第60話 探し求めていた本
夏休みに入ったある日。
リディアは父に呼ばれ、書斎を訪れていた。
「リディア。お前が探していた本は、これか?」
アルヴィスが机の上に、一冊の古びた本を置いた。
それは、かつてリディアが「あの船」の上でアルヴィスから渡された、忘れもしない一冊だった。
ずっと探し求めていた本が、ようやく目の前に現れたのだ。
「はい……間違いありません。これです」
リディアは食い入るように本を見つめた。
(ついに、あの本が見つかった……!)
「この本は、私の研究者仲間の父親が、誰にも共有せず一人で地道にまとめたものらしい。各地の遺跡やダンジョンの深層で発見した石板を、書き写したものだそうだ」
アルヴィスは腕を組み、険しい表情で言葉を継いだ。
「亡くなる間際に息子へ託したそうなんだが……どうやら、この本に関わる情報は我が国で規制されているらしい。友人もどうしても解析できず、私に内密で相談してきた」
そこでアルヴィスは言葉を切り、まっすぐにリディアを見つめた。
「……リディア。なぜ、お前がこの本の存在を知っている?」
射抜くような父の視線が、リディアの瞳を真っ向から捉える。
これまで見たことがないほど真剣な眼差しだった。
下手な嘘をつけば、一瞬で見破られてしまいそうだ。
(本当のことを……今、話すべきなのかしら)
トビアスは信じてくれた。
けれど、研究者である父が、こんな荒唐無稽な話を受け入れてくれるとは到底思えなかった。
リディアは小さく唇を噛み、覚悟を決めるように顔を上げた。
「……本当のことを申し上げても、信じてはいただけないと思います」
「なぜそんなことを言う。私は、お前の言うことなら信じるさ」
その声音には、父親としての深い慈愛が滲んでいた。
ふと、前の人生で見た、心底幻滅したようなアルヴィスの顔が脳裏をよぎる。
それでも、もう過去の自分から逃げたくはなかった。
リディアは意を決し、ずっと心の奥底に沈めていた秘密を口にする。
「私が……過去に戻って、人生をやり直していると言ったら……信じてくださいますか?」
「な……何を馬鹿なことを……」
アルヴィスは一瞬、呆れたように笑おうとした。
しかし、リディアの瞳に宿る真剣さを見て、その言葉を失う。
冗談を言っているようには、とても見えなかった。
長年娘を見てきた父だからこそ、リディアが本気で話していることだけは分かったのだろう。
だが、あまりにも常識を逸脱した告白に、すぐには言葉が見つからないようだった。
「……いつからだ」
「え?」
「いつから、人生をやり直している?」
長い沈黙の末、アルヴィスは絞り出すような声で問うた。
「十二歳になったばかりの頃です」
「ああ……あの時か」
アルヴィスは天井へ視線を向け、記憶をたどるように何度か深く頷いた。
「そうか……合点がいったよ。あの頃から、急に良い子になりすぎて、様子がおかしいとは思っていたんだ」
そう漏らすと、アルヴィスは視線を逸らし、こめかみを押さえた。
その手は、微かに震えているようにも見えた。
「悪いな……。少し、頭が追いつかない。整理する時間が欲しい。この件については、また改めて話そう」
「……わかりました」
リディアは静かに父の書斎を後にした。
アルヴィスは明らかに混乱していた。
やはり、話すべきではなかったのかもしれない。
そんな後悔が胸をよぎる。
トビアスが信じてくれたから、父ももしかしたら受け入れてくれるのではないかと、どこかで淡い期待を抱いてしまっていた。
自室へ戻ったリディアの表情は、ひどく暗く沈んでいた。
部屋に控えていたエマが、心配そうに駆け寄ってくる。
「大丈夫よ。少し、一人にしてもらえるかしら」
エマを下がらせると、リディアは力なくソファに身を沈めた。
窓の外には、いつもと変わらない穏やかな景色が広がっている。
(……今までは、一度経験した時間をなぞってきた。けれど、これから先は、私にとっても初めての時間なのね)
ふと、奇妙な感覚に包まれた。
これまでは、断罪と追放を避けることだけを目標に、必死に走り続けてきた。
そして、その目的は今のところ果たされている。
では、これから自分は何を目標に生きていけばいいのだろう。
(とりあえず、目の前の課題はフィオナ様を守ることだけど……)
ぼんやりと遠くの雲を眺めていると、不意に控えめなノックの音が響いた。
