第5話 婚約なんてお断りします
「……リディア。ひとつ、話がある」
夕食の席で、父アルヴィスが静かに切り出した。
カチャリ、と食器が皿に触れる小さな音が響く。
それまで穏やかだった食卓の空気が、その一言でわずかに張りつめた。
「王宮から、正式な打診が来ている」
「……打診、ですか?」
リディアが問い返すと、隣に座る母エレノアの表情がぱっと明るくなった。
「まあ! もしかして……」
期待を隠しきれない母の視線を受け、アルヴィスはゆっくりと頷いた。
「第一王子、クラウス・レオンハルト殿下の婚約者候補として、だ」
その瞬間、リディアの胸の奥で何かが鋭く軋んだ。
(……来た)
脳裏に、あまりにも鮮明な光景がよみがえる。
冷たい石造りの講堂。
自分へ向けて突きつけられた指先。
そして、愛する人から冷え切った声で告げられた婚約破棄。
気づけば、フォークを握る手に力が入っていた。
「よかったな! 妃になりたいって、小さい頃から言ってたもんな!」
兄のアレクシスが、屈託のない笑顔を向ける。
「まあ、とても光栄なことだわ!」
母エレノアも、感極まったように胸の前で手を合わせた。
「リディア、最近の貴女はとても落ち着いているでしょう? 今の貴女なら、妃教育にもきっとすぐ馴染めるわ」
「……お母様」
弾むような家族の声を聞きながら、リディアは意を決して口を開いた。
「そのお話、お断りしたいです」
その場が、しんと静まり返った。
母は目を見開き、兄はフォークを持ったまま固まり、父だけがじっと娘を見つめている。
「……なんだって?」
アルヴィスが、信じられないものを見るかのように目を瞬かせた。
王家から持ちかけられた婚約話だ。
ましてや、相手は第一王子。
いくら公爵家とはいえ、軽々しく断れる話ではない。
「どうしてだ? リディア、理由を聞かせなさい」
父の困惑した視線を正面から受け止め、リディアは一度深く息を吐いた。
「クラウス殿下は、類まれなる才覚も人望もおありになる方です。それに比べて私は……」
喉の奥に詰まる苦い記憶を飲み込みながら、言葉を紡ぐ。
「これまで私は、家柄に甘えてばかりでした。社交も政治も未熟で、とても殿下を支えられるような器ではありません。私では、釣り合わないと思います」
それは建前であり、自分への戒めを込めた本音でもあった。
前の時間軸で、リディアは狂おしいほどにクラウスを愛していた。
けれど、どれだけ背伸びをしても、その想いが彼に届くことはなかった。
やがて強すぎる想いは嫉妬や焦りへと変わり、最後には人を傷つけてしまった。
(あの絶望の未来を、もう一度なぞるつもりはない)
アルヴィスはしばらく黙っていた。
指先でテーブルを静かに叩きながら、考えるように目を伏せる。
やがて、低く息を吐いた。
「……王家への返答は、私が責任をもって行う。リディアの気持ちを尊重しよう」
「あなた……!」
エレノアが思わず声を上げる。
だがアルヴィスは、静かに首を振ってそれを制した。
「妃とは、国の母だ。家柄だけでなく、覚悟も人間性も求められる立場だ」
父の視線が、まっすぐリディアへ向けられる。
「その意思がない者に、安易に勧めるべきではない」
その言葉に、強張っていたリディアの胸が少しだけほどけた。
「……ありがとうございます、お父様」
アルヴィスは何も答えなかった。
ただ、何かを考えるように、しばらく娘を見つめていた。
――それから数日後。
リディアは父の執務室へ呼ばれていた。
「……王宮から、招待状?」
差し出された重厚な封筒を見て、リディアは思わず眉をひそめた。
上質な紙に、王家の紋章が刻まれた封蝋。
間違いなく、王宮からの正式な招待状だった。
嫌な予感が、背筋をするりとなぞっていく。
「クラウス殿下が、ぜひ一度お会いしたいと仰せだ」
アルヴィスが落ち着いた声で告げる。
「どうして婚約を断ったのか、直接話を聞いてみたいのだろう」
