第55話 悪夢の共有
学園の庭園にある東屋。
その周囲には色とりどりのポピーが咲き、初夏の風に揺れている。どこからか、小鳥の澄んださえずりも聞こえてきた。
リディアとトビアスは、東屋に置かれた木製のテーブルを挟み、椅子に向かい合って腰を下ろした。
トビアスは、なんとも複雑な気持ちだった。
好きな女性と二人きり。
花に囲まれた東屋という、これ以上ないほどの状況だというのに、これからするのは甘い話などではない。
むしろ、彼女が隠していることを聞き出そうとしている。
(せっかく二人きりなのにな……)
心の中で小さくため息をつく。
トビアスには、『言外の加護』という加護がある。
会話している相手が、その話題に関係する情報を意図的に伏せている場合、それを違和感として感じ取ることのできる加護だ。
分かるのは、あくまで「何かを隠している」ということだけ。
何を隠しているのか。なぜ隠しているのか。
そこまでは分からない。
ダンジョン探索実習の一件以来、リディアの様子は明らかにおかしかった。
事件を事前に知っていたかのような言動。
フィオナを助け出したあと、泣きながら何度も謝っていたこと。
そして事件の全容が明らかになった今も、彼女の表情は晴れない。
何かがある。
そう思ったからこそ、今日こうしてリディアを呼び出したのだ。
「ダンジョン探索実習以来、元気がないようだけど……大丈夫?」
「ええ。あんなことが起こったので、とても驚いてしまって……。でも、フィオナ様も元気になられましたし、もう大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
リディアはにこりと微笑んだ。
「それなら安心したよ」
トビアスも笑って返す。
だが、『言外の加護』が微かな違和感を伝えていた。
「そういえば、昨日ベアトリクス嬢と話していたね。二人は親しかったの?」
「いえ……あまりお話ししたことはなかったのですが、少し聞きたいことがありまして」
リディアは曖昧に微笑み、そこで言葉を濁した。
(……やっぱり、何か隠している)
トビアスは考えるように目を伏せた。
少しの間を置いてから、灰緑の瞳をまっすぐリディアへ向ける。
「あのとき……ダンジョンの中で、どうしてフィオナ様に謝っていたんだい?」
いつもより低い声で問いかける。
「それは……説明が少し複雑でして……」
リディアは思わずトビアスから視線を逸らし、テーブルの木目へ目を落とした。
「あの事件に、まさかリディア様が何か関わっているのかと……勘繰ってしまったよ」
トビアスのまっすぐな言葉に、リディアの心がざわついた。
「……そうですね。そう思われても、仕方ありません」
リディアは小さく頷いた。
その返事に、トビアスはわずかに顔を歪めた。
肯定してほしかったわけではない。
短い沈黙が落ちる。
初夏の湿り気を帯びた風が、二人の間を静かに通り過ぎていった。
リディアは視線を伏せたまま、膝の上で指先をきゅっと握りしめる。
「……夢を見たんです」
ようやく絞り出された声は、かすかに震えていた。
「フィオナ様に嫉妬して、過ちを犯してしまう……そんな愚かな夢を」
「君がフィオナ様に嫉妬……?」
トビアスは怪訝そうに眉をひそめた。
「フィオナ様には悪いが、君の方がずっと恵まれた環境にいる。知識も能力も、十分すぎるほど持っているじゃないか」
その言葉に、リディアはふっと笑った。
「ありがとうございます、トビアス様」
けれど、その微笑みはどこか頼りなく、すぐに消えてしまいそうだった。
トビアスは言葉を探した。
だが、うまく見つからなかった。
公爵令嬢という誰もが羨む立場にありながら、リディアはいつもどこか必死にもがいているように見えた。
何かに追われ、何かを恐れ、気を抜けば崩れてしまいそうな危うさがある。
とりわけ、あのダンジョン探索実習の日の彼女は異様だった。
リディアは確かに「何か」を知っていて、「何か」を恐れていた。
分からない。
けれど、分からないままにしておきたくもなかった。
(どうしてリディア様は頼ってくれないんだ。僕では、頼りにならないのか……)
胸の奥に、苦いものが広がる。
だが、すぐにトビアスは自分の考えを打ち消した。
(……いや、違う)
相談してもらうことが目的ではない。
自分を頼ってほしいから、彼女の秘密を知りたいわけでもない。
(リディア様から相談してもらえなくても、それでもいい。僕はただ、彼女の肩の荷を少しでも軽くしたいだけだ)
たとえ鬱陶しいと思われても。
踏み込みすぎだと嫌がられても。
トビアスは顔を上げた。
「リディア様。その夢というものを、もう少し詳しく教えてもらえないだろうか」
リディアが、はっとしたように目を上げる。
「僕もその悪夢を、リディア様と一緒に見たいんだ」
