第26話 秋祭りの温もり
エルヴィン領の秋は、王都よりもずっと早く深まっていく。
山々の木々は赤や黄に色づき、朝晩の空気には、冬の気配を思わせる冷たさが混じり始めていた。
けれど、そんな季節だからこそ、領地はいつもより少しだけ賑やかになる。
まもなく、恵神祭が開かれるのだ。
収穫への感謝と、これから訪れる長い冬を無事に越せるよう祈る、エルヴィン領にとって大切な秋の祭りである。
屋敷の厨房も、数日前から慌ただしかった。
保存食の仕込み、祭りで振る舞う料理の準備、領民へ配る焼き菓子の試作。
甘い香りと香ばしい匂いが、廊下までふんわりと漂っている。
その日、リディアはエマとともに厨房へ向かっていた。
「お嬢様、今年もクッキーを焼かれるのですか?」
「ええ。せっかくだもの。今年は少し、種類を増やしてみたいの」
恵神祭で焼き菓子を配るのは、リディアにとっていつの間にか恒例になっていた。
最初は、領地のために自分ができることを何かしたい、という小さな思いつきだった。
昨年も同じように菓子を配ったせいか、今年は厨房の者たちも当たり前のように準備を進めてくれている。
そのことが、少しくすぐったくて、嬉しかった。
その日の午後、厨房にはいくつかの荷がまとめて運び込まれていた。
恵神祭に合わせて届いた、祝いの品や返礼の品である。
「お嬢様、ちょうどよいところへ。先ほど、エーデル侯爵家から果物が届きました」
「カレン様から?」
リディアが箱を覗き込むと、そこには赤く色づいた林檎や、丸みを帯びた洋梨、紫がかった小さな果実がぎっしりと詰められていた。
箱の上には、丁寧な筆跡の手紙が添えられている。
リディアが封を開くと、そこにはカレンらしい明るい言葉が並んでいた。
『リディア様へ。
今年も恵神祭のご準備でお忙しい頃かと思い、領地で採れた果物をお送りします。
晶蜂蜜と合わせたら、きっと素敵なお菓子になると思いますわ。
どうか、エルヴィン領の皆様で楽しんでくださいませ』
読み終えたリディアは、思わず頬を緩めた。
「カレン様らしいわ。こんなにたくさん……」
「まあ、立派な果物ですね。焼き菓子にも、蜂蜜煮にも使えそうです」
エマも嬉しそうに箱を覗き込む。
その隣で料理長が腕を組み、すでに頭の中で献立を組み立てているらしく、真剣な顔で頷いていた。
「晶蜂蜜で煮た果物を、薄く焼いた生地に包むのもよさそうですな。あとは、刻んでクッキーに混ぜ込んでもよいでしょう」
「では、子どもたちに配る分は、果物入りにしましょう。甘くて食べやすい方が喜ばれるもの」
リディアがそう言うと、料理長はすぐに使用人へ指示を出した。
そのとき、厨房の入口から別の使用人が顔を出した。
「お嬢様、もうひとつ荷が届いております。アイゼン家からです」
「トビアス様から?」
運び込まれた箱を開けると、今度は乾燥させたハーブが丁寧に束ねられて入っていた。
すっきりとした香りのもの、甘くやわらかな香りのもの、指先で触れるだけで爽やかな香りが立つもの。
それぞれに小さな札がつけられており、菓子に向くもの、肉料理に向くもの、蜂蜜湯に合うものが分かりやすく書かれている。
添えられた手紙には、トビアスらしい落ち着いた筆跡が並んでいた。
『恵神祭では、リディア嬢が毎年クッキーを焼いて配っていると言っていたね。
よければ、今年はハーブを少し混ぜてみてはどうだろう。
香りが強いものもあるから、使いすぎには気をつけて。
君なら、きっと上手に使ってくれると思う』
最後の一文に、リディアは少しだけ目を留めた。
君なら、きっと上手に使ってくれる。
胸の奥が、ふわりと温かく、少しだけくすぐったい気持ちになった。
「ハーブ入りのクッキー……大人向けに少し作ってみてもよさそうね」
「蜂蜜湯に入れても、香りがよくなりそうです」
「ええ。寒い日に身体が温まるものにしたいわ」
リディアが頷いたところで、さらに大きな木箱が運び込まれてきた。
