第35話 学園生活の幕開け
王都では、夏の暑さが少しずつ終わりに近づき、夜には涼しい風が吹く日も増えてきた。
その朝、リディアは真新しい深紺の制服に身を包み、王都のタウンハウスの自室で、鏡に映る自分の姿を見つめていた。
制服は、ヴァルディア王立魔法学園の伝統に則った深紺のワンピース型だ。白い襟と袖口には細い銀糸の縁取りが施され、胸元には学園の紋章を象った小さな銀のブローチが留められている。
スカートは歩くたびに上品に揺れる程度の広がりに整えられていた。派手さはないが、仕立てのよさと清潔感が際立つ装いだ。
白銀の髪は、エマがいつもより少し大人びた形に結い上げてくれた。耳元には小粒の真珠を揺らし、右手の中指には、透明な石の嵌まった指輪が控えめに光っている。
「リディア、入るわね」
母エレノアがドアをノックし、静かに入ってきた。
リディアの姿を見ると、目を細めて微笑んだ。
「とてもよく似合っているわ、リディア」
「ありがとうございます」
リディアははにかみながら、顔まわりに残した髪をそっと耳にかけた。
「幼い頃のあなたは、何事にも真っ直ぐで、少し不器用なところもあったでしょう? けれど今は、ちゃんと自分で考えて、前へ進もうとしている。とても嬉しいわ」
「お母様……、ありがとうございます」
エレノアの優しい言葉に、リディアは少しだけ胸が痛んだ。
(少し不器用、なんて可愛げのあるものではなかったわ。前の私は、きっと何度もお母様を困らせていたのでしょうね)
「学園ではいろいろなことを経験すると思うけど、きっとあなたなら大丈夫ね。もし相談したいことがあったら、家族を頼るのよ」
そう言ってリディアの肩にそっと触れた。
「はい、困ったことがあれば、相談いたします」
優しい母の眼差しにリディアは目頭が少し熱くなった。
(家族を失望させることは、もう絶対にしないわ。私はエルヴィン家の者として恥ずかしくない人間になるのよ)
リディアは呼吸を整えて背筋を伸ばした。
玄関ホールへ向かうと、そこには父アルヴィスも待っていた。
リディアが淑女らしく一礼すると、アルヴィスとエレノアは、玄関の外まで出て見送ってくれた。
「では、お父様、お母様。行ってまいります」
「リディア、入学おめでとう。学園生活を楽しんでおいで」
「はい。夕方には戻りますわ」
リディアは馬車へ乗り込んだ。
生徒の七割は寮生だが、王都に邸宅を持つ者は通学が許されている。エルヴィン公爵家も王都にタウンハウスを構えているため、リディアはそこから学園へ通うことになっていた。
馬車に揺られながら、リディアは窓の外へ視線を向ける。
(いよいよ、学園生活が始まるのね……)
ヴァルディア王立魔法学園。
王家が運営する、国内最高峰の魔法教育機関。
王族から平民に至るまで、魔法の才ある者に門戸を開き、学園内では生徒は平等であるという理想を掲げている。
成績に基づいた四つのクラス編成は、将来の官職や縁談、ひいては実家の評価にまで影響を及ぼす。貴族にとっても、平民の特待生にとっても、ここは己の価値を証明するための競争の場だった。
入学を許可された者たちは、すでに事前の評価試験を終えている。試験内容は、魔法の基礎理解、一般知識、そして魔力量の測定だった。
前の時間軸のリディアは、公爵令嬢でありながら、最下位のDクラスだった。
(今回は、筆記試験の手応えはあったけれど……魔力量だけはどうしようもないものね。結果がどうなっているかしら)
やがて窓の外に、家紋を掲げた豪華な馬車の列が見え始めた。
規律を象徴する高い鉄柵。
その向こうにそびえる白亜の校舎。
尖塔の先に掲げられた王家の旗が、朝の光を受けて静かに揺れている。
「お嬢様、到着いたしました。頑張ってくださいね」
エマが鞄を差し出す。
リディアはそれを受け取り、微笑んだ。
「ありがとう、エマ。行ってくるわ」
学園内への使用人の同伴は、原則として禁止されている。
エマと離れるのは少し心細かったが、リディアは背筋を伸ばし、馬車を降りた。
校門の正面には、巨大な石碑が据えられている。
そこに刻まれた校訓は、朝日を浴びて静かに輝いていた。
『学びはすべての者に開かれる』
高潔な理念だ。
「エルヴィン公爵令嬢、リディア様。……あちらの受付へどうぞ」
リディアは示された方へ歩き、受付を済ませた。