「リディア。入ってもいいかな」
扉の向こうから聞こえてきたのは、先ほど別れたばかりの父の声だった。
「……はい」
再び向かい合ってソファに腰を下ろす。
アルヴィスの顔からは、先ほどまでの動揺が消えていた。
「さっきは済まなかった。あまりに予想外の話で、つい取り乱してしまったが……もう大丈夫だ」
「お父さま……」
「過去へ戻る前、お前に何があったのか。順を追って、私に話してくれないだろうか」
アルヴィスの瞳には、父親としての覚悟と、一人の探求者として未知に向き合おうとする強い意志が宿っていた。
「本当に、よろしいのですか? 少々……いえ、かなり驚かれる内容も含まれますが」
「ああ、構わない」
それでも不安を拭いきれないリディアの表情を見て、アルヴィスは立ち上がると、彼女の隣へ腰を下ろした。
「大丈夫だ。ゆっくりでいい」
そう言って、アルヴィスはリディアの手を力強く握った。
その温もりに背中を押されるように、リディアはぽつりぽつりと語り始める
前の自分が、いかに幼く愚かだったか。
フィオナに嫉妬し、陰湿な嫌がらせを繰り返し、最後には彼女を殺しかけるという大罪を犯したこと。
その結果、島への追放刑に処されたこと。
そして、沈みゆく船の中で父から渡されたあの本を開き、そこに記された呪文を唱えたこと。
気づいた時には、十二歳の朝に戻っていたこと。
アルヴィスは途中で一度も口を挟まず、ただ静かに、真剣な眼差しで娘の告白を聞き続けていた。
「……なるほど。どうしてベアトリクス嬢に拘っていたのかよく分かったよ」
すべてを聞き終えると、アルヴィスは深く息を吐いた。
「それで、ベアトリクス嬢の精神干渉魔法はどうだったんだ?」
「ローレンツ・グラウ公爵子息とのやりとりに関する記憶が隠蔽されてました。ただ、ローレンツ様が記憶干渉魔法をかけた証拠はありません。なのでアイゼン公爵様も今回は特にローレンツ様への追求はしない判断をされました」
「……なるほど。グラウ家が関わっているとなると面倒だな」
「お父様もグラウ家が関わっていると思われますか?」
「いや……分からない。ただ、グラウ家は『特別』なんだ」
「特別……?」
「まあ、グラウ家の話はいい。リディアのやり直しの話を、他に知っている者はいるのか?」
「はい……。トビアス様には、お話ししています」
「………トビアス・アイゼンか」
その名前を聞いた途端、アルヴィスは何とも言えない複雑そうな表情を浮かべた。
深く椅子にもたれかかると、しばらく何も言わずに天井を見上げる。
「トビアス様に話したのは、まずかったでしょうか?」
リディアは恐る恐る尋ねた。
「いや……まあ、トビアス君のことは別件として、あとで考えることにしよう。……よし」
アルヴィスは気持ちを切り替えるように一度頷き、改めてリディアへ顔を向けた。
「さて。前の私は、お前にあの本を渡したのだな?」
「はい。船旅での退屈しのぎにでもなれば、と仰って……」
「なるほど……」
アルヴィスはしばらく考え込み、それからゆっくりと口を開いた。
「きっと前の時間軸の私も、お前に何かを感じ取っていたのだろうな。この本を解読できるかもしれないという、微かな期待を」
遠い目をしながら、自分自身に言い聞かせるように呟く。
「国と教会が禁忌とし、弾圧してきた研究がある。その情報は王族と教会の上層部によって厳重に管理され、我々のような研究者には、その断片すらほとんど伝わってこない。おそらく、この本はそれに関係している」
父の言葉に込められた熱に、リディアは思わず息を呑んだ。
「四大公爵の一人であるお父さまにも、秘密にされているのですか?」
「ああ、そうだ。まったく、納得がいかないがな」
アルヴィスは不満そうに呟いた。
「この本の解読には、大きな危険が伴うだろう。この本の存在自体、他言無用だ。……ただし、アレクシスには協力させよう。あいつの能力は、こういう時にこそ役に立つ」
あまりに当然のように告げられ、リディアは思わず小首を傾げた。
「……お父さま? この本は、国が禁じているものに関わっているのですよね? それを、お兄さままで巻き込んで解読なさるのですか?」
「ああ、そうだ。もちろん、エレノアには内緒だぞ」
先ほどまでの動揺はどこへやら。
