第53話 見えない糸
フィオナは持ち前の高い治癒力もあって順調に回復し、三日後には退院した。
毒による後遺症もなく、今では普段通り授業を受けられるまでになっている。
カレンやローレンツたちと楽しそうに笑うフィオナの姿を見ていると、リディアは胸がいっぱいになるほど嬉しかった。
(また事件は起きてしまったけれど……フィオナ様が無事で、本当によかったわ)
「フィオナ様。まだ病み上がりなのですから、あまり無理なさらないでくださいね。何かあれば、遠慮なくわたくしを頼ってくださいませ」
すっかり元気になった姿を見ても、リディアはどうしても落ち着かず、つい過保護になってしまう。
「リディア様、ありがとうございます。でも私、もう本当に元気なんです。リディア様をおんぶして、学園中を走り回れそうなくらい元気ですよ」
その言葉を聞いて、カレンがくすりと笑った。
「リディア様は、フィオナ様が大切で仕方がないのです。フィオナ様、しばらくはリディア様に甘えてあげてくださいな」
「えっ、そうなのですか? 嬉しいです! では、またリディア様を抱きしめてもいいですか? 抱きしめたら、もっと元気になれそうです」
思いもよらない提案と、期待に満ちたきらきらとした眼差しを向けられ、リディアは呆気にとられた。
「えっと……そんなことでよろしいのですか?」
「そんなこと、じゃないです! 憧れの人を抱きしめられるのは幸せですし、元気も出るんです!」
「わたくしは、フィオナ様に憧れていただけるような人間ではありませんわ。どうか、友人の一人にしてください」
「いいえ。リディア様は命の恩人で、私の憧れの人です」
フィオナはまっすぐにリディアを見つめた。
「私を助けてくださって、本当にありがとうございました」
「……フィオナ様」
ダンジョンで、リディアが何度も泣きながら謝っていたことについて、フィオナは理由を尋ねてこなかった。
何も聞かず、ただいつも通り接してくれていることが、今のリディアにはありがたかった。
リディアは一歩前へ出ると、フィオナの身体を優しく抱きしめた。
「……本当に、無事でよかったですわ」
「はい!」
弾むような返事が耳元で聞こえ、リディアの胸に温かなものが広がった。
ふと顔を上げると、少し離れたところにいたトビアスやクラウス、セドリックと目が合った。
三人とも、どこか優しい眼差しでこちらを見ている。
途端に恥ずかしくなり、リディアの頬が赤くなった。
フィオナはそんなことなど気にした様子もなく満面の笑みを浮かべ、カレンも「よかったですね」と微笑んでいる。
ようやく、いつもの日常が戻ってきた。
――そう思いたいところだったけれど、まだ事件が終わったわけではない。
「さて、放課後の段取りだが……」
少し離れたところでは、クラウスがセドリックやトビアスと声を落として話していた。
話題はもちろん、ダンジョン探索実習で起きた事件についてだ。
学園側の調査に加え、クラウスたちも事件に関わった生徒から話を聞いていた。その結果、事件を主導していた人物が特定されたという。
そして今日の放課後、その令嬢を中央講堂へ呼び出すことになっていた。
(……いよいよ、今回の事件を主導した人物が罪を問われるのね)
時間が近づくにつれ、リディアの胸は落ち着かなくなっていった。
やがて放課後を迎え――。
学園の中央講堂には、高い窓から初夏の陽光が差し込んでいた。
その中央で、一人の令嬢が俯いている。
かつてAクラスに在籍し、現在はBクラスに所属する侯爵令嬢――ベアトリクス・ヘルツベルク。
彼女の前には、クラウス、セドリック、そしてトビアスが立ち、厳しい視線を向けている。
その後ろには、今回の事件の被害者であるフィオナが、複雑そうな表情を浮かべて立っていた。
周囲では、生徒たちが遠巻きにその様子を見つめている。
その少し離れた場所。
柱の陰に身を寄せるようにして、リディアはその光景を見つめていた。
(……まるで、前の私を見ているみたい)
「ベアトリクス嬢。言い逃れはできない。君が指示を出した女子生徒たちの証言は、すでに取れている」
クラウスの低い声が、広い講堂に静かに響いた。
ベアトリクスは「ああ……」と喉の奥から絞り出すような声を漏らし、両手で顔を覆った。
「なぜ、このようなことをしたんだ」
セドリックが厳しい声で問う。
「……たかが下級貴族のくせに、生意気だと思ったのです」
ベアトリクスは、途切れ途切れに理由を語った。
