第36話 王国の信仰と魔法
入学式を終えたあとの校舎は、まだ落ち着かない熱気に包まれていた。
新入生たちは期待と不安を胸にそれぞれの教室へ向かい、上級生たちは久しぶりに顔を合わせた友人たちと笑い合っている。
その喧騒から少し離れた場所で、カイ・ルシアンは一人の神官に呼び止められていた。
「カイ殿下。改めまして、ヴァルディア王国へようこそお越しくださいました。学園の礼拝堂にて務めております、ゲルルフと申します」
声をかけてきたのは、年配の神官だった。
白を基調とした法衣には、恵神教会の紋章が刺繍されている。物腰は柔らかく、声も穏やかだ。けれど、その笑みはどこか作り慣れているように見えた。
「ありがとう、ゲルルフ殿。こちらの学園で学べることを楽しみにしているよ」
カイがいつものように軽く笑うと、神官はほっとしたように目を細めた。
その表情には、年若い皇子なら扱いやすいだろうという、わずかな油断が滲んでいた。
「殿下のようなお方が、我が国の魔法学園で学ばれることは、王国と帝国の友好にとっても大変喜ばしいことでございます」
「俺も、王国の魔法には興味があったからね」
「ええ、ええ。ヴァルディア王国は、古くより神々と精霊の恵みを大切にしてまいりました。魔法もまた、そうした恵みと深く結びついております」
「帝国とは、少し考え方が違うところが面白い」
カイがそう言うと、神官は探るようにわずかに声を落とした。
「帝国にも、恵神を信仰する方々はいらっしゃると伺っておりますが……やはり、王国ほど深く根づいているわけではないのでしょうか」
「そうだね。信仰している者はいるよ。ただ、王国ほど生活の隅々にまで結びついてはいないかな」
「それは、実にもったいないことでございますな」
神官の目が、わずかに細くなった。
「帝国ほど豊かな国であれば、恵神の教えもさらに広く人々を照らせるはずです。礼拝堂が増え、神官が赴く機会が整えば、救われる民も多くなりましょう。もっとも、そうした営みには、理解ある方々のお力添えが欠かせませんが」
神官の目に力が入り、口角がいやらしく上がった。
「なるほど。信仰を広めるにも、いろいろ必要なんだね」
「ええ。民を救うには、志ある方々のお力が必要ですからな」
神官はにこやかに頷いた。
その目には、帝国の財と影響力を量るような光があった。
「それに、今年の新入生には、たいへん優れた浄化の才を持つ少女がいると聞いております」
「へえ。そんな子がいるんだ」
「フィオナ・ヴァイス嬢という少女です。まだ若いながら、とても強い浄化の力を持っています。あの力を帝国の方々にもご覧いただければ、恵神の尊さは言葉よりも早く伝わりましょう」
神官の声が、わずかに弾む。
「もし帝国に、魔力だまりや浄化を必要とするときがございましたら、いずれ彼女のお力が役立つ日もあるかもしれません。奇跡を目にすれば、人の心は動くものです。そうなれば、礼拝堂を支えてくださる方々も、自然と増えるでしょう」
「それはすごいね」
カイは感心したように頷いた。
神官の笑みが、さらに深くなる。どうやら、年若い帝国の皇子が話に乗ってきたと思ったらしい。
けれど、カイの内心はひどく冷めていた。
この神官が見ているのは、帝国という豊かな土地。そこに建てられる礼拝堂、集まる信者、継続的に流れ込む寄進。その足がかりとして、フィオナ・ヴァイスという少女の力を使いたいのだろう。
本人の意思などないかのように、便利な道具として語るその口ぶりが、カイには不快だった。
この神官の神を語る口からは何かが腐った匂いがした。
(こういう人間は、どこの国にもいるんだな)
カイは内心で呆れながらも、顔には何も知らない少年のような笑みを浮かべた。
「なるほど。勉強になるよ。俺はまだ王国の信仰には詳しくないから、いろいろ教えてもらえると助かるな」
「もちろんでございます。殿下がお望みでしたら、いつでも教会へご案内いたしましょう」
「それはありがたいね」
カイは軽やかに頷いた。
「でも、まずは学園生活に慣れるところからかな。せっかく王国の魔法を学びに来たんだ。授業についていけなかったら、帝国に帰った時に笑われてしまう」
「殿下ほどのお方が、そのようなことは」
「いやいや。帝国と王国では、魔法に対する考え方がずいぶん違うみたいだからね。しっかり学ばないと」
カイは明るく笑いながら、話を別の方向へ滑らせた。
入学早々、教会と揉めるつもりはない。軽く見られているなら、そのままでいい。その方が、相手の考えはよく見える。
神官はなおも何か言いたげだったが、カイがあまりにも無邪気に笑うものだから、それ以上踏み込むのをやめたようだった。