真剣な眼差しを向けられ、リディアは戸惑ったように息を呑んだ。
「……トビアス様には勝てませんね」
「勝つ?」
「そんなふうに言われたら……誤魔化せなくなってしまうもの」
困ったように笑いながらも、リディアの表情はすぐに翳った。
話してしまっていいのだろうか。
胸の奥に押し込めてきたものは、あまりにも荒唐無稽で、重く、醜い。
前の人生の記憶。
自分が犯した過ち。
フィオナを襲った悲劇。
そして今もなお、誰かが彼女を狙っているかもしれないという疑念。
どれも口にした瞬間、今ある穏やかな日常が音を立てて壊れてしまいそうで怖かった。
けれど――目の前の青年は、問い詰めるのではなく、ただ寄り添おうとしてくれている。
そのことが、どうしようもなく、じんと沁みた。
「……信じてもらえないかもしれません」
そう言うと、トビアスはすぐには答えなかった。
その一瞬の間に、リディアの心が冷たく沈みそうになる。
だが、彼は軽々しく肯定しなかっただけだった。
「……すぐに全部理解できるとは、言えない」
真面目な顔で少し考えるように視線を落としてから、トビアスはゆっくりと顔を上げた。
「でも、君がこんな顔をしてまで、僕に嘘をつこうとしているとは思わないよ」
その言葉に、耳の奥がじわりと熱を帯びた。
リディアはぎゅっと唇を結び、覚悟を決める。
「……私は一度、死にかけて、そのとき十二歳の頃まで時間が戻ったんです。私には、その前の人生の記憶があります」
風が、ぴたりと止んだような気がした。
トビアスは何も言わなかった。
驚いていないわけではない。
灰緑の瞳はわずかに見開かれている。
それでも茶化しも否定もせず、ただ静かに続きを待っていた。
「一度目の私は……傲慢で、愚かで、嫉妬深くて」
脳裏に、あの断罪の光景がよぎる。
「……私はベアトリクス様と、まったく同じ過ちを犯しました。偶然と片付けるには、あまりにも同じことが多すぎるんです。誰かが私やベアトリクス様の嫉妬心を利用して、フィオナ様を攻撃するように仕向けたのではないかと思っています」
リディアは強い瞳でトビアスを見た。
「自分の弱さを誰かの仕業になすりつけようとしているように思われるかもしれません。でも……フィオナ様は、誰かに狙われている可能性が高いと思います」
トビアスの表情が引き締まる。
「それは……今回のダンジョン探索実習だけではなく?」
「断言はできませんが、おそらく。……ローレンツ様が、関わっているかもしれません」
「ローレンツが?」
さすがのトビアスも、息を詰めた。
「根拠と呼べるほどのものはありません。けれど、前の人生で私の心を煽った噂も、実習で罠を仕掛けるのに適した場所のことも……思い返せば、いつも彼が関わっていました」
リディアは唇を軽く噛んだ。
「ローレンツ様はいつも優しかった。でも今思えば、その優しい言葉の中に、私の嫉妬を煽るものが何度も混じっていたんです」
「……なるほど」
「明確な証拠は何もありません。私が見落としている何かが、まだあると思うのですが……」
そこでリディアは、右手の中指にはめた指輪へ目を落とした。
「……ただ、一つだけ確かめたいことがあります」
「確かめたいこと?」
「昨日、ベアトリクス様に話を聞いた時、この指輪が光ったのです」
トビアスの視線が、透明な石のはめ込まれた指輪へ向かう。
「マグダレーナ先生からいただいた、精神干渉魔法を感知する指輪です。ベアトリクス様は、深部のことを誰から聞いたのか思い出せないと言っていました。その時、この指輪が反応しました」
「……精神干渉?」
トビアスの表情が変わった。
「確証はありません。でも、もしベアトリクス様が何者かから精神干渉を受けていたのなら、今回の事件には別の人物が関わっている可能性があります」
トビアスは顎に手を添え、しばらく考え込んだ。
「……それなら、調べる価値はある」
「実は、精神干渉の魔法を解除する魔法を見つけたんです。……ベアトリクス様に試すことができれば、何か分かるかもしれません」
「なるほど。彼女に会う必要があるわけだ」
「……はい。でも、今のベアトリクス様は王国裁定院の管理下にあるので、私が簡単に面会はできそうもなくて」
トビアスは少し考えたあと、静かに頷いた。
「分かった。父に相談してみるよ」
「アイゼン公爵様に……?」
「王国裁定院の最高監督は、代々アイゼン公爵家が担っている。もちろん、僕の一存で君を会わせることはできない。でも精神干渉の疑いがあるなら話は別だ。今回の事件に第三者が関与している可能性を調べるため、追加の調査ができないか父に相談してみる」
リディアは目を見開いた。
「ただし、解除魔法を使うなら、それについても許可が必要になるだろう。ベアトリクス嬢は今、裁定を待つ身だからね」
「もちろんです」
