第54話 前世の記憶
学園から帰宅したリディアは、自室に籠もり、自分自身と真正面から向き合っていた。
今回の時間軸では、少なくともあのダンジョン事件によって断罪され、追放される未来は回避できた。
本来なら、素直に喜ぶべきなのに。
あまりにも腑に落ちないことが多く、そんな気分にはなれなかった。
どうして前の時間軸の自分は、あれほどまでにフィオナを憎み、あんな事件を起こそうとしたのか。
これまでリディアは、かつて自分が抱えていた感情を深く掘り下げることから、目を背け続けてきた。
けれど、ダンジョンでフィオナに直接謝罪したことで、ようやく過去を直視する覚悟が芽生えたのだ。
前の時間軸のリディアは、優秀な者ばかりのエルヴィン公爵家にあって、異端と言われるほど勉学を怠っていた。
家を傾けかねないと言われるほどの浪費癖。
傲慢で身勝手だという悪評。
クラウスの婚約者でありながら、彼からはいつも冷たい視線を向けられていた。
他人に何を言われようが平気な顔をしていたけれど、最愛のクラウスから向けられる軽蔑だけは、本当は耐えがたいほど辛かった。
そんな荒んだ心のまま入学した魔法学園。
Dクラスに入り、授業についていくのがやっとだった。
そこに、彼女――フィオナが現れた。
次期聖女と呼ばれる、特別な加護を持つ少女。
誰に対しても分け隔てなく優しく、彼女のいる場所には自然と人が集まった。
周囲の誰もが、フィオナに惹かれていくように見えた。
クラウスも。
ローレンツも。
リディアには一度も向けられたことのない、穏やかで優しい笑顔。
それをフィオナに向けるクラウスの姿を目にするたび、嫉妬の炎がリディアの内側を静かに焼いていった。
そして、追い打ちをかけるように、ある噂が耳に入った。
『何もできないリディア様ではなく、素晴らしい能力のあるフィオナ様こそがお妃に相応しいと、王宮で話し合われているらしい』
その瞬間、リディアの中で何かが音を立てて崩れ落ちた。
フィオナは、自分の大切なものをすべて奪っていく泥棒猫にしか見えなくなった。
教科書を捨てさせ、杖を折らせる。
子供じみた嫌がらせを繰り返し、そのたびにクラウスから向けられる軽蔑の眼差しが、さらにリディアを頑なにしていった。
そして、あのダンジョン探索実習で、ついに致命的な罠を仕掛けた。
『最近、教会ではフィオナ様の能力を疑う声も出ている。本当に強い能力を持っているのであれば、初級ダンジョンなんて大したことないだろう。けれど、北側のロック・スパイダー相手なら、彼女も厳しいかもしれないね……』
そうだ。
あの時、確かに誰かがそんなことを言った。
そしてリディアは、自分にとってあまりにも都合のいいその言葉に、縋るように飛びついたのだ。
(待って……教会? 誰が、そんなことを言ったの?)
リディアは記憶を手繰り寄せる。
言葉は覚えている。
そのとき、自分が何を感じたのかも覚えている。
なのに、その言葉を誰が口にしたのかだけが、妙に曖昧だった。
それでも必死に辿っていくうちに、ばらばらだった記憶の断片が少しずつ結びついていく。
そして――。
いつも穏やかに微笑んでいる、一人の少年の顔が浮かんだ。
(ローレンツ……?)
その顔が浮かんだ瞬間、さらに別の記憶がつながった。
『クラウス殿下の婚約者が、フィオナ様に変わろうとしている』
あの噂を最初に自分へ吹き込んできたのも――ローレンツだった。
思い返せば、彼はいつも傷ついた自分の傍にいた。
そして絶妙なタイミングで、フィオナへの嫉妬を煽るような言葉を口にしていた。
一度や二度ではない。
何度も。
「まさか、ローレンツ……様……?」
確信はない。
まだ、何一つ証拠もない。
けれど、あの温和な微笑みの裏に、別の意図があったのではないか。
そう考えた瞬間――。
リディアの身体は、自分でも抑えられないほど、ガタガタと震え始めた。
その夜、リディアはなかなか眠ることができなかった。
翌朝。
窓の外では、青々と茂った木々が初夏の眩しい陽光を浴び、きらきらと輝いていた。
だが、そんな気持ちの良い陽気とは裏腹に、リディアの顔には寝不足の疲れがありありと浮かんでいる。
エマはそんなリディアの様子を心配していたが、リディアは「少し本を読みすぎただけよ」と笑って誤魔化した。
昨晩、曖昧だった記憶が少しずつ鮮明になってからというもの、ベアトリクスやローレンツのことが頭から離れなかった。
前の時間軸でローレンツと親しくなったのは、学園へ入学して間もない頃だった。
階段で足を挫き、動けなくなっていたリディアを、偶然通りかかった彼が助けてくれたのだ。
それをきっかけに、二人は親しくなった。
ローレンツは穏やかで、誰に対しても分け隔てなく優しかった。
皆から敬遠されていたリディアにも、彼だけは変わらず親しく接してくれた。
また、ローレンツは恵神教への信仰も篤かった。
何かにつけて教会の教えを口にし、時には神官のようにリディアたちへ説いて聞かせることもあった。
王太子であるクラウスに対してさえ構わず教会の教えを説くものだから、その時ばかりはリディアも堪えきれず、大笑いしてしまったものだ。
(そんな真面目で優しいローレンツ様が、本当にこんなことをするかしら……。信じられないわ)
リディアは右手の中指にはめた指輪へ視線を落とした。
ベアトリクスに話を聞いた時、この指輪は確かに光った。
もし、あの光が精神干渉魔法の痕跡に反応したものだとすれば、ベアトリクスは何者かから精神干渉を受けていたことになる。
ならば、前の時間軸の自分も、知らないうちに同じような魔法を受けていたのではないか。
(もしベアトリクス様が精神干渉魔法を受けているのなら、先日見つけた解除魔法で解けるかもしれない。……でも、どうやって?)