アルヴィスの瞳が、未知の真理を追い求める少年のように爛々と輝き始める。
「お、お父さま。本当によろしいのですか……?」
「目の前に未知へ通じる扉があるというのに、開けずに素通りすることなど、研究者にはできん」
アルヴィスは何やら考え込む。
「……そうだな。まずは、この本を安全に扱える鍵付きの研究室を用意する必要がある。ではリディア、またあとでな」
「えっ?」
アルヴィスは弾かれたように腰を上げると、どこか浮き足立った様子で部屋を飛び出していった。
一人残されたリディアは、呆然とその背中を見送る。
(お父さま……本当に大丈夫かしら)
これから先の未来を知らないということが、こんなにも怖いものだったとは思わなかった。
予想外の父の反応に、不安はまだ残っている。
けれど同時に、アルヴィスへすべてを打ち明けたことで、胸の奥に長く沈んでいた重石が少しだけ軽くなったようにも感じていた。
そして、数日後。
「父上から聞いたよ。……リディア、お前の話もな」
新たに用意された研究室で待っていたリディアのもとを訪れたのは、兄のアレクシスだった。
いつもより少しだけ真面目な、それでもどこか柔らかな表情を浮かべて、リディアの正面に立つ。
「最初は、さすがに信じがたい話だと思った。だが、お前がこんな突拍子もない、それも自分に何の得もない嘘をつくとは思えないからな」
アレクシスは優しく笑った。
「……信じるよ、リディア」
「お兄さま……」
父だけでなく、兄までもが自分の言葉を真っ直ぐに受け止めてくれた。
リディアの視界がじんわりと熱を帯びる。
「よしよし。俺の可愛いリディア。一人でよく頑張ったな」
アレクシスは、幼い子供をあやすかのような大袈裟な仕草でリディアを抱き寄せた。
大きな手のひらが、愛おしそうにリディアの頭を何度も撫でる。
(あ……懐かしい……)
幼い頃は、こうして抱きしめられるたびに嫌がり、すぐに兄の腕を払い除けていた。
アレクシスもまた、今回もすぐに突き放されると思っていたのだろう。
しかし、リディアは意外にも満足そうに目を細め、そのまま兄の腕の中に身を預けた。
(久しぶりに撫でられるのも、悪くないわね)
「こら。……兄妹でいちゃつくんじゃない」
不意に部屋の扉が開いた。
アルヴィスが呆れたような、それでいてどこか複雑そうな顔をして立っている。
「お父さま……! 違います。ただ、お兄さまに少し甘えさせていただいただけですから」
リディアは顔を真っ赤にし、慌ててアレクシスの腕から離れた。
そんな妹の様子を、アレクシスは名残惜しそうに、けれど満足げに眺めている。
「冗談はさておき。早速、例の本をリディアに読んでもらおうか」
アルヴィスは脇に抱えていた、あの禁忌の本を机の上へ広げた。
「黙読するだけでは何も起こらない、と言っていたな? 声に出して読まない限りは安全なのか?」
「はい。少なくとも、以前は読んでいるだけでは何も起こりませんでした」
リディアはわずかに震える指先で、重厚な装丁の本に触れた。
ゆっくりとページを繰っていく。
そこには、かつて見たものとまったく同じ、記号とも模様ともつかない奇妙な羅列が並んでいた。
太い線。
塗りつぶされた円。
装飾のように複雑に絡み合う線。
密度が高く、見る者を圧倒するような奇妙な「紋様」。
普通の人間が見れば、ただの記号や模様にしか見えないのだろう。
だが、リディアの瞳には、それがはっきりと意味を持つ「文字」として映っていた。
(……不思議。いろいろな場所で見つかったものをまとめただけあって、ページごとに内容がまったく違うわ)
あるページには、切なくも美しい詩が。
別のページには、誰かに宛てた熱烈な恋文が。
また別のページには、淡々と日々の出来事を記した日記のような文章が綴られている。
そして、あるページで、リディアの指が止まった。
「……私が唱えたのは、これです」
そのページに記されていたものは、それまでの内容とは明らかに異質だった。
幾何学的で、精緻を極めた、美しい魔術式。
「……なんて、恐ろしく美しい魔術式だ」
アルヴィスが魅入られたように身を乗り出した。
「これが……時を操る……」
アレクシスも緊張した面持ちで、息を呑む。
三人の視線が、未知の魔術式へと注がれた。
こうして、リディア、アルヴィス、アレクシスによる、禁忌の本の解析が始まったのだった。