「それと、もし面会できることになったら、僕も同行するよ」
「トビアス様も?」
「ああ、君一人で拘束中の侯爵令嬢に会わせるわけにはいかないしね。何より、僕自身の目で確かめたい」
トビアスは少しだけ笑った。
前の人生の記憶。
十二歳から人生をやり直しているという話。
そして、同じ公爵家に連なるローレンツへの疑念。
どれも、本来なら簡単に信じられるような話ではない。
ベアトリクスと前の人生の事件が酷似しているという話。
そして何より、精神干渉魔法を感知する指輪が反応したという、今の時間軸にも存在する手がかり。
すべてを事実だと断定することはできない。
それでも、トビアスは点と点が繋がったような、すっきりした気分でいた。
「話してくれてありがとう」
トビアスはリディアをまっすぐ見つめた。
「前の人生のことは、まだ僕にも分からない。でも、君が話してくれたことを嘘だとは思わない。僕は君を信じるよ」
あまりにも迷いのない返答に、リディアは言葉を失った。
「まずはベアトリクス嬢の件を調べよう。精神干渉の痕跡が確認できれば、そこからもっと詳しく調べられるはずだ」
「ありがとうございます……!」
「僕自身も、フィオナ様や君の周囲を注意して見るよ。セドリックたちにも、不自然にならない範囲で気を配ってもらおう」
リディアは、目の奥が熱くなるのを感じた。
信じてもらえないと怯えていたのに。
今、目の前の青年は、自分の言葉を現実に起こり得る危機として扱ってくれている。
「リディア様。今まで一人で抱えていたんだろう?」
「……こんなおかしな話、誰も信じてはくれないと思っていました。自分でも時々、人生を繰り返しているのは幻想で、私がおかしくなったのではないかと……」
ふっと自嘲気味の笑みが漏れる。
「僕はそうは思わない」
きっぱりと言い切られ、リディアは思わず顔を上げた。
「少なくとも、僕の目に映る君はいつも一生懸命で、誰よりも信頼できる人間だよ」
その瞬間、視界が滲んだ。
泣くつもりなどなかったのに。
張りつめていた糸が切れたように、リディアは小さく唇を震わせた。
「……ありがとうございます、トビアス様」
「礼を言われることじゃない。まだ何も解決していないんだから」
それでも、続けて言う声は柔らかかった。
「それにしても……露を帯びた白銀のバラは、あまりにも絵になりすぎるね」
トビアスは真剣な顔のまま、あえておどけてみせた。
「ふふ、もう。トビアス様ったら」
思わずリディアが笑う。
その笑みを見て、トビアスは少しだけ安心した。
前の人生の罪が消えるわけではない。
未来への不安がなくなったわけでもない。
それでも今だけは、一人ではないのだと思えた。
しばらくして、リディアは落ち着きを取り戻し、そっと息を吐いた。
「……では、よろしくお願いいたします」
「任せて。父上にはすぐに相談するよ」
トビアスはそう言って立ち上がったが、ふと思い出したようにリディアを振り返った。
「……それと、一つ謝っておかないといけないことがある」
「謝る?」
「今まで話したことがなかったけど、僕の加護は『言外の加護』というんだ。相手が会話に関係することを意図的に隠していると、それを違和感として感じ取ることができる」
リディアは目を瞬いた。
「では……私が何かを隠していると、最初から分かっていたのですか?」
「何かある、ということだけはね。内容までは分からないよ」
トビアスは少しばつが悪そうに笑った。
「それで君の様子を探るような聞き方をしてしまった。勝手に詮索して、申し訳なかった」
「アイゼン家らしい加護ですね……。トビアス様には隠し事も通用しないのですね。ますます勝てる気がしません」
「はは。僕はとっくに君に陥落しているんだけどな」
「……それは、どういう意味ですか?」
「いや。そこは流してくれて大丈夫」
トビアスは誤魔化すように手をひらひらと振った。
リディアは不思議そうに首を傾げる。
二人は東屋を後にし、並んで校門へと向かった。
話しているうちに、いつの間にか陽は大きく西へ傾いていた。
空は茜色に染まり、二人の長い影が石畳に伸びている。
やがて迎えの馬車がやってきた。
リディアが乗り込もうとしたところで、トビアスが呼び止める。
「リディア様」
振り返ると、先ほどまでの柔らかな表情は消えていた。
「君も、気をつけて」
「え?」
「君が思っている以上に、君自身も渦の中にいるように見えるから」
リディアは一瞬言葉を失った。
自分はフィオナを守る側だとばかり思っていた。
自分自身が狙われる可能性など、ほとんど考えていなかった。
「……ええ。分かりました」
リディアは小さく頷き、馬車へ乗り込んだ。
ゆっくりと走り出した馬車の中で、リディアは座席に身体を預ける。
そして、張りつめていたものを吐き出すように、深く息をついた。