厨房の者たちが思わず顔を見合わせる。
「今度はどちらからです?」
「ルグナス帝国のカイ殿下からだそうです」
「カイ殿下から……?」
リディアは驚きながら、箱の中を覗き込んだ。
そこには、王国ではあまり見かけない食材がいくつも詰められていた。
甘くほろ苦い香りを放つ南方柑橘の砂糖漬け。
指先で砕くと、温かな香りが立ちのぼる薄茶色の香辛料。
薄い殻に包まれた、香ばしい木の実。
どれも、エルヴィン領ではまず手に入らない珍しい品ばかりだ。
手紙には、カイらしい軽やかな言葉が記されていた。
『先日融通してもらった晶蜂蜜への礼だ。
王国の菓子には詳しくないが、帝国の南方では、こうした食材を焼き菓子や温かい飲み物に使う。
甘いだけではなく、少し香りに癖がある。
帝国おすすめの品だ。ぜひ皆で食べて欲しい。』
リディアは手紙を読み終えると、箱の中の食材を改めて見つめた。
カレンの果物。
トビアスのハーブ。
カイの珍しい帝国食材。
そして、エルヴィン領で採れた晶蜂蜜。
それぞれ別の場所から届いたものが、今年の恵神祭の菓子になる。
(嬉しいけれど、いただきっぱなしにはできないわね。後でお母様に、返礼のことを相談しましょう)
そう思うと、ただの準備の時間まで、少し特別なものに感じられた。
「料理長。いくつか試作してみましょう」
「もちろんでございます。これは腕が鳴りますな」
それから厨房では、試作が始まった。
刻んだ林檎と晶蜂蜜を混ぜ込んだ、甘いクッキー。
トビアスが送ってくれた香りの穏やかなハーブを少しだけ加えた、すっきりとした後味のクッキー。
南方柑橘の砂糖漬けと木の実を混ぜ込んだ、少し大人向けの香ばしい焼き菓子。
香辛料を入れすぎた一枚は、あまりに香りが強くなってしまい、エマが困ったように眉を下げた。
「これは……少し、薬湯のようです」
「本当ね。これは配るには難しいわ」
リディアが苦笑すると、料理長も真面目な顔で頷いた。
「香辛料はほんの少しでよさそうですな。帝国の方々は、これをもっと大胆に使われるのでしょうか」
「おもしろいわね。いろいろな味が楽しめて旅で各地を訪れている気分」
そう言うと、エマがくすりと笑った。
厨房に、穏やかな笑い声が広がる。
その日の夕方。
試作品を皿に並べていると、アルヴィスが厨房に顔を出した。
「ずいぶん甘い香りがするね」
「お父様。ちょうど試作ができたところです」
「リディアが厨房にいると聞いてね。こちらへ来たんだが……どうやら、良いタイミングだったようだ」
アルヴィスはそう言って、果物入りのクッキーをひとつ手に取った。
ひと口食べると、満足そうに目を細める。
「うん。晶蜂蜜の香りがいいね。これは領民たちも喜ぶだろう」
「そうだと嬉しいです。それで、私に話とはなんですか?」
「そうだった。晶蜂蜜の件でひとつ報告がある」
アルヴィスは皿に視線を落としたまま、穏やかに言った。
「クリスタルスティングの養蜂担当者だが、無事に決まったよ」
「本当ですか?」
「ああ。募集を出したところ、元騎士や元冒険者が何人か名乗り出てくれてね。年齢や古傷を理由に前線を退いた者たちだが、魔物を相手にした経験は豊富だ。騎士団長にも面接を任せたが、皆、慎重で責任感のある者たちだったそうだ」
リディアは、ほっと息をついた。
クリスタルスティングは、扱いを間違えれば危険な魔物である。
だからこそ、ただ人手があればいいというものではなかった。
魔物の怖さを知り、油断せず、けれど必要以上に恐れすぎない者が必要だった。
「よかった……。これで、晶蜂蜜を少しずつ安定して扱えるようになりますね」
「晶蜂蜜の効能にも、ずいぶん興味を持っていたらしい。現場で身体を酷使してきた者ほど、この蜂蜜の価値が分かるのだろうね」
アルヴィスの言葉に、リディアは小さく頷いた。
晶蜂蜜が、ただ珍しいだけの特産品ではなくなっていく。