(私にこだわる理由なんてないはずなのに、どうして……)
困惑は深まるばかりだった。
断ち切ったはずの縁が、形を変えて再び動き始めたような気がした。
ヴァルディア王国の中心に位置する王都からは、東西南北へ四本の主要街道が伸びている。
その先に広がるのが、四大公爵家の治める領地だ。
リディアは北のエルヴィン領から王都へ続く街道を、馬車に揺られながら進んでいた。
窓の外を流れていく緑の景色は、前の時間軸でも何度となく見たものだ。
それなのに今は、ひどく遠く、どこか別の世界の景色のように思える。
やがて、馬車は王宮へ到着した。
白亜の回廊。
見上げれば首が痛くなりそうなほど高い天井。
磨き上げられた大理石の床。
そして、神話の一節を描いた壮麗な天井画。
何度訪れても、この場所には人を圧倒するような空気がある。
案内された広間の前で扉が開かれ、リディアは静かに足を踏み入れた。
「初めまして。エルヴィン公爵令嬢、リディア嬢」
窓から差し込む光を背に立っていたのは、金色の髪と青い瞳を持つ少年だった。
深い青を基調とした王族らしい上着を身につけ、その立ち姿には年齢に似つかわしくない品格がある。
前の時間軸で知っている、冷たく整った青年の面影。
けれど、目の前にいる彼はまだ少年で、表情にもどこか柔らかさが残っていた。
「クラウス・レオンハルトです」
(……前の時間軸では、一度もこんな穏やかな顔を私に見せてはくれなかった)
喉の奥が、かすかに締めつけられる。
けれど、リディアはそれを押し込み、淑女らしい完璧な所作で一礼した。
「お初にお目にかかります。お招きいただき、光栄に存じます」
クラウスはその所作をじっと見つめてから、静かに口を開いた。
「婚約の打診を断ったと聞きました。失礼を承知で伺いますが……どのような理由からでしょうか。どうしても気になってしまって」
(前の時間軸では、私に欠片も興味を示さなかったくせに)
そんな意地の悪い言葉が、ふと頭をよぎる。
もちろん、口には出さない。
「大変恐れ入りますが、私は妃として国を支えられるほどの器ではございませんし、殿下にふさわしい令嬢でもないと思いました」
できるだけ落ち着いて、丁寧に答える。
「私が誇れるものなど、家柄くらいです。それに……殿下のお好みにも合わないでしょうし、私よりもっと相応しい方がいらっしゃるかと」
「ほう?」
クラウスの眉が、わずかに動いた。
「どうして初対面の貴女が、私の好みを知っているのですか?」
穏やかだったクラウスの瞳に、怪訝な色が混じる。
(しまった……! つい、前の時間軸の感覚で話してしまったわ)
「あの……それは……その……」
リディアの頭が目まぐるしく回転する。
「殿下は聡明でいらっしゃいますし、多くの方から慕われておりますから……婚約者にも、そのような方をお求めになるのではないかと。恐縮ながら、私にはどちらも備わっておりませんので、婚約者候補になること自体がおこがましいかと……」
我ながら苦しい言い訳だった。
クラウスは少し考えるようにリディアを見つめる。
「……なるほど。つまり君は、自分では婚約者が務まらないと思っているんだな」
「ええ、その通りです」
クラウスは、どこか意外そうな顔でリディアを観察していた。
その視線が妙に気にかかる。
「……? 殿下、いかがなさいましたか?」
「いや。君の様子が、聞いていた話とはずいぶん違うものだから。興味深いと思ってね」
「それは、どういう……」
リディアが尋ねかけた、その時だった。
「兄上、その方が例の?」
背後から、軽やかな声が響く。
振り向くと、クラウスと同じ金髪に青い瞳を持つ、愛らしい顔立ちの少年が近づいてきた。
明るい色合いの上着は王子らしく上品で、それでいて彼の人懐っこい雰囲気によく似合っている。
「ぼくは、ルーカス・レオンハルトです」
さらにその後ろから、すらりと背の高い少年が一歩進み出た。