周囲を見渡せば、貴族子女たちは慣れた様子で談笑し、平民の特待生らしき生徒たちは、周囲の華やかな空気に気圧されながらも、緊張と期待の入り混じった瞳で校舎を見上げていた。
不安、期待、誇り、焦り。
そのすべてが混ざり合った、学園初日の空気だった。
「リディア様!」
背後から快活な声が響いた。
振り返ると、カレンがこちらへ歩み寄ってくる。
カレンは艶やかな赤毛を後ろできっちりと一本にまとめ、同じ深紺の制服を美しく着こなしていた。すらりと伸びた手足に、迷いのない足取り。同じ制服であっても、彼女が纏うと、まるで別のデザインのように華やかに見えた。
すれ違う生徒たちが、思わず視線を向けてしまうのも無理はない。
「カレン様。制服、とてもよくお似合いですわ」
「リディア様こそ! その白銀の髪に学園の深紺が映えて、まるで絵画から抜け出してきたようですわよ」
「まあ……」
リディアは少しだけ困ったように眉を下げた。
(絵画から抜け出してきたような美しさは、カレン様のほうですのに)
内心でそう思いながらも、口にすれば褒め合いが終わらなくなりそうなので、リディアは小さく笑うだけに留めた。
「さあ、まずは掲示板でクラスを確認しなくては!」
「ええ、参りましょう」
二人は並んで、多くの生徒が集まる掲示板へ向かった。
掲示板の前では、歓声や落胆の声があちこちから上がっている。背伸びをする者、友人の名前を探す者、結果を見た瞬間に顔を強張らせる者。
リディアもカレンと共に、人の隙間から自分の名前を探した。
「……リディア・エルヴィン。ありましたわ」
指先が、掲示板の上段に記された名前をなぞる。
「Aクラスですわ!」
「私もAクラスです! リディア様、おめでとうございます!」
「カレン様も、おめでとうございます」
二人は手を取り合い、上位クラスに入れた喜びを分かち合った。
胸の奥に、ほっとした安堵が広がる。
(よかった……。前とは違う。ちゃんと、積み重ねたものは無駄ではなかったのね)
そのまま二人はAクラスの教室へ向かった。
扉を開けると、そこにはすでに見知った顔があった。
窓際の一角に、ひときわ目を引く二人の少年が座っている。
一人は、窓から差し込む朝日を受け、金髪を淡く輝かせているクラウス。
もう一人は、その傍らで静かに書類へ目を落としている黒髪のセドリックだ。
リディアたちが近づくと、クラウスは澄んだ青い瞳をこちらに向け、穏やかに口角を上げた。
「ごきげんよう、リディア嬢、カレン嬢。君たちなら、きっとここにいるだろうと思っていたよ」
「お二人とも、同じクラスでしたのね。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ。学園では、同じ生徒としてよろしく頼むよ」
セドリックも「よろしく」と、穏やかに微笑んだ。
「ルーカス殿下は、ご一緒ではないのですか?」
「弟は来年入学だ。少し寂しがっていたよ」
(いつも三人でいらっしゃる印象が強いから、一人いないだけで不思議な感じがするわね)
そんなことを考えていた矢先、聞き覚えのある声が背後から響いた。
「やっぱり、みんなAクラスなんだね。メンバーは予想通りだ」
振り返ると、そこに立っていたのは、柔らかな亜麻色の髪を少し遊ばせた少年、トビアス・アイゼンだった。
「トビアス様。私も、あなたがこのクラスにいらっしゃることは、試験前から分かっておりましたわ」
「はは。どうやら、僕のことを高く買ってくれているようだね」
トビアスは楽しげに笑い、教室内を見回した。
「これだけ知り合いがいるなら、退屈な授業も少しは楽しくなりそうだ」
(優秀な方の“退屈な授業”は、凡人とは別の意味ですのよね……)
リディアは心の中で呟いた。
その時、教室が急にざわついた。
生徒たちの視線が、一斉に扉の方へ向かう。
そこに立っていたのは、背の高い美しい少年だった。
背中まで届く漆黒の長い髪を、ゆるく後ろで一本にまとめている。王国の制服であるはずの深紺の装いも、彼が纏うとどこか異国の衣装のように華やいで見えた。
「こんにちは、ヴァルディア王国の若き才人たち」
少年はにこやかに片手を上げる。
「俺はカイ・ルシアン。ルグナス帝国の第五皇子だよ。しばらく君たちと同じクラスで学ぶことになった。これからクラスメイトとして、よろしくね!」
教室中が、一瞬静まり返った。
そして次の瞬間、ざわめきが波のように広がる。
(ど、どうしてカイ殿下が……?)
