第32話 先生の最後の授業
今日は、マグダレーナから魔法を教わる最後の日だった。
王都のタウンハウスに広がる庭園では、青々とした新芽が太陽の光にきらめき、小鳥たちの楽しげな鳴き声が響いていた。
屋敷の裏手にある小さな演習場で、リディアは練習用の仮の杖を握りしめていた。
これまで何度も手にしてきた杖だ。けれど今日は、いつもより少しだけ重く感じる。
(落ち着いて。いつも通りにやれば大丈夫よ)
リディアは心の中でそう言い聞かせ、ゆっくりと息を吸った。
目の前には、マグダレーナが立っている。
灰色の髪をきっちりとまとめ、濃紺の上品な装いに身を包んだ姿は、今日も凛として美しい。けれど瞳は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「では、リディア様。これまで教えた基本魔法を、順に見せてくださいませ」
「はい、マグダレーナ先生」
リディアは背筋を伸ばし、杖を構えた。
まずは灯火の魔法。
杖の先に意識を集中させ、空中に小さな術式を描いていく。線が乱れないように、魔力を細く均一に流す。
「――小さき火よ、我が手に灯れ」
短い呪文とともに、杖の先に小さな火が灯った。
炎は大きすぎず、小さすぎず、ろうそくの火のように静かに揺れている。風に触れれば揺らぐ。けれど芯はぶれない。
(よし……)
リディアは小さく息を吐き、次の術式へ移る。
今度は水生成。
空気中の水分を集めるように魔力を広げ、手のひらほどの水球を作る。透明な水は一度、形を崩しかけたが、リディアは慌てずに魔力の流れを整えた。
水球は丸みを取り戻し、陽の光を受けてきらりと輝く。
「――水よ、集え」
水球は空中で静かに止まった。
最後は、物体浮遊。
足元に置かれていた小さな木箱へ意識を向ける。
リディアは術式を描き、呪文を口にする。木箱はかすかに震えたあと、ゆっくりと地面から浮き上がる。
膝の高さまで持ち上げ、少し横へ動かし、それから音を立てないよう慎重に地面へ下ろす。
木箱が、ことりとも鳴らずに着地した。
(できた……!)
いつもより少し時間はかかってしまった。緊張で、指先もほんの少し強張っていた。
けれど、魔力は乱れなかった。
リディアはほっとしながら、マグダレーナの方へ顔を向ける。
するとマグダレーナは、満面の笑みを浮かべて手を叩いた。
「リディア様、素晴らしいですわ」
ぱち、ぱち、と拍手が演習場に響く。
「冬の間も休まず、きちんと練習していたことが伝わってきます。自分専用の杖ではなく、仮の杖でここまで魔力を均一に流せる方は、そう多くありません」
「ありがとうございます……!」
リディアは思わず声を弾ませた。
マグダレーナはさらに目を細める。
「術式も美しかったです。形だけをなぞるのではなく、意味を理解して描けている。最初の頃より、ずっと線に迷いがなくなりましたわ」
その言葉に、リディアの胸がじんわりと熱くなる。
何度も失敗した。
線が歪み、火が消え、水球が弾け、木箱を勢いよく落としてしまったこともある。
そのたびに、マグダレーナはただ叱るのではなく、どこが乱れたのか、どう整えればいいのかを丁寧に教えてくれた。
その積み重ねを、先生はちゃんと見ていてくれたのだ。
「マグダレーナ先生」
リディアは杖を下ろし、姿勢を正した。
「先生に魔法を教えていただけて、本当に光栄でした。先生がいなければ、私は魔法をただ覚えるだけで、きちんと理解しようとは思えなかったかもしれません」
「リディア様……」
「何度失敗しても、先生は必ず、どこを直せばいいのかを教えてくださいました。貴重な知識を惜しみなく与えてくださり、本当にありがとうございました」
深く礼をすると、少しの沈黙が落ちた。
顔を上げると、マグダレーナはどこか眩しいものを見るような目で、リディアを見つめていた。
「それを受け止め、積み重ねたのは、リディア様ご自身ですわ」
静かな声だった。
「あなたの家庭教師を引き受けて、本当に良かった」
リディアの喉が、きゅっと詰まる。
マグダレーナは一歩近づき、やわらかく微笑んだ。
「リディア様。私は、あなたを誇りに思います」
「マグダレーナ先生……」
その瞬間、目頭が熱くなった。
こらえようとしたのに、視界が滲む。
マグダレーナは何も言わず、そっとリディアを抱きしめた。
