第43話 久しぶりの領地
リディアは、アレクシスとカイと共に、久しぶりにエルヴィン領へと向かっていた。
昨年の恵神祭で、領民の女の子に「またクッキーを出す」と約束した。だから今年も、リディアは必ず恵神祭に参加しようと決めていたのだ。
その話をカレンたちにしていたとき、カイが「エルヴィン領の恵神祭にぜひ参加したい」と言ってきた。
リディアは少し驚いた。けれど、カイは隣国の皇子である。王都だけではなく、ヴァルディア王国の各地も見てまわりたいと考えるのは当然のことだろう。
そう納得したリディアは、快くカイを招待することにした。
もちろん、アルヴィスには前もって風切鳥で連絡してある。通常のフクロウ便ではなく、速達便である風切鳥を使ったのは、隣国の皇子が同行する以上、早めに知らせておく必要があったからだ。
馬車に揺られながら、アレクシスはカイに向かって穏やかに言った。
「エルヴィン領は王都よりも肌寒いと思いますので、手元に羽織ものなどがあったほうがいいかもしれません」
「北の領地ですものね。北の地にはあまり行ったことがないから、楽しみだな」
カイは窓の外を眺めながら、楽しそうに笑った。
ルグナス帝国は、ヴァルディア王国の南東に位置している。帝国で生まれ育ったカイにとって、エルヴィン領はこれまで訪れた中でも、最も北の地になるらしい。
「遠くに見える山々が、うっすら雪をかぶっているかもしれませんね」
リディアがそう言うと、カイはぱっと顔を輝かせた。
「それはいいね。それに、エルヴィン領にはグリフォンがいるんだろ? かっこいいよね」
見るからにわくわくした様子で、カイは声を弾ませる。
リディアはその様子に、思わず微笑んだ。
「私は今年の頭に、運良くグリフォンを見ることができましたが、とても高貴な雰囲気でした。ルグナス帝国には、どのような魔獣がいるのですか?」
「ワイバーンやグリムスコーピオン、サンドリザードなんかは帝国にいるよ!」
「ワイバーンですか。見てみたいです!」
リディアが身を乗り出すと、カイは嬉しそうに頷いた。
「ワイバーンは大きいから迫力があるよ。空を飛ぶ姿も、翼を広げた姿もなかなか格好いい」
「はぁ、いいですわね……」
リディアは思わず、うっとりとした声を漏らした。
空を舞う大きな翼。力強い爪。鋭い眼差し。想像するだけで胸が弾む。
そんなリディアを見て、アレクシスは小さく苦笑した。
「リディアは最近、魔獣の話になると目を輝かせるね」
「グリフォンを見てからというもの、魔獣に興味が湧いてしまって……。未知の生き物のお話は面白いではありませんか」
「まあ、たしかに気持ちもわかる」
アレクシスも、実は同じ気持ちを持っていたのだった。
やがて馬車は、エルヴィン領へと入っていった。
王都とは違う、澄んだ冷たい空気。道の両脇には、赤や黄に色づいた木々が並び、風が吹くたびに葉がさらさらと揺れる。
遠くには、うっすらと白く染まった山の稜線が見えた。
わずかに開けた窓から、ひんやりとした空気が入ってくる。
「本当に、王都とは空気が違うね」
「ええ。少し寒いですが、私はこの空気が好きです」
リディアは窓の外を眺めながら答えた。
久しぶりの領地。
懐かしさが、じわりと胸に広がる。
やがて馬車がエルヴィン家の屋敷へ到着すると、アルヴィスとエレノアが三人を迎えた。
カイが馬車から降りた瞬間、後ろに控えていたメイドたちが、わずかに色めき立ったのがわかった。
長身に整った顔立ち。背中まで届く、艶やかな漆黒の長い髪。
カイの姿は、まるで童話に出てくる異国の皇子様そのものだった。
アルヴィスが一歩前に出て、丁寧に一礼する。
「カイ殿下、お久しぶりでございます。長旅、お疲れ様でした」
「エルヴィン公爵閣下、お久しぶりです。いつも突然お邪魔してしまって、すみません」