領地の仕事になり、冬の暮らしを支えるものになり、誰かの役に立つものになっていく。
そのことが、胸の奥に静かに染み込んでいった。
そして、恵神祭の当日。
エルヴィン領の広場は、朝から賑わっていた。
色づいた木の枝には小さな飾り布が結ばれ、広場の中央には収穫物を捧げる台が置かれている。
屋台には、温かなスープ、焼いた肉、木の実入りのパン、蜂蜜を塗った焼き菓子が並んでいた。
冷たい秋風の中、人々の頬は少し赤く染まり、あちこちから楽しげな声が上がっている。
リディアが用意した晶蜂蜜のクッキーと蜂蜜湯も、広場の一角で振る舞われた。
「今年のクッキーは、果物が入ってる!」
「こっちは少し香りがするぞ」
「蜂蜜湯、身体がぽかぽかするね」
子どもたちが嬉しそうに菓子を手にし、大人たちは蜂蜜湯を飲んでほっと息をつく。
最初は恐る恐る口にしていた者も、すぐに表情を緩めていった。
「晶蜂蜜って、普通の蜂蜜より後味がすっきりしているんですね」
「冬の朝に飲めたら助かりそうだ」
そんな声が聞こえるたびに、リディアの胸は少しずつ温かくなった。
広場の向こうでは、ドロガンたちドワーフの姿もあった。
ドロガンは大きな杯を片手に、顔を赤くして豪快に笑っている。
「はっはっは! 王都のかしこまった宴より、こっちの祭りのほうがよほど性に合うわ!」
隣ではグレンが無言で頷き、トールンは焼き菓子を両手に持って、幸せそうに頬張っていた。
エルヴィン領の職人たちも、すっかり打ち解けた様子でドワーフたちと杯を掲げている。
「親方、こっちの肉も食べてくださいよ」
「おう、遠慮なくいただくぞ!」
「トールン、食べすぎるとあとで動けなくなるぞ」
「まだ入ります!」
そんなやり取りに、周囲の領民たちが笑う。
少し前まで、ドワーフたちはエルヴィン領にとって珍しい客人だった。
けれど今では、祭りの輪の中で笑い、食べ、領民たちと同じ空気を吸っている。
その光景を見て、リディアは静かに胸に手を当てた。
カレンが送ってくれた果物。
トビアスが選んでくれたハーブ。
カイから届いた帝国の食材。
ドワーフたちがこの領地で築き始めた新しい仕事。
そして、エルヴィン領で採れた晶蜂蜜。
それらが混ざり合って、今年の恵神祭の温もりになっている。
最初はただ、領地のために自分ができることをしたいと思っていた。
前へ進みたい一心で、古文書を読み、知らなかったものを調べ、できることをひとつずつ積み重ねてきた。
そのすべてが大きな成果だったわけではない。失敗もあったし、迷うこともあった。
けれど今、領民たちの笑顔を見ていると、少しだけ思える。
自分の加護も、知識も、選んできた小さな行動もこの領地のために、ちゃんと役に立てたのかもしれない。
そう思えたことが、リディアには嬉しかった。
「お嬢様」
声をかけられて振り向くと、小さな女の子が両手でクッキーを抱えていた。
「今年のクッキー、とってもおいしいです」
「ありがとう。気に入ってくれた?」
「はい! 来年もありますか?」
まっすぐな瞳で尋ねられ、リディアは思わず笑みをこぼした。
「ええ。来年も、きっと」
女の子は嬉しそうに頷くと、母親のもとへ駆けていった。
その背中を見送りながら、リディアは広場を見渡した。
夕暮れが近づき、広場には少しずつ灯りがともり始めている。
秋の冷たい風に、蜂蜜湯の甘い香りと、焼き菓子の香ばしい匂いが混じって流れていく。
その光の中で、リディアはふと思った。
自分はもう、この祭りを遠くから眺めるだけの公爵令嬢ではないのかもしれない。
少しずつ、少しずつ。
このエルヴィン領の恵神祭の一部になれている。
そう思うと、不思議と胸を張れた。
広場から、また大きな笑い声が上がる。
リディアはその温かな賑わいの中で、小さく微笑んだ。
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