第30話 王子の婚約者
あの嵐の夜、十二歳に戻ってから、三年が経った。
リディアは、十五歳になった。
北のエルヴィン領では、庭の隅にまだ雪の名残があり、木々の枝先にも固い蕾が多かった。けれど王都へ近づくにつれ、景色は少しずつ春の色を帯びていく。
社交シーズンを迎えるため、エルヴィン家は王都のタウンハウスへと移っていた。
タウンハウスの庭では、すでに色とりどりの花が咲き始めている。淡い桃色の花びらが風に揺れ、若葉の緑が陽光を受けてきらきらと輝いていた。
(同じ春でも、王都はやはり華やかね)
窓の外を眺めながら、リディアは小さく息を吐いた。
学園への入学も、もう遠い先のことではない。王都の空気に触れるたび、その日が少しずつ近づいていることを実感する。
そんな日の夕食後のことだった。
「リディア。まだ正式な発表前だが、お前にも耳に入れておいた方がいいだろう」
食後の紅茶を飲み終えた頃、父アルヴィスが、いつになく改まった声で切り出した。
その声音に、リディアは自然と背筋を伸ばす。
「はい、お父様」
母エレノアも、兄アレクシスも、すでに何かを知っている様子だった。けれど、二人とも口を挟むことなく、静かにアルヴィスを見ている。
アルヴィスは一度、リディアの表情を確かめるように見つめてから、ゆっくりと言った。
「クラウス殿下と、ルグナス帝国の皇女殿下との婚約話が、ほぼまとまったそうだ」
「……クラウス殿下が、帝国の皇女殿下と」
言葉にした瞬間、胸の奥が、ほんの少しだけ揺れた。
前の時間軸では、自分が彼の婚約者だった。
(クラウス殿下が、別の方と……)
不思議な気持ちだった。
嫉妬はない。
けれど、まったく何も感じないわけでもなかった。
自分がかつて立っていた場所に、別の誰かが立つ。その事実は、リディアの胸に小さな寂しさを落とした。
けれど、それ以上に大きかったのは、安堵だった。
(本当に……前とは違う道を歩いているのね)
クラウスの隣にいるのが、自分ではない。
それは、前の時間軸と同じ未来へ進んでいない証のように思えた。
かつての自分なら、きっと息ができないほど動揺していただろう。怒り、悲しみ、焦り、どうして自分ではないのかと胸をかき乱されていたに違いない。
けれど今のリディアの胸にあるのは、激しい痛みではなかった。
静かな区切り。
そして、ようやく手放せたのだという、穏やかな感覚だった。
(……やっと、本当に。前の時間軸のクラウス様への想いと、訣別できた気がするわ)
リディアは、ゆっくりと顔を上げた。
「そうですか。……とても、良いご縁なのではないでしょうか」
そう答えると、アルヴィスは静かに娘を見つめた。
「驚かないのか?」
「少しは驚きました」
リディアは正直に頷く。
「けれど、クラウス殿下には、王国の未来を共に支えられるお相手が必要ですもの。帝国の皇女殿下であれば、国同士の結びつきとしても、大きな意味があるのでしょう」
「……そうだな」
アルヴィスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「それに」
リディアはそっと微笑んだ。
「私は、クラウス殿下の友人として、心よりお祝い申し上げたいですわ」
その言葉に、アルヴィスは何かを確かめるように、しばらくリディアを見つめていた。
やがて、ほんのわずかに目元を和らげる。
「そうか」
ただそれだけの言葉だった。
けれどそこには、父の安堵が滲んでいるように思えた。
「どうやら、お相手はカイ殿下の二つ上の姉君らしい」
「あら」
先に反応したのは、エレノアだった。
「では、クラウス殿下から見ても二つ年上の方なのですね。落ち着いた皇女殿下であれば、案外お似合いかもしれませんわ」
エレノアの声が、少し弾む。
するとアレクシスが、すかさず母へ視線を向けた。
「母上。まだ正式な発表前ですから、くれぐれも言いふらさないでくださいね」
「分かっているわよ。いくら私でも、そのくらいの分別はあります」
「そのお言葉、信じております」
「あら、失礼ね」
エレノアは軽く頬を膨らませたあと、ふと思い出したようにアレクシスへ視線を移した。
「そういえば、アレクシス。あなたもそろそろ、良いお嬢さんを見つけないといけないわね」
突然矛先を向けられ、アレクシスは紅茶を飲みかけた姿勢のまま固まった。
「……母上。今、その話になりますか」
「だって、クラウス殿下の婚約話を聞いたら、あなたのことも気になるではないの。外交院の方で、素敵な方はいらっしゃらないの?」
「私はまだ、仕事を覚えることで手一杯です。そんな余裕はありませんよ」
「では、私の方でお相手を考えてもいいのかしら?」
「それは困ります」
即答だった。
「自分で見つけますから、もう少しだけ待ってください」
「もう少し、ねえ」
エレノアが楽しそうに目を細める。
「その言い方だと、まるで心当たりがあるように聞こえるわ」
「残念ながら、ありませんよ」
アレクシスは大きなため息をついた。
「母上は、どうしてそうすぐに話を飛躍させるのですか」
「母ですもの。早くあなたのお相手に会いたいじゃない」
「理由になっていません」
親子のやり取りに、リディアは小さく笑った。
クラウスの婚約話を聞いた瞬間、胸の奥に落ちた小さな寂しさは、いつの間にか薄れていた。
代わりに広がっているのは、家族と囲む穏やかな食卓の温かさだった。
(クラウス様の婚約者であることに執着しなければ、こんなにも穏やかに過ごせたのね)
もちろん、クラウスが悪かったわけではない。
ただ、第一王子の婚約者になるには、自分の心があまりにも幼すぎたのだ。
王太子妃となる未来の重みも、隣に立つ責任も、何ひとつ理解していなかった。ただ、彼に愛されたいという気持ちだけで、その立場に縋りついていた。
(私は、恋愛にはあまり向いていないのかもしれないわね)
そんなことを考えて、リディアは内心で小さく苦笑した。
今はまだ、誰かに恋をしたいとは思えない。
学びたいことも、知りたいことも、やりたいことも、山のようにある。
(まあ、いずれ年頃になれば、私もお母様に急かされるのでしょうけれど。その時は……お母様に、穏やかで誠実な方を見繕っていただくのも悪くないかもしれないわ)
少なくとも今のリディアには、恋愛に心を揺らす余裕はなかった。
それを寂しいとは思わない。
むしろ、今はその穏やかさが心地よかった。
クラウスは、クラウスの未来へ進む。
リディアもまた、自分の未来へ進む。
それでいいのだと、心から思えた。
そして数日後。
王家から、クラウス第一王子とルグナス帝国皇女の婚約が、正式に発表されたのだった。




