第45話 聖女の伝承
学園が冬季休暇に入り、リディアはエルヴィン領へ帰っていた。
ある晴れた日のこと。
リディアは以前から試してみたかった「雪像を作る魔法」に、屋敷の庭で挑戦していた。
庭には雪が深く積もり、木々の枝にもたっぷりと雪が乗っている。
吐く息は白く、頬に触れる空気はきりりと冷たい。けれど、雲の切れ間から差し込む冬の日差しが雪面に反射し、庭全体を淡く輝かせていた。
リディアはふうっと息を吐き、杖に意識を集中させた。
杖先を動かし、空中に術式を描いていく。
「――雪よ、我が思う形をつくれ」
足元に積もっていた雪が、さらさらと意志を持ったかのように動き始めた。
雪は渦を巻きながら一か所へ集まり、少しずつ形を作っていく。
「うーん……なんだか違うわね」
リディアが作りたかったのは、以前山で見たグリフォンだった。
鋭い嘴と、力強い前脚。大きく広げた翼を思い浮かべたはずなのに、できあがった雪像は、どこからどう見ても猪のようだった。
「……もう少し脚が長かったかしら」
二つ目を作り直してみると、今度は脚が長くなりすぎて、馬のような姿になってしまった。
「これでは、まるでペガサスね……」
リディアは少し考えたあと、その雪像の額に一本の角をつけ、背中に翼を添えた。
せっかく作ったのだから、これはこれで完成ということにする。
三つ目にして、ようやくリディアの納得できる形になった。
胸を張るような姿勢に、大きく広げた翼。
少し丸みを帯びてはいるものの、先ほどの猪や馬に比べれば、ずっとグリフォンらしい。
リディアはほっと息をつき、満足げに雪像を見上げた。
そこへ、エレノアがやってきた。
「あら、可愛らしいワンちゃんね」
「違います。グリフォンです!」
「えっ、グリフォンなの? 生まれたばかりの赤ちゃんなのかしら」
エレノアの悪気のない言葉が、さくさくとリディアの心に刺さる。
リディアはそっと雪像を見つめた。
確かに、少し丸い。けれど、そこまで犬に見えるような出来ではないはずだ。
「リディア、三つも作ってくれてありがとう。雪像が並んでいると、庭が賑やかになって楽しいわ」
「……いえ。ただのお遊びの魔法ですから」
まさかエレノアに感謝されるとは思っておらず、リディアは少し照れくさくなった。
冷えた頬が、寒さとは別の理由でほんのりと熱を帯びる。
「ふふ。こちらの豚ちゃんも可愛らしいわね」
「……」
ただし、リディアの自尊心は少しばかり削られた。
外から戻ったリディアは、自室で王立図書館から借りてきた聖女に関する文献を読み進めていた。
聖女という制度が生まれたのは、初代聖女が奇跡を起こしたことが始まりだとされている。
古い伝承には、次のように記されていた。
『今から三百五十年前、エリシアという心優しき貴族令嬢がいた。
エリシアは幼い頃より穏やかな性格で、家族にも使用人にも分け隔てなく接する少女であった。
あるとき、彼女の母が重い病に倒れた。
医師も薬師も手を尽くしたが、母の容体は日に日に悪化していった。屋敷の者たちは、もはや助からないものと覚悟していた。
しかし、エリシアは母の命を諦めることができなかった。
彼女は母の枕元に膝をつき、夜を徹して祈り続けた。
どうか、母をお救いください。
どうか、母を私のそばに残してください。
夜が明ける頃、母の熱は静かに引き、弱々しかった呼吸も穏やかなものへと変わっていた。
人々はこの出来事を、天に届いた祈りによって起こされた奇跡であると語った。
やがてその話は教会にも届き、一人の司教がエリシアのもとを訪れた。
司教は彼女の祈りと力を確かめ、神の祝福を受けし乙女であると認めた。
こうしてエリシアは、王国で初めて聖女の名を与えられたのである』
リディアはそこで手を止め、指先で紙面をなぞった。
現在、聖女の選定はグラウ家が担っている。
しかし、この伝承が正しいのならば、初代聖女を認めたのはグラウ家ではなく、一人の司教だったことになる。
初代聖女が持っていた加護の具体的な能力について記された文献は、見つけられなかった。
伝承はいくつも残されているというのに、肝心の部分だけが、ひどく曖昧なのだ。
(この伝承だけを読むなら、病を治す力だったようにも思えるけれど……)
歴代の聖女たちは、それぞれが授かった加護の能力に応じて、人々の治療や汚染された土地の浄化、国の繁栄を願う祈祷、奉仕をはじめとする慈善活動などを行ってきたらしい。
リディアは別の本を開き、栞を挟んでいた箇所へ目を落とした。
そこにも、歴代聖女の功績は丁寧に記されていた。
けれど、加護そのものの仕組みや、初代聖女に関する詳しい記述はほとんどない。
そして、あの「例の模様」についても、王立図書館で探してみたものの、手掛かりはまったく見つからなかった。
(何も見つからないというのも、おかしいわ……)
トビアスも、あの模様には規則性があり、何らかの意味があるように見えると話していた。
(これまでに、誰か一人くらい調べようとした人がいてもよさそうなのに)
リディアは首を傾げ、考え込むように眉間へ皺を寄せた。
「お嬢様、そんなところに皺を寄せてはいけません! 休憩しましょう。休憩です!」
心配したエマが、慌てた様子で声をかけてきた。
少し前にリディアが体調を崩して以来、エマは以前にも増して過保護になっている。
「ええ、そうね。少し休憩しましょうか」
「では、カイ殿下が送ってくださったココアにいたしましょうか? お嬢様はココアがお好きですものね」
(カイ殿下……!)