ベアトリクスは今、王都で身柄を拘束されているはずだ。
いくら公爵令嬢であるリディアでも、簡単に会いに行ける相手ではない。
(誰かに相談した方がいいのかしら……)
真っ先に父の顔が浮かんだ。
アルヴィスなら、きっと真剣に話を聞いてくれる。
クラウスに伝えるという選択肢もある。
フィオナを狙う者がいる可能性があるのなら、王太子である彼に知らせるべきなのかもしれない。
そして――トビアス。
王国裁定院の最高監督を代々務めるアイゼン公爵家なら、ベアトリクスとの面会について力を借りられる可能性がある。
けれど。
(……何を、どう説明するの?)
指輪が一瞬光った。
ベアトリクスは、誰から深部のことを聞いたのか思い出せない。
そして前の時間軸の自分も、同じように記憶が曖昧だった。
そこから、ローレンツが怪しいと思った。
並べてみれば、どれも確かな証拠とは呼べないものばかりだ。
(こんな曖昧な話で、ローレンツ様を疑っているなんて言っていいのかしら……)
もし、自分の勘違いだったら。
何の罪もない人を疑い、その評判を傷つけることになるかもしれない。
それだけは、したくなかった。
それに、深く問われれば、結局は自分の秘密を話さなければならなくなる。
(……前の時間軸のことまで話すの?)
考えただけで、胸が苦しくなった。
誰かに話して、信じてもらえるのだろうか。
一度死にかけて、十二歳からもう一度やり直している。
そんな荒唐無稽な話を。
リディアはしばらく考えた末、ゆっくりと首を振った。
(……もう少しだけ、自分で調べてみましょう)
今はまだ、誰かに話せるほど確かなものはない。
そう結論づけたはずなのに。
胸の奥に残った不安は、少しも消えてはくれなかった。
どんな顔をして学園へ行けばいいのか。
リディアは、初めて学園へ行くことを躊躇った。
けれど、フィオナが今後も何者かに狙われる可能性がある。
そして、その危険に気づいているのは、今のところ自分だけかもしれない。
(……行かなければ)
自分にできることがあるのなら、見て見ぬふりなどできなかった。
リディアは重い足取りのまま、学園へと向かった。
教室へ入ると、カイとフィオナが話をしているところだった。
「ベアトリクス嬢が君を狙った理由の一つには、俺が彼女の前で余計なことを言ってしまったことも関係していたようだ。本当にすまない」
カイは申し訳なさそうにフィオナへ頭を下げる。
「いえ、カイ殿下のせいではありませんよ!」
フィオナは慌てたように首を振った。
「家柄も考えず、私が皆さんの優しさに甘えてしまっていたのが良くなかったのかもしれません。それに、皆さんが助けに来てくださったおかげで、この通り元気ですから。どうかお気になさらないでください」
「いえ、カイ殿下もフィオナ様も悪くありませんわ。とにかくフィオナ様が無事で、本当によかったです」
カレンが二人を宥めるように言った。
(カレン様の言う通りだわ。カイ殿下もフィオナ様も悪くない)
けれど、別の思いが胸の奥に浮かんでくる。
(私がもっと油断せずにいれば、事件が起こる前に止められたのかしら……?)
自分さえ変われば、あの事件は起こらない。
ずっと、そう思っていた。
だからこそ、前の時間軸と同じ過ちを繰り返さないように努めてきた。
それなのに。
自分が選ぶ道を変えても、形を変えてフィオナは再び危険に晒された。
(私が変わっただけでは、駄目だったということ……?)
その事実が、リディアには何より恐ろしかった。
そして、ここから先はリディア自身も歩んだことのない未来だ。
フィオナが再び狙われるのか。
今回で終わるのか。
何も分からない。
不安を抱えたまま、リディアはちらりとローレンツへ視線を向けた。
彼は窓の外を眺めており、その横顔からは何を考えているのか読み取れなかった。
(ローレンツ様……あなたは今、何を考えているのでしょうか)
疑いたくない。
けれど、一度芽生えてしまった疑念を、なかったことにもできなかった。
その日は結局、一日中どこか落ち着かないまま授業を終えた。
帰り支度をしていると、トビアスがリディアのもとへやって来た。
「リディア様、少し話したいことがあるんだけど、いいかな?」
思いがけない言葉に、リディアはわずかに目を瞬いたものの、すぐに頷いた。
「ええ、もちろんです」
二人は教室を出ると、学園の庭園にある東屋へと向かった。