黒髪をきちんと整えた彼は、装飾の少ない濃紺の服を身につけている。
姿勢がよく、年齢のわりに引き締まった体つきと隙のない立ち姿が目を引いた。
「殿下の従者、セドリック・ヴァルデックです」
ルーカス。
そして、セドリック。
前の時間軸でも見知った顔ぶれだ。
けれど、この頃の二人にはまだ、記憶の中よりもずっと幼さが残っていた。
セドリックは、まるで値踏みをするような鋭い眼差しでリディアを見つめている。
敵か味方かを見極めようとするような、静かな警戒。
(さすが、ヴァルデック家の子息……。この頃から変わらないのね)
一方のルーカスは、人懐こい笑顔のまま、遠慮なくリディアを観察していた。
(ルーカス様もセドリック様も、この頃はこんなにあどけなさが残っていたのね。……可愛らしいわ)
ほんの少し頬が緩みそうになるのを抑え、リディアは改めて淑女の笑みを浮かべた。
「初めまして。リディア・エルヴィンです」
ルーカスとセドリックは、一瞬だけ視線を交わした。
「お噂はかねがね伺っております」
セドリックがそう言ったが、どんな噂なのかは聞かない方が賢明だろう。
「兄上、婚約を断られた相手をわざわざ呼び出すなんて、なかなかいい趣味をされていますね」
ルーカスが、楽しそうにクラウスへ言う。
「私にも、殿下のお考えは理解しかねます」
セドリックも淡々と続けた。
「二人とも、レディの前で失礼だぞ」
三人のやり取りに、リディアは思わず小さく笑ってしまった。
「あ、リディア嬢は笑うと可愛らしいですね」
ルーカスが無邪気に言う。
「すみません。笑ってしまって、失礼いたしました」
リディアが慌てて頭を下げる。
「いや、構わないよ。そんなに堅くならなくて大丈夫だから、もっと笑ってください。……ほら!」
そう言うなり、ルーカスがリディアに向かっておかしな顔をしてみせる。
「ルーカス殿下! そういうことはおやめください」
セドリックがすぐさま止めに入り、ルーカスは不満そうに口を尖らせた。
その様子を見て、クラウスも小さく笑っている。
(……前の時間軸では、こんなふうに彼らと笑い合うことなんてなかった)
不思議な感覚だった。
その時、クラウスがふと真面目な表情でリディアを見た。
「婚約を無理に進めるつもりはありません」
静かな声だった。
「ただ、率直に言えば、貴女という人をもう少し知りたいと思いました」
不意に投げかけられたその言葉に、リディアの喉の奥がわずかに詰まった。
(その言葉……もっと、もっと前に聞きたかった)
前の時間軸で、あれほど欲しくて、それでも決して手に入らなかったもの。
その残響が、今さら胸を掠めていく。
けれど、もうそこへ戻るつもりはない。
「私は、殿下の期待に応えられるような令嬢ではありません」
リディアは穏やかに答えた。
それから、静かに続けた。
「それでも、よろしいのですか?」
クラウスは一瞬だけ目を見開き、それからわずかに笑った。
「私はそうは思いませんが。今日お会いして、むしろ期待以上だと感じていますよ」
からかっているわけではなく、本当にそう思っているような声音だった。
リディアも、今度は自然に微笑みを返す。
(もう、あなたを愛することはない。でも、この時間軸で友人としてなら……そのくらいの距離なら、許されるのかもしれない)
それからというもの、リディアは時折、王宮へ招かれるようになった。
四人で茶を囲み、少年たちの剣や魔法の稽古を見学し、他愛もない話で笑う。
前の時間軸では決して訪れなかった、穏やかな時間だった。
窓の外には、いつものように王宮の庭が広がっている。
それなのに今のリディアには、その景色が以前よりもずっと明るく、新しいものに見えた。
未来がどうなるのかは、まだ何も分からない。
けれど、少なくとも一つだけ確かなことがある。
今の自分は、前の時間軸とは違う道を歩いているのだ――と。




