第6話 エルヴィン領の恵神祭
黄金色の穂が秋風に揺れ、澄んだ空に祝祭の鐘が鳴り響く。
北の要、エルヴィン領。
一年の実りを神々へ捧げ、無事に巡った季節を祝う「恵神祭」が、今年も盛大に始まった。
城門前の大広場は、朝から人で埋め尽くされている。
炭火で焼かれた肉の匂い、甘い酒の香り、土のついた長靴で走り回る子どもたちの声。
普段はきっちり背筋を伸ばしている使用人たちまで、今日はどこか忙しなく、でも少し楽しそうだった。
(すごい熱気……)
人の流れに押されないよう裾を押さえながら、リディアは目を丸くした。
祭りは毎年あった。
もちろん知っているし、見たことも何度もある。
けれど以前の自分は、こうして人の輪の中に立って眺めたことがほとんどなかった。
屋敷の高い場所から、少し退屈そうに見下ろしていただけだ。
(前の私なら、匂いが服につくとか、うるさいとか、そんなことばかり考えていたでしょうね)
思わず小さく苦笑する。
大広場の一角では、今年収穫した穀物が大きな麻袋に詰められ、公爵家の倉へ運び込まれていた。
そのすぐ近くでは、去年までの備蓄だった麦や野菜、干し肉や酒が次々と振る舞われている。
豊かな年でも、冬は容赦なくやって来る。
エルヴィン領では、祭りもまた冬支度の一部だった。
分かち合わなければ越えられない。
笑っていても、その前提にある厳しさが、この土地には確かにある。
騎士団が腕を振るう特設厨房では、魔獣の肉が豪快に焼かれていた。
スノーボアの丸焼きは脂が炭へ落ちるたびに火を上げ、キングバイソンの串焼きは大人の腕ほどもある。霜光サーモンは厚く切られ、鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てていた。
近くを通っただけで、腹の奥がきゅっと鳴りそうになる。
「リディア様、クッキーちょうだい!」
裾を引っ張られ、リディアは視線を落とした。
そこには、小さな子どもが三人、目を輝かせて立っていた。
一人は鼻の頭に粉までつけている。
「はいはい、ちゃんと並んでちょうだい。押したらだめよ」
リディアが言うと、子どもたちは慌てて一列に並び直した。
横でエマがくすりと笑いながら籠を差し出してくる。
今日リディアが配っているのは、大麦とてんさい糖で作った素朴なクッキーだ。
焼き色は少し不揃いで、形も完璧とは言い難い。だが、噛めばしっかり甘く、保存もきく。
去年のリディアなら、こういう実用品みたいなお菓子は地味だと思ったかもしれない。
「少し固めだから、ちゃんと噛んで食べるのよ」
「はーい!」
「リディア様、これすっごく美味しい!」
「ふふ、ありがとう。転んで歯を折らないように気をつけてね」
子どもたちはクッキーを握りしめたまま、また駆けていく。
その背中を見送りながら、リディアは小さく息を吐いた。
(……“すごく美味しい”って言うほどのものでもないのに)
でも、受け取った瞬間のあの顔を見ると、悪い気はしなかった。
むしろ思っていた以上に、胸の中がじんわり温かくなる。
少し離れたところから、威勢のいい声が響いた。
「若旦那! 今年の小麦は本当に良かったですぜ。あの肥やし、最初は半信半疑だったが、見事に効いた!」
「良かった。春先は正直、少し不安だったからね」
声の方を見ると、兄のアレクシスが農夫たちに囲まれていた。
泥の跳ねた長靴の男たちの輪の中にいても、アレクシスは少しも気後れしていない。
むしろ領民たちの言葉を一つずつ拾いながら、必要なことはちゃんと覚えて帰る気配がある。
「ただ、来年も同じ配合が通るとは限らない。雪解けの時期がずれれば、また調整しないと駄目だ」
「うわ、若旦那、そういうとこが賢すぎて怖ぇな」
「怖いって何だよ」
アレクシスが少し肩をすくめて笑う。
そのやり取りが妙に自然で、リディアは目を細めた。
(……お兄様、いつの間にあんなふうに)
ただ優秀な兄ではなく、もうこの土地を背負う側の顔になっている。
一度目の人生では、そのことにほとんど気づいていなかった。
さらに視線を巡らせると、炊き出しの大鍋の前では母エレノアが袖をたくし上げ、領民の女性たちと一緒に味見をしていた。
「奥様、もう少し塩を足した方がよろしいでしょうか?」
「そうねえ……でも今日は子どもも多いから、少し薄めでもいいかもしれないわ。ほら、お酒を飲む人は勝手に濃いものを食べるもの」
「まあ、奥様ったら」
くすくすという笑いが広がる。
きれいな服のまま、鍋の前に立っても嫌味にならないのは母のすごいところだと、リディアは今さら思った。
この祭りは、ただの公爵家が与える場ではない。
公爵家もまた、ちゃんとその中に混ざっている。
その空気が、領地全体をひとつに見せていた。
⸻
やがて大広場の中央に設けられた壇上へ、父アルヴィスが上がった。
さっきまでざわめいていた広場が、すうっと静まる。
酔って騒いでいた男たちまで、ぴたりと口を閉じた。
父はぐるりと広場を見回し、大きく息を吸う。
「皆のもの! 今年もこうして、共に秋を迎えられたことを神々に感謝する!」
わっと歓声が上がった。
「冬は厳しい! 毎年のことながら、それは今年も変わらん!」