その名前を聞いた瞬間、心臓が小さく跳ねた。
リディアの視線は、思わず机の端に置かれた小箱へと吸い寄せられる。
帝国らしい繊細な模様が施された、美しい箱だった。
以前、リディアが何度もココアの美味しさを褒めたため、カイは領地を訪問した礼という名目で、ココアや帝国の品々を送ってくれたのだ。
「……いえ。今日は、いつもの紅茶をお願いできるかしら」
「紅茶の気分でいらっしゃいましたか。失礼いたしました。ただいまお持ちしますので、少々お待ちくださいませ」
エマが部屋を出ていく。
扉が閉まると、静かな部屋の中で、暖炉の薪がぱちりと小さな音を立てた。
エルヴィン領の恵神祭以来、リディアはカイのことを必要以上に意識してしまっていた。
自分の態度が不自然になってはいないだろうか。
周囲の人々に、何かを悟られてはいないだろうか。
それが不安で仕方がなかった。
けれど、カイを意識しているという事実を、リディア自身がまだ認めたくない。そのため、カレンに相談することさえできずにいた。
(私は、美しい男性に弱いのかしら……)
窓の外を眺めながら、リディアはため息をついた。
窓の向こうでは、先ほど作った雪像たちが庭に並んでいる。
猪のような雪像も、ペガサスのような雪像も、リディアの葛藤など知るはずもなく、白い庭の中に静かに佇んでいた。
(お兄様を前にしたカレン様の乙女らしい姿を、微笑ましく思っていたけれど……私も、カレン様と同じなのね)
もっとも、素直に自分の気持ちを認めているカレンと違い、リディアはいまだにそれを受け入れられずにいるのだが。
(来年、学園に戻ってからは、もう少し自然に振る舞えるようにしないといけないわね)
やがてエマが戻ってきて、リディアの前に紅茶を淹れた。
温かな湯気がふわりと立ち上り、茶葉の香りが部屋の中へ広がっていく。
その香りに、リディアの張りつめていた気持ちも、少しだけほどけた。
「晶蜂蜜もお入れしてよろしいですか? 少々お疲れのご様子ですので、甘いものを召し上がった方がよろしいかと思います」
「ええ、ありがとう。入れてちょうだい」
リディアは、ほんのりと甘くなった紅茶を口にした。
柔らかな甘さが、冷えた体の奥へゆっくりと染み込んでいくようだった。
「ふふ。美味しいわ」
「よかったです」
エマも嬉しそうに微笑んだ。
リディアはカップを両手で包み、ふう、と小さく息をつく。
(そういえば、いつの間にかクラウス殿下のことばかり考えることはなくなったわね)
前の時間軸では、あれほどクラウスに執着していた。
それが今では、どこか遠い出来事のように思える。
紅茶の水面に、ぼんやりと自分の顔が映っている。
以前よりも、表情が柔らかくなったかもしれない。
前の時間軸のリディアはクラウスにばかり固執し、ほかの人々はもちろん、家族にさえ目を向けようとしなかった。
(まさか、フィオナ様とお友達になれるなんて、思ってもみなかったわね)
リディアは、くすりと小さく笑った。
(それは、カレン様やトビアス様たちにも言えることだけれど)
トビアスの顔を思い浮かべたとき、リディアの表情がふっと緩んだ。
「ふふ。なんだかリディア様、嬉しそうですね」
エマが、リディアの顔を見ながら言った。
「えっ、そんなに顔に出ていたかしら」
「はい。とても幸せそうなお顔をされていました」
リディアは少し恥ずかしそうに、自分の頬へ手を添えた。
「素敵な友人たちと一緒に、学園で学ぶことができて幸せなの」
それは、リディアの本心からの言葉だった。
カレン、フィオナ、トビアス、ローレンツ、クラウス、セドリック。そして、カイ。
前の時間軸では、友人と呼べる相手は一人もいなかった。
けれど、今は違う。
気軽に言葉を交わし、共に笑い合える人たちがいる。
そんな関係を築けたことが、リディアは心から嬉しかった。
「リディア様が幸せそうにしていらっしゃると、私も嬉しくなります。……ところで、おこがましい質問をしてもよろしいでしょうか?」
「ええ、もちろんよ?」
エマがあまりに遠慮がちに尋ねるので、リディアは不思議そうな顔をした。
「学園には、素敵な男性はいらっしゃいましたか?」
「……っ!」
一瞬、リディアのカップを持つ手が止まった。
「……ええ。皆さん、素敵な方々ばかりよ」
「ではラブロマンスが始まりそうですか?」
「ふふ、残念だけど、私は今恋愛をする気がないのよ」
動揺を悟られまいと、リディアは努めて冷静に答えた。
「そうなんですね。学園生活は勉強もお忙しいでしょうから大変ですものね」
エマは少し残念そうな顔をしたが、それ以上は深く尋ねようとしなかった。
リディアは穏やかに微笑んでゆったりと窓の外を眺めており、誰が見ても落ち着いているように見えた。
だが、リディアの内心はとんでもないことになっていた。
(ど、どうして……?)
自分でも予想していなかったことに、頭が追いつかなかった。
エマに尋ねられた瞬間、リディアの脳裏には、二人の男性の顔が浮かんでしまったのだ。
カイ。
そして――トビアス。
(まさか、私……トビアス様のことまで好きになってしまったの!? 殿方を二人も意識するなんて、とんだ不誠実な令嬢だわ……!)
恋愛などしたくないと思っているのに、二人の男性を意識してしまうなんて。
リディアは、そんな自分に頭を抱えたくなった。