「では、殿下。また改めてお話しできる日を楽しみにしております」
「こちらこそ」
にこやかに手を振り、カイは神官のもとを離れた。
回廊の角を曲がり、人の気配が少し薄れたところで、彼はふっと笑みを薄める。
「……王国の教会は、思ったより面倒そうだ」
小さく呟いた声は誰にも届かず、賑やかな学園の空気に溶けて消えた。
「フィオナ・ヴァイス、か」
まだ顔も知らない名を、カイは静かに口にした。
今年の新入生。強い浄化の力を持つ少女。
覚えておいた方がよさそうだ。
そう思いながら回廊を進んでいると、前方から見知った姿が歩いてくるのが見えた。
深い紺色の制服を身にまとった、銀髪の少女。
リディア・エルヴィンだった。
隣には、カレン・エーデルとトビアス・アイゼンの姿もある。三人は校内を見て回っているところらしく、カレンが何かを指差し、トビアスが興味深そうに周囲を観察していた。
リディアは二人に応じながらも、背筋を伸ばし、落ち着いた足取りで歩いている。
その姿を見て、カイは自然と笑みを戻した。
「やあ、リディア嬢」
声をかけると、リディアがこちらを振り返った。
「カイ殿下」
リディアは丁寧に礼をする。
「カイ殿下も、校内をご覧になっていたのですか?」
「まあね。少し、王国の学園らしさを味わっていたところかな」
「王国の学園らしさ、ですか?」
「うん。建物も庭も、帝国とはずいぶん違う。帝国はもっと実用的で、装飾は少ないから」
カイが軽く肩をすくめると、カレンが興味深そうに目を輝かせた。
「帝国の学園は、どのような場所なのですか?」
「こちらよりも魔道具の実験棟が多いかな。あと、演習場も広い。魔法をどう使うか、どう効率化するか、どう応用するかを重視するんだ」
「なるほど。帝国らしいですね」
トビアスが楽しげに頷く。
「では、カイ殿下がわざわざヴァルディア王国の魔法学園にいらしたのは、王国の魔法を学ぶためなのでしょうか?」
「そうだよ。帝国は、魔道具のような技術では進んでいると思う。でも、前に視察で王国に来た時、魔法そのものに対する知識や理解は、王国の方が深いと感じたんだ」
「王国の方が、ですか?」
リディアがわずかに目を瞬かせる。
「たとえば、王都から四方へ伸びる道には風の魔法が施されているし、貴族の馬車には軽荷術式や揺れを抑える術式が組み込まれている。王国では、複雑な魔法が日常の中に自然と溶け込んでいるように思った」
「帝国はとても栄えておりますので、魔法も帝国の方が進んでいるのかと思っておりましたわ」
カレンが興味深そうに呟く。
「帝国側もずっとそう思っていたんだよ。王国の魔法は、神々や精霊への信仰に寄りかかった、遅れた古い魔法だとね。けれど、十数年前に認識が変わった。マグダレーナ・シュタイン殿が発表した魔法を見て、帝国の研究者たちはかなり驚いたらしい」
「マグダレーナ先生の魔法を?」
リディアは、魔法の師であるマグダレーナの名前が出たことに、思わず聞き返した。
「当時の帝国の知識では、あの魔法をうまく説明できなかった。再現しようとしても、同じ結果にならない。そして王国の魔法は古くて遅れたものなんかじゃなかったってやっと分かったんだよね。だから俺も自分の目で王国の魔法を見てみたいと思ったんだ」
「カイ殿下は勉強熱心なのですね」
「はは。まあ、興味があることだからね。父上たちには、技術交流と友好のためと言ってある。もちろん、それも嘘ではないよ。でも本音を言えば、俺自身がもっと学びたいんだ」
カイは軽やかに笑った。
(カイ殿下は、思っていたよりずっと真剣なのね。帝国の王子が、自ら望んで他国の魔法を学びに来るなんて)
リディアは、カイの行動力に素直に感心した。
「魔法に限らず、帝国とは違うことも多いだろうから、みんなからいろいろ教えてもらえると助かる」
「もちろんです」
三人は笑顔で頷いた。
「ありがとう。とても心強いよ」
カイは満足そうに笑った。
「では、わたくしたちはそろそろ校内を見て回りますので」
「ああ、引き止めちゃって悪かったね」
「いえ。興味深いお話でした」
「そう言ってもらえるならよかった」
カイは軽く手を振った。
「またね、リディア嬢。カレン嬢、トビアス卿」
「ええ、ごきげんよう」
「またお話を聞かせてくださいませ」
「こちらこそ。帝国の魔道具についても、いずれ聞かせていただけると嬉しいです」
三人と別れたあと、カイはしばらくその背中を見送った。
美しい信仰と、そこに潜む俗な打算。王国の魔法と、まだ顔も知らない少女の名前。
ヴァルディアでの学園生活は、思っていたよりずっと面白くなりそうだった。
カイは小さく笑みを浮かべ、回廊の先へと歩き出した。