カイはそう言って、軽く頭を下げた。
それからエレノアの方へ向き直り、丁寧な声で名乗る。
「お初にお目にかかります。ルグナス帝国第五皇子のカイ・ルシアンです。この度は突然の訪問をお受けいただき、ありがとうございます」
リディアは、内心でそっと目を瞬かせた。
(前の研究塔の視察のときよりも、軽さをだいぶ抑えているわね。)
学園でのカイは、どこか気安く、自由で、相手との距離をひょいと飛び越えてくるようなところがある。
けれど今のカイは、隣国の皇子として礼を尽くしていた。
エレノアは、上品に一礼する。
「エレノア・エルヴィンです。はるばる北の領地までお越しいただき、光栄ですわ」
「こちらこそ、急なお願いにもかかわらず迎えていただけて嬉しいです」
「明日が我が領の恵神祭の本番です。ぜひお楽しみくださいませ。では、まずはお部屋にご案内いたしますね」
エレノアがそう告げると、使用人たちが静かに動き出した。
カイは客室へと案内され、リディアとアレクシスもそれぞれ自室へ戻ることになった。
旅装を解いたあと、リディアはすぐに厨房へ向かった。
クララが料理人たちと一緒に作ってくれていたクッキーを確認するためだ。
厨房には、甘い香りが満ちていた。焼き上がったばかりのクッキーが、天板の上に整然と並べられている。
「まあ……とても綺麗に焼けたわね」
「リディア様、明日の分はかなり多めに用意しておりますが、昨年よりも人が増えるかもしれませんので、追加で焼けるよう準備もしてあります」
クララがそう言って、誇らしげに微笑む。
「ありがとう。それじゃあ私も作ろうかしら」
「リディア様もですか?」
「ええ。女の子と約束したのよ」
昨年、嬉しそうにクッキーを受け取ってくれた領民の女の子の顔を思い出す。
また食べたいと言ってくれた。
その約束を、リディアはちゃんと守りたかった。
クララと料理人たちに手伝ってもらいながら、リディアも生地を伸ばし、型を抜いていく。厨房の中は慌ただしいが、不思議と温かな空気に包まれていた。
その日の夜、屋敷では簡単な晩餐会が開かれた。
カイが「ぜひドロガン殿たちとも話がしたい」と強く希望したため、ドロガンたちも招待されていた。
リディアは晩餐の前に、ドロガンたちのもとへ向かった。
「ドロガン様、お久しぶりです」
「おお、リディア嬢。元気そうで何よりだ」
ドロガンは豪快に笑った。
「王都での暮らしはどうだ? 学園は忙しいのか?」
「はい。とても忙しいですが、毎日新しいことばかりで楽しいですわ」
「そいつはいい。若いうちは学ぶことが多いほうがいいからな」
ドロガンの言葉に、リディアは自然と笑みを浮かべた。
やがて晩餐が始まると、食卓には美味しそうな料理が次々と並べられた。
エルヴィン領で採れた野菜を使った温かなスープ。香草を利かせた肉料理。焼きたてのパン。彩りのよい前菜。
カイは目を輝かせた。
「これはすごいね。どれも美味しそうだ」
「お口に合えばよいのですが」
エレノアが微笑む。
「絶対に合います。もう香りだけで美味しいです」
カイがあまりにも素直にそう言うものだから、場の空気が和らいだ。
晩餐の席では、アルヴィスやエレノア、アレクシスが、カイに帝国での暮らしや学園生活について尋ねた。
カイは軽やかに、けれど礼儀を崩しすぎないように答えていく。
「帝国では、夏がかなり暑い地域もあります。王都とは日差しの強さが違いますね」
「食文化もかなり違うのですか?」
エレノアが尋ねると、カイは頷いた。
「香辛料を使う料理が多いです。最初は辛いと感じるかもしれませんが、慣れると癖になりますよ」
「まあ、それは興味深いですわ」
その後、カイはドロガンたちにも目を向けた。
「ドロガン殿たちの故郷と、ヴァルディア王国の生活では、やはり大きく違うところが多いのですか?」