家族以外から、こんなふうに抱きしめられたことはほとんどなかった。
いつも凛としていて、少し厳しくて、けれど誰よりも的確に導いてくれた先生の腕は、思っていたよりもずっと温かかった。
「よく頑張りましたね」
その一言で、リディアはとうとう泣いた。
「マグダレーナ先生……」
「ええ」
「私……先生の生徒で、本当に良かったです」
マグダレーナはリディアの背を、子どもをなだめるように優しく撫でた。
「これからもしっかり精進してください。あなたは、私の弟子ですからね」
リディアは涙に濡れたまま、それでもしっかりと頷いた。
「はい。胸を張って先生の弟子だと言えるよう、これからも頑張ります」
「期待していますわ」
マグダレーナは満足そうに微笑むと、ふと思い出したように小さな箱を取り出した。
「それから、リディア様。最後に、これを」
「これは……?」
差し出されたのは、手のひらに収まるほどの小さな箱だった。
リディアがそっと蓋を開けると、中には細い銀の指輪が入っていた。
爪の先ほどの透明な石が一つ、控えめに嵌め込まれている。宝石というより、澄んだ水をそのまま固めたような石だった。
華やかではない。
けれど内側には、髪の毛ほど細い魔術式が幾重にも刻まれている。
「綺麗……」
「精神干渉の魔法を感知する指輪ですわ」
リディアは驚いて顔を上げた。
「精神干渉……ですか?」
「ええ。暗示、魅了、感情誘導、記憶への干渉。そういった、人の心や判断に触れる魔法に反応すると、石が淡く光ります」
マグダレーナの声が、少しだけ真剣なものになる。
「ただし、防ぐ力はありません。魔法を解くことも、術者を見つけることもできません。あくまで、何かがあると知らせるだけの警告機です」
「痕跡にも反応するのですか?」
「ええ。強い干渉であれば、残された魔力の痕跡にも反応することがあります。ただし、反応が弱ければ見逃してしまうほどの光です。ですから、過信は禁物ですわ」
リディアは指輪を見つめた。
透明な石は、今は何の光も帯びていない。何の変哲もないきれいな指輪だった。
「学園では、多くの生徒が魔法を学びます。本来なら、そのような魔法が軽々しく使われることなどあってはなりません。けれど、知識も未熟さも、時には危うさを伴います」
マグダレーナはリディアの手を取り、静かに言った。
「右手の中指につけるとよろしいですわ。魔力を扱う手の中心に近い場所ですから、反応が安定します」
「はい」
リディアは言われた通り、右手の中指に指輪を通した。
細い銀の輪は、不思議なほど指に馴染んだ。透明な石が陽の光を受けて、ほんのわずかに澄んだ輝きを返す。
「ありがとうございます。大切にします、先生」
「石が光った時は、どうか違和感を見逃さないでくださいませ。小さな警告を軽く扱わないこと。それも、自分を守るために必要な力です」
「はい。覚えておきます」
リディアが深く頷くと、マグダレーナはようやく表情を和らげた。
「……とはいえ、何も起こらないのが一番ですわね」
「ふふ、そうですね」
しんみりした空気が、少しだけやわらぐ。
その時、マグダレーナがふと「あら」と小さく声を漏らした。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……そういえば私、ドロガン様たちに剣をお願いしているのでした」
マグダレーナは少し照れたように視線を逸らす。
「完成までには、またエルヴィン領へ伺うことになりますわね」
一瞬、二人の間に沈黙が落ちた。
それから、リディアは涙の跡を残したまま、思わず笑ってしまった。
「では、またすぐにお会いできますね」
「ええ。どうやら、涙のお別れには少し早かったようです」
マグダレーナも、どこか照れくさそうに微笑む。
その表情が珍しくて、リディアは胸の奥がふわりと温かくなるのを感じた。
最後の授業は、終わった。
けれど、学びが終わったわけではない。
マグダレーナから教わった基礎も、術式を丁寧に描く感覚も、失敗した時に立ち止まって考える姿勢も、これから先ずっとリディアの中に残り続ける。
リディアは右手の中指に嵌めた指輪をそっと見つめた。
透明な石は、静かに光を受けている。
学園へ向かう日は、少しずつ近づいていた。