フィオナがAクラスへ上がった一方で、自分はAクラスからBクラスへ落ちたこと。
下級貴族でありながら、フィオナが王族であるクラウスや公爵子息たちと親しくしていること。
さらには隣国の皇子であるカイからも注目され、次期聖女候補として周囲から一目置かれていること。
そのすべてが、気に食わなかったのだという。
フィオナは何も言わず、わずかに眉を歪めた。
「あまりにも身勝手で、愚かな理由だな」
セドリックが呆れたように言い放つ。
「次期聖女候補であるフィオナ嬢の命を危険に晒した。その事実は重い。正式な処分は、王国裁定院での審理を経て決まることになる」
クラウスの冷たい声が響いた。
ベアトリクスはさらに深く俯き、絶望に顔を歪めた。
その姿が、前の時間軸で断罪され、すべてを失ったリディア自身と重なって見える。
込み上げる吐き気を抑えるように、リディアは両腕で自分の身体を抱きしめた。
冷え切った指先が、かすかに震えている。
やがてベアトリクスはすべてを認め、力が抜けたように床へ崩れ落ちた。
瞳は焦点が定まらず、怯えと後悔に濁っている。
「正式な処分が決まるまでは身柄を拘束する。そこで、自分が何をしたのかよく考えることだ」
「……」
ベアトリクスは聞いているのかいないのか、何の反応も見せず、ただ静かに項垂れていた。
クラウス、セドリック、トビアスは、少し離れたところで今後について話している。
フィオナは、ベアトリクスが罪を認めたところで、複雑そうな表情のまま講堂を後にしていた。
遠巻きに見ていた生徒たちも、次第に散っていく。
(ベアトリクス様は、もう家には帰れないのね……。もしかしたら、彼女と話せるのは今が最後かもしれない)
リディアは迷った末、クラウスたちへ声をかけた。
「あの……少しだけ、ベアトリクス様とお話ししてもよろしいでしょうか」
クラウスはわずかに怪訝そうな顔をしたものの、やがて頷いた。
リディアは小さく礼をすると、ゆっくりとベアトリクスのもとへ向かった。
「ベアトリクス様」
呼びかけると、彼女はゆっくりと顔を上げ、虚ろな目でリディアを見た。
「……どうして、ロック・スパイダーの巣がある深部へ、フィオナ様を呼び出すよう指示したのですか? あそこは実習範囲外で、先生から渡された地図にも載っていない場所です」
ベアトリクスは唇を小刻みに震わせ、乾いた笑みを浮かべた。
「……あの場所なら、邪魔者が入らないだろうと聞いたのです。誰にも邪魔されず、フィオナ様を痛い目に遭わせることができると」
「聞いた……? 誰に、ですか?」
リディアの問いかけに、ベアトリクスは一瞬、きょとんとした顔をした。
そして、記憶を手繰り寄せるように視線を泳がせる。
その瞬間、右手の中指にはめた指輪の透明な石が、ほんのわずかに光った。
(……指輪が?)
けれど、それについて考えるより先に、ベアトリクスが口を開いた。
「それは……ええと、誰だったかしら。確かに、誰かに教わったはずなのだけれど……思い出せないわ」
「思い出せない……?」
背筋を、冷たいものが這った。
その言葉が、前の時間軸の自分の記憶と重なる。
(……私と同じ)
前の時間軸で、自分がなぜあの場所をフィオナを陥れる舞台に選んだのか。
当時は「偶然見つけた」、あるいは「誰かから聞いた」と、曖昧な理由で納得していた。
けれど今、改めて思い返してみると――。
その場所を誰から教えられたのか。
誰が自分にその話をしたのか。
そこだけが、どうしても思い出せない。
偶然ではない。
今回の事件と、前の時間軸の事件は、あまりにも似すぎている。
まるで何者かがフィオナ・ヴァイスを狙い、同じ筋書きをなぞらせようとしているかのように。
(誰かが……フィオナ様を、狙っている……?)
もちろん、自分がフィオナを憎み、傷つけたことまで誰かのせいにするつもりはない。
あの嫉妬も、醜い感情も、間違いなく自分自身のものだった。
けれど――。
その弱さを、誰かが意図的に煽り、利用していたのだとしたら。
ベアトリクスもまた、彼女自身の嫉妬や憎悪につけ込まれ、巧みに誘導されたのだとしたら。
もし、そうだとしたら――。
フィオナはこれからも、何者かに命を狙われ続けるのではないか。
「では、行くぞ」
セドリックに促され、ベアトリクスはゆっくりと立ち上がった。
去っていくベアトリクスの背中は小さく丸まり、かつての堂々とした侯爵令嬢の面影は、もうどこにもなかった。
リディアは、その姿が見えなくなるまで見つめていた。




