下げる。
「ははは!」
ルーカスは怒るどころか、おかしそうに声を上げて笑った。
「春の舞踏会でお見かけした、次期聖女としてのフィオナ様とはまるで別人みたいだ」
「も、申し訳ございません……」
恥ずかしそうに縮こまるフィオナを見て、ルーカスは目を細め、ますます愉快そうな顔をした。
「リディア様は、フィオナ様と仲がいいんだね」
「ええ。フィオナ様とは、とても仲良くしていただいております」
リディアがそう答えると、隣にいたフィオナが突然、目を潤ませた。
「フィオナ様……?」
「いえ……」
フィオナは感極まったように胸元で手を組む。
「私が勝手にリディア様にまとわりついているだけだと思っていたので……リディア様からそんなふうに言っていただけるなんて思っていなくて、嬉しくて……」
「あら」
リディアは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「では、友人だと思っていたのは、私だけだったということですか?」
「ち、違います!」
フィオナが勢いよく顔を上げる。
「リディア様は、私にとって憧れの方であり、命の恩人でもありますから……私なんかが友人だと思うのは図々しいかと思っていたんです。でも……心の中では、こっそり友人だと思っていました」
最後は少し照れくさそうに笑った。
その笑顔を見て、リディアの胸の奥に温かなものがふわりと広がる。
(フィオナ様……今度こそ、絶対に私がフィオナ様を守ってみせる)
リディアは胸の内で、改めてそう強く決意した。
そんな二人を眺めていたルーカスが、ひょいと会話に入ってくる。
「フィオナ様も、リディア様と一緒に学園を案内してくれない? 僕、いろいろ教えてほしいんだ」
「はい! 微力ながら、お供させていただきます!」
フィオナは元気よく答えると、再び丁寧に膝を折った。
「そんなに畏まらなくても大丈夫だよ」
ルーカスは苦笑しながら言った。
三人はそのまま校舎の中を歩き始めた。
廊下の窓からは午後の光が斜めに差し込み、すれ違う生徒たちがルーカスの姿にちらちらと視線を向けては、慌てて頭を下げていく。
「今いるこの棟の一階西側は、一年生が主に座学で使う教室です。東側には職員室があります」
リディアが説明すると、ルーカスは興味深そうに辺りを見回した。
「二年生の教室は二階の西側、三年生は三階の西側にあります」
「なるほど。学年ごとに階が上がっていくんだね」
「ええ。それから、別の棟には専門科目で使う教室や研究室などがあります」
場所を移しながら、今度はフィオナが大きな扉を指差した。
「こちらが図書室です!」
扉を開けると、天井近くまで届く高い書架がいくつも並んでいる。
古い紙と木の匂いがかすかに漂い、高窓から差し込む光が書架の間に細い筋を作っていた。
奥のほうでは数人の生徒が机に向かい、ページをめくる音だけが静かに響いている。
「とても広くて、本もたくさんあるんですよ。今日は案内だけですけど、あとでゆっくり見てみてください」
「おお、広いな。明日また来てみるよ」
ルーカスはすっかり興味を惹かれたようだった。
しばらく歩いていると、フィオナが何かを思い出したように口を開いた。
「あ、そういえばルーカス殿下。学園には面白い噂があるんですよ」
「噂?」
「はい。試験で使われる答案用紙には、特別な魔法がかけられているらしいんです」
フィオナは少し声を潜めた。
「他の人の答案を見たり、不正に知った答えを書いたりすると……答案用紙が真っ赤に染まるんだとか」
「へぇー!」
ルーカスの瞳が輝く。
「面白いね。それなら、カンニングしたらすぐにばれちゃうってことか」
「そういう噂です。本当かどうかは分からないんですけどね」
「確かめられないのが残念だなぁ」
ルーカスが心底残念そうに呟く隣で、リディアはそっと視線を逸らした。
(……前の時間軸の私は、体験済みなのよね)
答案用紙がみるみる赤く染まっていく様子も、そのあとに訪れた気まずい沈黙も、思い出したくないというのに鮮明に蘇ってくる。
リディアは何事もなかったかのような顔で、そっとその記憶を心の奥へ押し込めた。
さらに校舎を抜け、三人は礼拝堂へとやってきた。
白い石造りの、こぢんまりとした建物だ。
「こちらが礼拝堂です」
リディアが扉を開け、三人で中へ入る。
高い位置にはめ込まれたステンドグラスから、色とりどりの光が石床へと落ちていた。
しんと静まり返った空間には、蝋燭のかすかな匂いが残っている。
「……なんだかここ、空気がすごく澄んでる感じがする」
ルーカスは不思議そうに、礼拝堂の中を見回した。
(言われてみれば……たしかに、どこか空気が澄んでいるような気がする)
リディアも辺りを見回してみる。
特に変わった様子はない。
ただ、ステンドグラス越しに差し込む光が、きらきらと床を照らしているだけだった。
「一応、毎日こちらでお祈りをしておりますので、建物が浄化されているのかもしれません」
フィオナが遠慮がちに言う。
リディアとルーカスは、なるほどというように顔を見合わせた。
三人は礼拝堂を出て、外へと足を進める。
日が傾き始め、石畳には長い影が伸びていた。
「フィオナ様やローレンツ様は、毎日礼拝堂のお掃除をされているんですよ」
「簡単なお掃除ですけどね」
フィオナは照れくさそうに笑った。
「フィオナ様もローレンツ卿も、いろいろ忙しいでしょ? それなのに毎日ちゃんと掃除をして、お祈りまでしてるんだね。すごいなぁ」
感心したように言ってから、ルーカスは小さく首を傾げた。
「グラウ家って、教会関係者も多いよね? てっきり、家の名前でいろいろ融通が利くものかと思ってた」
なんてことのない口ぶりだった。
けれど、その言葉に、リディアの胸の奥で小さな何かが引っかかった。
フィオナは少し照れたように笑う。
「ローレンツ様のご実家は、代々熱心な信徒の家系だと伺っています。私も、その姿勢を見習わなければと思っているんです」
「へえ、真面目で素晴らしいねぇ」
ルーカスは素直に感心した様子で頷いた。
その隣で、リディアはふと、教会と王家が共同で管理しているという、禁じられた書物のことを思い出した。
(グラウ家……)
なぜだろう。
胸の奥が、わずかにざわつく。
まだ、その理由は分からない。
けれど、リディアの知らない何かが、グラウ家には隠されている。
そんな気がしてならなかった。




