第28話 山脈に住むグリフォン
学園への入学は、まだ少し先のことだった。
けれど、冬が明け、春が来て、王都での社交シーズンを迎えれば、時間はきっとあっという間に過ぎていく。
リディアはそのことを、少しずつ意識し始めていた。
エルヴィン領の冬は、まだ深い。
窓の外には白い雪が積もり、庭木の枝は重たげにしなっている。王都ではもう少し季節の移ろいが早いのかもしれないが、北の地では、春という言葉はまだ遠かった。
そんなある日の朝、朝食を終えたリディアに、父アルヴィスが穏やかな声で言った。
「リディア。学園へ入る前に、一度、見ておいた方がいいものがある」
「見ておいた方がいいもの、ですか?」
リディアが首を傾げると、アルヴィスは少しだけ楽しげに目を細めた。
「グリフォンだよ。エルヴィン家の紋章に刻まれている、あのグリフォンだ」
思わず、リディアは息をのんだ。
グリフォン。
鷲の頭と翼を持ち、獅子の身体を持つ魔獣。北の山脈に棲む、誇り高く気性の荒い存在だ。
エルヴィン公爵家の紋章には、古くからグリフォンが刻まれている。リディアもそれは当然のように知っていた。手紙の封蝋にも、屋敷の調度にも、式典で使う旗にも、その姿はある。
けれど、考えてみれば、リディアはまだ本物のグリフォンを見たことがなかった。
「危険ではありませんの?」
「もちろん、近づけば危険だ。だから遠くから見るだけだよ」
アルヴィスは落ち着いた声で答えた。
「北の山脈のふもとに、古い見張り小屋がある。天気のよい日なら、そこから稜線を飛ぶ姿が見えることがあるんだ」
「まだ雪が深いですが、今の時期がいいのですか?」
「グリフォンが稜線近くに姿を見せるのは、冬の晴れた日が多いからな。見に行くなら、今の時期が一番いいだろう。必ず見えるとは言えないが」
リディアは少し考え、それから小さく頷いた。
「行ってみたいです、お父様」
「では、明日の朝にしよう。天候も安定しているようだし、山番からも問題ないと報告が来ている」
アルヴィスは満足そうに微笑んだ。
「ただし、防寒はしっかりするように」
翌朝、リディアは厚手の外套に身を包み、手袋と毛皮の襟巻きまで整えて、屋敷の前に立っていた。
玄関先には、二頭の鹿に曳かれた大型のソリが用意されている。中には厚い毛皮が敷かれ、風を避けるための布覆いもつけられていた。御者台には、冬道に慣れた領兵が座っている。
エレノアは玄関先まで見送りに出てきて、リディアの襟元をそっと直した。
「無理はしないのよ。寒くなったら、すぐにお父様に言うのよ」
「はい、お母様」
「アルヴィス様も、あまり調子に乗って遠くまで行かないでくださいませ」
「私はそんなに信用がないのか」
「ええ。こういう時のあなたは、少年のようになりますもの」
エレノアがさらりと言うと、アルヴィスは少し困ったように笑った。
そのやり取りに、リディアも思わず小さく笑みをこぼす。
やがてソリがゆっくりと動き出した。
雪を踏み固めた道を、ソリは滑るように進んでいく。馬車とは違い、車輪が石に当たる音も、軋む音もない。ただ、雪を裂くような柔らかな音と、吐く息が白くほどける静けさだけがあった。
屋敷から離れるにつれ、景色は少しずつ変わっていく。
雪に埋もれた畑。煙突から細い煙を上げる民家。凍りついた小川。遠くには、白い霞をまとった森が続いている。
さらに進むと、北の山脈が近づいてきた。
空へ向かって連なる稜線は、雪をかぶって銀色に光っている。
リディアが北の山脈を間近で見るのは、初めてだった。
「北の山脈は、美しい場所ですね」
リディアが呟くと、隣に座るアルヴィスが頷いた。
「そうだな。だが、優しい場所ではない。冬は特にな」
アルヴィスの視線は、白く連なる山々へ向けられていた。
「雪崩も起きる。凶悪な魔物たちが餌を求めて、山裾まで下りてくることもある。だから昔から、見張り小屋を置いて、山の様子を確かめてきたんだ」
「領地を守るための場所なのですね」
「そうだ。けれど、あそこは昔から、グリフォンの姿を遠くに見ることができる場所でもある」
リディアはもう一度、山脈を見上げた。
前の人生の自分は、こうしたことを何も知ろうとしていなかった。
しばらく進むと、山裾の少し高くなった場所に、古い見張り小屋が見えてきた。
下半分は灰色の石で固められ、上部には黒ずんだ木材が使われている。屋根には厚く雪が積もり、煙突からは細い煙が上がっていた。
ソリが止まると、中から山番らしき男が出てきて、深く頭を下げた。
「公爵様、お待ちしておりました」
「変わりはないかい?」
「はい。本日は風も穏やかで、稜線もよく見えております」
「それはよかった」
アルヴィスは頷き、リディアに手を差し出した。
見張り小屋の中は、外から見た印象よりもずっと暖かかった。暖炉には火が入り、壁には周辺の山道を示す古い地図が掛けられている。棚には帳面が並び、窓際には遠くを見るための筒状の道具も置かれていた。
長く使われてきた場所なのだろう。床板には細かな傷があり、木の壁は煙で少し色づいている。けれど、どこも丁寧に手入れされていた。