リディアは驚きのあまり、思わずクラウスの方を向いた。
クラウスは苦笑しながら、少しだけ肩をすくめる。
「カイ殿下から、当日みんなを驚かせたいから秘密にしておいてほしい、と言われていてね」
「……そうでしたの」
驚きすぎて、何から聞けばいいのか分からない。
そんなリディアを見つけるなり、カイは楽しそうに近づいてきた。
「リディア嬢、びっくりしたでしょ?」
カイはにんまりと微笑む。
「はい……びっくりしすぎて、何から伺えばいいのか分かりません」
「あはは、成功だね。これからは毎日のように顔を合わせるんだし、思いついた時に気軽に質問してよ」
リディアの驚いた顔に満足したのか、カイはひどく機嫌がよさそうだった。
「さすがに、カイ殿下の入学はトビアスでも予想外だっただろう」
なぜかセドリックが、勝ち誇ったようにトビアスを見る。
「ああ、全くもって想定外だ」
トビアスは肩をすくめた。
「だが、想定外なことが起こらない人生など楽しくない。そう思わないか?」
セドリックは不敵な笑みを浮かべたトビアスを見て少し残念そうに苦笑いした。
「トビアスが慌てる姿を、一度くらい見てみたいものなんだがな。まったく見られる気がしない」
「はは、買い被りすぎだよ。僕だって最近は、想定外のことに振り回されてばかりだ」
「それはいい兆候だ」
「この繊細な気持ち、君には分からないだろうな」
トビアスがふぅとため息をつき、やれやれと首を振った。
そのやり取りに、カレンがくすりと笑った。
最上位クラスに入れたこと、そして友人たちが周りにいる心強さに、リディアはそっと胸をなで下ろした。
けれど同時に、胸の奥がわずかにざわつく。
(ローレンツ様と……フィオナ様は、どこのクラスかしら)
それ以上確かめる間もなく、廊下に予鈴の鐘が響いた。
新入生たちは案内役に促され、大講堂へと向かう。
大講堂は、学園の中心にある荘厳な建物だった。
高いドーム状の天井から光が差し込み、磨き上げられた白い床に淡い輝きを落としている。
講堂内では私語を慎むよう促され、百名を超える新入生たちが整然とした足取りで、決められた席へ着いていく。
王族であるクラウスは、式典上の慣例に従い、案内役に促されて前方の席へ向かった。カイもまた、帝国からの留学生として、特別に用意された席へ案内されている。
「……さすがに、空気が張り詰めていますわね」
隣のカレンの囁きに、リディアも小さく頷いた。
やがて、重厚な鐘の音が三度鳴り響く。
学園長、バルトロメウス・フォン・ラウルが壇上に姿を現した。
「新入生諸君。ヴァルディアの未来を担う若き芽よ」
拡声魔法を使わずとも、その声は講堂の隅々まで凛と響き渡った。
「本校の校訓は、『学びはすべての者に開かれる』である。だが、勘違いしてはならぬ。諸君に与えられたのは、あくまで挑戦の権利のみだ」
講堂の空気が、さらに張り詰める。
「ここでは、家名も、血筋も、過去の栄光も、すべては結果の次に来る添え物に過ぎん。諸君を評価するものは、ただ一つ」
学園長の鋭い視線が、新入生たちの上をゆっくりと渡っていく。
「ヴァルディアを支える力として、どれだけ磨かれたか。その一点のみである」
それは祝辞というより、冷徹な宣告だった。
(……ええ、覚えているわ。この厳しい言葉に、前の私は縮み上がったのよね)
「礼を。これより、ヴァルディア王立魔法学園、第百七十二期入学式を執り行う」
号令とともに、生徒たちが一斉に起立する。
深紺の制服が静かに揃い、講堂全体に厳かな沈黙が満ちた。
式が進む中、リディアは前方の席に座る生徒たちを見ていた。
見覚えのある生徒、記憶に薄い生徒、そして……。
Bクラスの列の前方に、リディアはその姿を見つけた。
たんぽぽの綿毛のようにふわふわとした、薄桃がかった金髪。
小柄な身体をぴんと伸ばし、緊張した面持ちで学園長の言葉に耳を傾けている少女。
フィオナ・ヴァイス。
(……フィオナ様は、Bクラスなのね)
彼女とは、この広い講堂の中で、まだ視線すら交わっていない。
前の時間軸では、学園で出会ってから少しずつリディアの中で何かが狂っていった。
嫉妬、焦り、孤立。
そして、取り返しのつかない過ち。
けれど今のリディアは、あの頃とは違う。
彼女を傷つけない。
近づきすぎず、必要以上に関わらない。
絶対に前と同じ過ちは繰り返さない。
リディアはしっかりと前を見据えた。