「そりゃあ、違うところは山ほどあるな」
ドロガンは肉料理を切り分けながら答えた。
「だが、ヴァルディア王国は暮らしやすい。水もいいし、食い物もうまい。何より、俺たちの仕事を認めてくれる人間がいる」
「仕事を認めてくれる、ですか」
「ああ。余所者だと遠巻きにされることもあるが、この国はそうでもない。とくにエルヴィン領は、公爵閣下もリディア嬢も、俺たちの技術をちゃんと見ようとする」
ドロガンの言葉に、アルヴィスは少し照れたように咳払いをした。
「ドロガン殿たちの技術は、学ぶべきところが多いですから」
「がはは、ありがとな」
ドロガンが笑う。
カイはそのやり取りを見て、どこか納得したように頷いた。
「なるほど。ヴァルディア王国は、異なる技術や文化を拒まず受け入れる空気があるのですね」
「すべてがそうとは限りませんが、少なくともこの領では、そうありたいと思っています」
アルヴィスが穏やかに答える。
その言葉に、リディアは静かに目を伏せた。父の言葉が、じんわりと心に沁みる。
やがて話題は、先日のフィオナの祈りへと移った。
「とてもすごい浄化範囲で、王都はその話題でもちきりでしたよ」
アレクシスがアルヴィスとエレノアに話す。
「正直、とても驚きました」
カイは少しだけ真剣な表情になった。
「実は、魔道具を作っていた時に、つい浄化が甘い魔石を直接触ってしまって、指先が少し変色していたんです」
「まあ……」
「大したことではなかったんだけど、あのフィオナ嬢の祈りのあと、その変色が消えていたんです」
リディアは目を見開いた。
アルヴィスとエレノア、アレクシスも、わずかに驚いたような顔をする。
フィオナの加護が強いことは知っている。
けれど、祈りだけでそのような変化が起きるとなると、やはり尋常ではない。
「まるで神の力のようだと思いました」
カイがそう言った瞬間、リディアたち家族は少し息を呑んだ。
人を神のようだと表現すること。
恵神を信仰するヴァルディア王国の人間にとって、それは簡単に口にする言葉ではない。
けれど、同じ席にいるドロガンたちは、特に気にした様子もなく料理を口に運んでいる。
リディアはその反応を見て、内心で思った。
(私たちは恵神信仰だから、人を神と同列に語ることに驚いてしまうけれど、信仰していない人にとっては、別に普通の感覚なのね。)
文化が違えば、言葉の重みも違う。
同じものを見ていても、受け取り方はまったく同じではないのだ。
リディアがそんなことを考えていると、カイがこちらを見た。
「リディア嬢は、やっぱりフィオナ嬢の力を特別だと思う?」
「はい。とても特別な力だと思います」
「怖い?」
不意に問われ、リディアは少しだけ考えた。
「……怖い力だと考えたことはありませんでした。人を助ける素晴らしい力だと思っていますわ」
「なるほどね」
カイは小さく笑った。
「そりゃそうだよね。変なことを言ってごめんね」
「カイ殿下は『怖い』と感じた、ということですよね?」
リディアにあまりに自然に指摘されて、カイは少しだけ言葉に詰まった。
「……そうだね。俺は、あまりに強い力に恐ろしさを感じてしまったんだよね……素晴らしい力のはずなのに」
カイが自分の指先を見つめる。
(フィオナ様のあの力を見て、みんな感動するのかと思っていたけれど、怖いと感じる方もいらっしゃるのね。)
「けど、君が純粋に素晴らしい力だと言っているのを聞いて、なんだか俺も怖さが薄れて、純粋に美しい力だと思えてきたよ」
カイはいつもの完璧な表情とは違う、素顔のような優しい顔でリディアを見た。
その視線を受けて、なぜかリディアは落ち着かない気持ちになった。
晩餐会は和やかな空気のまま終わった。
そして翌日。
エルヴィン領の恵神祭が行われた。