リディアは窓の外を見た。
見張り小屋の窓からは、北の山脈がよく見える。
白く輝く稜線。そこから吹き下ろす風が、雪煙を細く巻き上げていた。
「すぐに見えるとは限らないぞ」
アルヴィスが言った。
「はい」
「相手は魔獣だ。いつ姿を見せるかは運次第だ」
そう言ってから、アルヴィスはふと思い出したように微笑んだ。
「歴代の公爵の中には、グリフォンの背に乗って空を飛んだ者もいたらしい」
リディアは驚いて父を見上げた。
「グリフォンに、乗ったのですか?」
「そう伝わっている。もっとも、今となっては半分伝説のような話だけれどな」
アルヴィスは肩をすくめるように笑った。
「少なくとも、今の私には無理だ。彼らは誇り高く、気難しい。人に飼われるような存在ではない」
「では、どうしてエルヴィン家の紋章に?」
「強いから、というだけではない」
アルヴィスは窓の外に視線を戻した。
「グリフォンは高く飛び、遠くを見渡す。獅子の勇ましさと、鷲の目を持つ存在だ。エルヴィン家が大切にしてきたもの――知ること、見極めること、そして必要な時には守ること。その象徴として、あの姿は刻まれている」
リディアは黙って、その言葉を聞いていた。
『知は翼なり、道を照らす』
エルヴィン家の家訓が、ふと胸の奥に浮かぶ。
知識は飾りではない。高く飛び、遠くを見るための翼。暗い道を照らし、自分と誰かを守るための光。
その意味を、リディアは今までよりも少しだけ深く感じた。
その時だった。
窓際に立っていた山番が、低い声で告げた。
「……公爵様。稜線の上です」
リディアは息を呑み、示された方角へ目を向けた。
白く霞む山の稜線。
その上を、ひとつの大きな影が横切った。
最初は、ただの鳥かと思った。けれど、違う。
広げた翼は、遠目にも大きい。雪空を切るように翼を打ち、山肌から舞い上がる風に乗って、悠然と旋回している。
鷲を思わせる頭。鋭く伸びた翼。獅子のようなしなやかな胴。
あれが、エルヴィン家の紋章に刻まれた魔獣。
グリフォン。
リディアは、言葉を失った。
遠くから見ても、威圧感があった。
近づきたいとは思えない。触れたいとも、従わせたいとも思えない。ただ、遠くから見上げるしかない存在だった。
人の都合など知らぬように、グリフォンは雪煙の上を飛んでいる。その姿は気高く、自由で、どこまでも遠かった。
「……すごい」
小さくこぼれた声は、自分でも驚くほど幼く聞こえた。
アルヴィスは何も言わず、隣で同じように山を見ていた。
やがてグリフォンは大きく翼を広げ、稜線の向こうへと消えていった。
それでも、リディアはしばらく目を離せなかった。
前の人生のリディアにとって、家紋はただの飾りだった。
公爵令嬢である自分を示す、美しい印。エルヴィン公爵家の家紋を見れば、並の貴族は自然と態度を改める。
けれど今、雪空を翔けるその姿を見て、リディアはようやく思い知った。
あれは、この北の地で生き、知を求め、遠くを見据えてきたエルヴィン家の象徴なのだ。
「リディア」
名を呼ばれ、リディアは父を見上げた。
「学園へ行けば、お前はエルヴィン公爵家の人間として見られることになる。この家が何を大切にしてきたのかを理解していれば、自然とエルヴィン家の者らしく振る舞えるだろう」
アルヴィスの声は、いつも通り穏やかだった。
リディアはもう一度、グリフォンが消えた稜線を見つめた。
「わたくしも、あの翼に恥じないように学びます」
そう答えると、アルヴィスは嬉しそうに目を細めた。
「ああ。それでこそ、私の娘だ」
帰りのソリの中で、リディアはあまり話さなかった。
寒さのせいではない。胸の奥に、言葉にしきれないものが灯っていたからだ。
雪原は相変わらず白く、森は静かで、遠くの山脈は冷たい光を帯びている。
けれど、来た時とは少しだけ違って見えた。
ただ厳しいだけの土地ではない。
ただ美しいだけの冬でもない。
ここは、エルヴィン家が守ってきた場所なのだ。
屋敷へ戻ると、玄関先でエレノアが待っていた。
「グリフォンは見えたの?」
リディアは外套についた雪を払いながら微笑んだ。
「ええ。とても、気高い姿でした」
それ以上は、すぐには言葉にできなかった。
けれどエレノアは優しく微笑んで、リディアの冷えた手を包み込んだ。
その夜、リディアは自室の机に向かい、今日見たものを忘れないよう、日記帳を開いた。
雪原の静けさ。
古い見張り小屋の暖炉の匂い。
そして、白い稜線の上を翔けた大きな翼。
書き留める言葉を探しているうちに、リディアの視線は机の端へ向いた。
そこには、エルヴィン家の紋章が刻まれた小さな栞が置かれている。
リディアはそれをそっと手に取り、日記帳の今日の頁へ挟んだ。
雪原の向こうに見た、あの大きな翼を思い出す。
高く飛び、遠くを見渡すもの。
そして、知によって道を照らすもの。
リディアは、ゆっくりと日記帳を閉じた。
春は、まだ遠い。
学園へ向かう日も、まだ先のことだ。
けれどリディアの胸の中には、その日へ向かうための小さな灯が、確かにともっていた。