その言葉に、誰かが「違いねえ!」と笑い、少し空気が緩む。
「だが、お前たちが耕し、刈り取り、運び、蓄えた。この実りは、その証だ!」
父のよく通る声が、冷たい空へまっすぐ伸びていく。
「我らエルヴィン公爵家は、誰一人として飢えさせぬ。皆で食べ、皆で越え、また春を迎えるぞ!」
「おおおおっ!」
「エルヴィン公万歳!」
どっと声が上がり、父が大樽の蓋を斧で叩き割ると、祭りの熱は一気に最高潮へ達した。
飛び散る酒。
笑い声。
拍手。
肩を叩き合う音。
その全部を見ながら、リディアは胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
(……私、何も見ていなかったのね)
一度目の人生では、この祭りの華やかなところしか見ていなかった。
でも本当は、その下にもっとごつごつした現実がある。
冬への備え。
飢えへの恐れ。
働く人たちの手。
それを支える家の責任。
そのどれもを知らないまま、自分はすべてを分かっているような顔をしていた。
⸻
壇上を降りた父が、そのままリディアの方へ歩いてきた。
「リディア。お前のクッキー、ずいぶん人気だったな」
いつもより少しだけ緩んだ目元で言う。
「たくさん焼いておいてよかったですわ」
「形は少し不揃いだったがな」
「そ、そんなことないです!」
「はは、冗談だ。味は好評だったぞ」
リディアが少しむっとすると、父は珍しくはっきり笑った。
それからふと表情をやわらげる。
「……最近のお前は、本当によくやっている。エルヴィンの娘として誇りに思うぞ」
大きな手が、ぽん、と頭に乗せられた。
その重みと温かさに、リディアは一瞬だけ喉が詰まりそうになる。
「……ありがとうございます」
うまく笑えたかは分からなかった。
でも父はそれ以上何も言わず、ただ一度だけ満足そうに頷いて去っていった。
⸻
夜になると、祭りはさらに賑やかさを増した。
広場には松明が灯り、音楽隊が軽快な旋律を奏で始める。
踊る者、歌う者、飲み比べを始める者。
昼間の働き者たちが、今度は堂々と羽目を外している。
リディアは少し火照った頬を休めたくなって、屋敷の裏手にある静かなバルコニーへ出た。
「……やっぱりここにいたのか」
振り返ると、アレクシスが二つのカップを持って立っていた。
「お兄様」
「少し休憩。これ、温かいシードルだよ」
差し出されたカップからは、林檎と蜂蜜、それに少し焦がしたような甘い香りが立ちのぼっていた。
「ありがとうございます」
「今日はお疲れ様。子どもたちにずいぶん懐かれていたね」
「私も驚きましたわ。あんなにまっすぐ来られると、少したじろいでしまいます」
「見ていて面白かったよ。最初はちょっと固かったけど、途中からちゃんと馴染んでいた」
「見ていたのなら手伝ってくださっても良かったのに」
「手を出してはつまらないだろう」
からかうように言われ、リディアは少しだけ唇を尖らせた。
その反応を見て、アレクシスが声を立てて笑う。
しばらく二人で広場を見下ろした。
下からは、笑い声と食器の触れ合う音が絶えず届いてくる。
「……でも、少し分かった気がします」
リディアがぽつりと呟く。
「何が?」
「このお祭りが、ただ楽しいだけのものではないということですわ。皆が食べて笑っていても、その裏ではちゃんと冬のことを考えているのですね」
アレクシスは少しだけ驚いたように目を見開き、それから頷いた。
「そうだね。浮かれてばかりもいられない。エルヴィンの冬は毎年厳しいから」
「ええ……今日、少しだけそれを感じました」
昼間見た、穀物を運ぶ手。
鍋をかき回す母。
領民たちと言葉を交わしていた兄。
その光景が、まだ胸に残っている。
「今まで私は、守られることばかり考えていたのかもしれませんわ」
そう言うと、アレクシスは静かにリディアを見た。
「それなら、これから少しずつ覚えていけばいいさ」
「……はい」
「リディアにも、できることはあるよ」
アレクシスはカップを手すりに置き、広場の方へ目を向けたまま続ける。
「この土地を良くしたいと思うなら、それだけでも十分力になる」
リディアは兄の横顔を見つめた。
一度目の人生では気づかなかったが、この人はずっと前からこうして領地のことを考えていたのだろう。
「お兄様」
「うん?」
「私も、ちゃんとエルヴィンのために動けるようになりたいですわ」
アレクシスはすぐには答えず、一拍置いてから柔らかく笑った。
「それは心強いな」
「まだ、何ができるかは分かりませんけれど」
「それで十分だよ。最初から何でもできる必要なんてない」
夜風が、二人の髪を揺らした。
「これからは一緒に、この地を守っていこう」
その言葉は重すぎず、けれどまっすぐだった。
リディアは少しだけ目を丸くして、それから自然に笑った。
「……はい、お兄様」
「よし。言質は取った」
「ずるいですわ。今の流れで断れるわけがないでしょう」
「断られたらちょっとへこんでたよ」
そんな軽口に、リディアは思わず吹き出した。
松明の灯りが揺れ、遠くでまた歓声が上がる。
二人は顔を見合わせて笑い、そのまま並んで広場へ戻っていった。
この温もりを、今度こそ手放したくないと思った。