朝から領内は活気に満ちていた。広場には麦などの農作物が飾られ、騎士団の屋台をはじめ、菓子や軽食、手作りの小物を並べる屋台がずらりと並んでいる。
焼き菓子の甘い香り。温かなスープの匂い。子どもたちの笑い声。楽器の音色。
王都の華やかな祭とは違う、素朴で温かな賑わいがあった。
リディアは、昨年と同じ広場の一角へと向かった。
傍らには、エマも付き添っている。今年は、カイもその手伝いをしてくれることになっていた。
「本当に手伝ってくださるのですか?」
「もちろん。せっかく参加させてもらうんだから、見ているだけじゃもったいないよ」
カイはそう言って、クッキーの入った籠を軽々と持ち上げた。
その姿を見た子どもたちが、すぐに集まってくる。
「リディア様だ!」
「今年もクッキーある?」
「ありますよ。順番に並んでくださいね」
リディアが微笑むと、子どもたちは嬉しそうに列を作った。
カイも隣で、にこやかにクッキーを配っていく。
すると、一人の女の子がカイを見上げて、目を輝かせた。
「長い髪のお兄ちゃん、かっこいいね!」
「あはは、かっこいいでしょ」
カイは楽しそうに笑うと、片手で前髪をかきあげてみせた。
その仕草に、子どもたちが歓声を上げる。近くにいた若い女性たちも、思わず頬を染めていた。
リディアは少し呆れたようにカイを見る。
「カイ殿下、大人気ですね」
「こういう時は、遠慮しない方が喜ばれるからね」
カイは悪びれもせずに言った。エマがそのやり取りを見て、くすくすと笑う。
確かに、子どもたちは大喜びしている。カイの明るさと華やかさは、祭りの空気によく合っていた。
しばらくクッキーを配っていると、少し人の波が落ち着いた。
冷たい風がぴゅうと吹いて、リディアの髪を揺らす。
(寒くなってくると、ココアが恋しくなるわね……。)
リディアはふと思い出し、カイに声をかける。
「カイ殿下が送ってくださったココア、本当に美味しかったです。ありがとうございます。大事に飲ませていただきました」
「手紙でも言っていたけど、とても気に入ってくれたんだね」
カイが嬉しそうに笑う。
「はい。とても香りがよくて、寒い日に飲むと体が温まります」
「それはよかった」
カイはそこで、少しだけ悪戯っぽい顔をした。
「ココアは惚れ薬に使われるらしいんだけど、効果あったかな?」
「えっ」
リディアは思わず固まった。
すぐに冗談だとわかった。わかったのに、顔に熱が集まっていく。
「そ、そんな冗談を言うのはやめてください」
声が少し上ずってしまった。
カイはそれを見て、楽しそうに目を細める。
「リディア嬢も、そんな顔をするんだね。可愛い」
「なっ……」
何か言い返そうとした瞬間、また風が吹いた。
リディアの髪がふわりと揺れ、顔にかかる。
カイはあまりにも自然な仕草で、リディアの顔にかかった髪を指先ですくった。
そして、その髪をそっと耳にかける。
カイの指が、リディアの耳にかすかに触れた。
心臓が跳ねた。それだけのことなのに、息の仕方を忘れそうになる。
周囲から見れば、髪を直してくれただけに見えたかもしれない。実際、カイの動きはあまりにも自然で、悪びれた様子もない。
けれどリディアだけは、どうしようもなく意識してしまった。
耳に残る、指先の感触。
柔らかく細められた金色の瞳。
顔が熱い。
どうすればいいのかわからない。
「リディア嬢?」
カイが首を傾げる。
その声を聞いた瞬間、リディアは限界だった。
「し、失礼します!」
そう言い残すと、リディアはその場から走り去った。
背後で、カイが何か言ったような気がした。
エマが驚いた声を上げたような気もする。
けれどリディアは振り返れなかった。
ただ、耳に残った熱と、跳ね続ける心臓の音だけが、いつまでも消えなかった。




