第41話 噂をする令嬢たち
それは、図書室から教室へ戻る帰り道だった。
廊下の角を曲がろうとしたところで、自分の名前が聞こえてきた。
「フィオナ様ったら、エルヴィン公爵令嬢に取り入って、仲良くしてもらっているのでしょう? 鬱陶しいですわね」
リディアの足が止まる。
声はそこまで大きくなかったが、廊下に反響して、言葉ははっきりと聞こえていた。
「私、子どもの頃にエルヴィン公爵令嬢に会ったことがありますけれど、とても今のような穏やかな方ではありませんでしたわ。フィオナ様を助けたというのも、きっと気まぐれでしょう。エーデル侯爵令嬢はともかくフィオナ様のことは内心見下してらっしゃるのでは?」
「ふふ、そうでしたの。人はそう簡単には変わりませんものね。エーデル侯爵令嬢も、もしかしたらエルヴィン公爵令嬢を利用しているだけかもしれませんわよ」
令嬢たちは、くすくすと楽しげに笑っている。
リディアは、すっと頭の血の気が引いていくのを感じた。
前の時間軸で、陰口を言われることには慣れていた。けれど、自分だけではなく、仲良くしているカレンやフィオナまで悪く言われるのは、とても気分が悪かった。
(こんな、誰が聞いているか分からないところで陰口を言うなんて……。聞こえていることを教えてあげたほうがいいかしら)
リディアが令嬢たちの前へ出ようとした、そのときだった。
聞き慣れた男性の声が響いた。
「君たち。こんなところで悪趣味な話はやめたまえ。そんな心持ちでいると、邪神に操られてしまうよ」
ローレンツだ。
「ひっ、グラウ公爵子息様!」
令嬢たちは、小さな悲鳴のような声をあげた。
公爵令嬢の悪口を、その公爵令嬢と親しい公爵子息に聞かれてしまったのだから、当然の反応だった。
「……君たちの顔は知っているし、名前も分かる。今回は問題にはしないが、今後は人を陥れるような言葉を口にするのは慎むように。風紀を乱してはいけないよ」
まるで教会の神官が説教をしているような口ぶりに、リディアの胸にあった怒りが、少しずつおさまっていく。
(ローレンツ様は、相変わらず信仰が厚そうね)
グラウ公爵家は代々、教会との調整役や、神託・加護・異端の監視などを担っており、教会とは縁の深い家だった。
そのため、ローレンツ自身も恵神教への信仰を篤く受け継いでいる。
令嬢たちが、ぱたぱたと駆け足で去っていく音が聞こえた。
リディアが廊下の角を曲がると、ローレンツが立っていた。
ローレンツはリディアを見るなり、驚いたように固まる。
「ローレンツ様。令嬢たちに注意をしてくださり、ありがとうございます」
リディアは感謝を込めて膝を曲げた。
「……先ほどの会話を聞いていたのですね」
ローレンツは苦笑いを浮かべる。
「ええ。ローレンツ様の説教のおかげで、すっきりしましたわ」
「いやだな、説教だなんて」
ローレンツは気恥ずかしそうに頬をかいた。
「リディア様も、カレン様も、フィオナ様も。お三方とも目立ちますから、どうしても妙な噂を立てられてしまうのでしょうね」
「まあ……私は、家柄ぐらいしか目立つところはありませんけれど」
「ははは、またまたご謙遜を!」
ローレンツは軽やかに笑ったが、リディアは、他に何かあったかしらと首を傾げた。
その後、リディアはローレンツに礼を告げ、教室へ戻った。
授業を受け、友人たちと言葉を交わし、いつも通りに一日を終える。けれど胸の奥には、先ほど聞いた言葉が小さな棘のように残っていた。
家に帰ると、クララから領地報告の手紙が届いていた。
クララからは、これまでもこまめに手紙をもらっている。
はじめは文面からも緊張が伝わってきたが、最近は少しずつ慣れてきたようで、ドロガンたちとも上手くいっているらしい。
クリスタルスティングの巣箱を増やし、順調に蜜が採れていること。
ミスリルの意匠を、ドロガンたちの故郷の花である「アラネの花」にすることが決まったこと。
そして、クリムゾンハートベリーもすくすくと大きくなっていること。
そんな報告が、丁寧な文字で綴られていた。
手紙の最後には、クリムゾンハートベリーの様子が生き生きと描かれている。
(これ、クララが描いたのよね? とても上手だわ)
自分との絵の腕前の差に、思わず笑ってしまった。
「エマ。この絵を机の上に飾りたいから、額縁を用意してくれる?」
「かしこまりました。確認してまいります」
エマは微笑みながら一礼し、部屋を出ていった。
その背中を見送ったあと、ふと、今日の令嬢たちの会話が頭をよぎる。
――フィオナ様を助けたのは気まぐれ。
(フィオナ様を助けたのは、たしかに偶然ではあったわ。あの場で私が一番適していたから助けたわけだけれど……それは、気まぐれなのかしら?)
――フィオナ様を見下している。
(見下している、というのはさすがにないわね。そもそも、フィオナ様には見下すところなんてないもの)
――人はそう簡単には変わらない。
(……自分では、ずいぶん変われたと思っていたけれど。本質的な部分は、変われていないのかしら)
その瞬間、リディアの頭の中に、船上での辛い記憶が蘇った。
「う……っ」
胃の奥がきゅっと縮むような感覚がして、吐き気がこみ上げてくる。
「リディア様、お待たせしました……だ、大丈夫ですか?」
リディアの顔色を見るなり、エマが慌てて駆け寄った。
エマはリディアの身体を支え、どうにかベッドまで運んで横にさせる。
「リディア様、お水をお持ちします。お医者様をお呼びした方がよろしいですか?」
「いえ、大丈夫よ。少し気分が悪くなっただけだから」
リディアは力なく笑った。
「最近はテストもありましたし、お疲れが溜まっていらっしゃるのかもしれませんね。私がついておりながら、気付けず申し訳ございません」
エマの瞳が潤む。
「エマ、私は本当に平気だから。泣かないで」
「泣いておりません! リディア様は、ベッドでちゃんと休まれていてくださいね。すぐにお飲み物を取ってまいりますので」
エマはリディアに背を向けた瞬間、そっと目元を拭い、早足で部屋を出ていった。
(もう、エマってば心配性なんだから)
エマの優しさに、冷えていた心がそっと温かくなるのを感じた。
(あの船の上で舐めた、エマの飴……美味しかったわね。久しぶりに舐めたいわ)
そしてリディアの意識がだんだんと遠ざかっていった。
「失礼します」
エマが戻ってきたときには、リディアはすやすやと眠ってしまっていた。
リディアの寝顔を見て、エマは優しく微笑み、上掛けを静かに整える。
そして、以前トビアスからもらっていた、眠りを助けるハーブのオイルをハンカチに数滴垂らし、リディアの枕元に置いた。
そのハーブの効果かは定かではない。
けれど、リディアは穏やかで温かい夢を見た。
目を覚ましたときには、夢の内容はすべて忘れてしまっていたが、気分はすっきりとしていた。
(今回が、前と同じようになるわけがないわ。あんな令嬢たちの言葉に惑わされてしまうなんて、馬鹿ね)
枕元に置かれたハンカチを手に取り、リディアは思い切り香りを吸い込んだ。
(この香りも、この優しさも、前の私は知らなかった。でも、今は知っているもの。前とは、まったく違うわ)
ベッドから降りて背伸びをし、リディアは自分を取り戻した。




