第22話 隣国の皇子の視察
夏の熱気が少しずつ和らぎ始めた王都の一角。
高く澄んだ空の下、王立研究塔の白い外壁が陽光を受けて静かに輝いていた。
今日は、隣国であるルグナス帝国からの使節団を迎えての視察日だった。
国家機密級の魔法理論や遺跡研究を扱うこの場所に、帝国の皇族が足を踏み入れる。
ルグナス帝国は、大陸最大級の版図を誇る軍事国家である。
リディアは父アルヴィスとともに、王立研究塔の入り口で賓客の到着を待っていた。
その隣には、兄アレクシスの姿もある。
ただし今日は、エルヴィン公爵家の長男としてではなく、外交院の若手官吏として、帝国使節団の視察対応に加わっていた。
隣に立つ父が、真面目な表情で息子と娘へ視線を向ける。
「わかっていると思うが、失礼のないように気をつけるんだぞ。相手は帝国の皇子だ」
「はい、お父様。心得ておりますわ」
リディアは静かに頷き、ドレスの裾を整えた。
「昨夜の晩餐会で、私と外交院の者は先にお会いした。アレクシスも同席していたな」
「はい。カイ殿下は気さくに振る舞われていましたが、帝国側の意図まではまだ読めません」
アレクシスが、外交院の官吏らしい落ち着いた声で答える。
「そういうことだ。今日も昨日と同じ顔を見せるとは限らんからな」
前の時間軸でも、おそらく同じ時期に視察は行われていたのだろう。
けれど、当時のリディアがここに参加することはなかった。
(あの頃の私は、わがまま放題だったものね……)
当時のリディアは、帝国の皇子に対して失礼な態度を取りかねない、あるいは外交問題を起こしかねないと判断され、屋敷に留め置かれていたのだ。
(他国の皇族と直接お会いするのは初めてだわ。一体、どんな方なのかしら)
遠くで木々の葉がさらりと鳴り、季節がゆっくり移り変わっていく気配を感じさせる。
緊張と好奇心が入り混じる中、やがて重厚な音を立てて豪華な馬車が止まった。
馬車から数人の護衛が降りてきた後、ひときわ軽やかで、迷いのない足取りの少年が降りてきた。年齢に似合わぬ長身が目を引く。
漆黒の長い髪を後ろで緩く一本にまとめた少年は、すらりと背が高く、どこか洗練された空気をまとっていた。
身に着けているのは、ヴァルディア王国ではあまり見かけない、体に沿うように仕立てられた濃紺の短い上着。
その整った顔立ちは、王国の王子であるクラウスやルーカスにも引けを取らないほど美しい。
「こちら、ルグナス帝国第五皇子のカイ・ルシアン殿下です」
従者がはっきりとした通る声でカイを紹介する。
「やあやあ、皆様! 本日は急な願いを聞き入れてくれてありがとう。どうぞよろしく」
華やかな雰囲気をまとう皇子だった。
身構えていた研究員たちは、そのあまりにフレンドリーな挨拶に呆気に取られている。
「……あ、そんなに畏まらなくて大丈夫だよ。俺は第五皇子で、継承権も遠い身だからね。今日は気楽に、勉強に来たと思ってもらえればいい」
カイはそう言って笑うと、窮屈そうに襟元を少し緩めた。
屈託のない、陽だまりのような笑顔を周囲に振りまいている。
リディアもカイの予想外のフランクさには戸惑った。
(……いいえ、騙されてはダメ。第五皇子がわざわざ視察に来るなんて、怪しいわ)
リディアは内心で強く警戒しながらも、公爵令嬢として完璧な、淑女の微笑みを返した。
まずは父アルヴィスが研究塔の責任者として挨拶を述べ、続いて外交院の担当者が帝国側へ正式な歓迎の言葉を伝えた。
アレクシスはその補佐として控え、視察の進行予定と必要な書面を、帝国側の従者と手早く確認していく。
それからアルヴィスは、あらためてリディアを紹介した。
「娘のリディアです。カイ殿下とは同い年ですので、話が合うかと思い同行させました」
「お初にお目にかかります。エルヴィン公爵家の娘、リディア・エルヴィンにございます」
リディアが丁寧なカーテシーを捧げると、カイは「へえ、同い年か! よろしくね、リディア嬢」と気さくに右手を振った。
視察が始まり、塔の責任者であるアルヴィスが、内部の高度な魔法陣について説明を始める。
専門用語が飛び交う難解な理論が並び、随行員たちが必死にメモを取る中、カイは終始にこにこと相槌を打っていた。
「いやぁ、素晴らしいですね! 自分は難しいことはよく分かりませんが、とっても勉強になりました!」
カイは大げさなくらい感心した様子で、アルヴィスの説明に頷いた。
その絶妙なお世辞に、父も悪い気はしないようで、次第に説明に熱がこもっていった。
アレクシスは穏やかな表情のまま、その言葉を記録係へ目配せしていた。
皇子の発言が本心か、あるいは意図的な謙遜か。
外交の場では、何気ない一言でさえ記録に残す価値がある。
(……本当に分かっていないのかしら?)
リディアは一歩下がった位置から、カイの挙動をじっと観察していた。
彼は終始ニコニコしながら視察を続けている。
一見、何も考えていない能天気な少年に見える。
しかし、解説が複雑な場面になると、彼の瞳に一瞬だけ真剣な光が宿り、思考を巡らせているのが分かった。
さらに、末端の研究員にもフレンドリーに挨拶を交わすなど、周囲への配慮も欠かさない。
(なんだか、掴みどころのない方ね……。何を考えているのか、真意がまったく読めないわ)
隙のない「完璧な皇子」よりも、こうして軽薄さと真摯さが混在している人物の方が、リディアにとってはよほど油断ならない相手に思えた。
その時、カイの右腕に巻かれた、銀色の奇妙な腕輪のような道具がリディアの目に留まった。
(……あれは、本で見たことがある帝国製の魔道具では?)
リディアの知的好奇心に、ぱっと火がついた。
前の人生でも、帝国の技術力には目を見張るものがあったが、実物をこれほど間近で見る機会はなかったのだ。
「殿下、失礼ですが……その右手に付けていらっしゃるのは、魔力の流動を安定させる『集束機』ではありませんか?」
思わず声をかけると、カイは意外そうに目を丸くして立ち止まった。
「おっ、リディア嬢、詳しいね! これ、気になっちゃう?」
「はい、ぜひ近くで拝見してもよろしいでしょうか」
リディアが期待に満ちた瞳で見つめると、カイは「いいよー」とあっさりと腕輪を外して差し出した。
リディアは思わず淑女としての体裁も忘れ、夢中で観察を始めた。
「……なるほど。魔石を複数設置して、術式も細かく役割が分担されているのね。それでいてこの小型化……ぶつぶつ……」
「あはは! リディア嬢、それ分解しそうな勢いだね。実はそれ、俺が自分で組んだものなんだ」
その言葉にリディアははっと我に返り、慌てて姿勢を正した。
「も、申し訳ありません。つい夢中になってしまって……。それより殿下、これをお作りになったのですか?」
リディアは驚愕して顔を上げた。
これほど緻密な計算と術式構成が必要な道具を自作するなど、並大抵の技術ではない。
軽やかな笑みの奥に、一瞬だけ、研究者めいた熱が垣間見えた。
「そんなに気に入ってくれたなら、あげるよ。リディア嬢なら、もっと上手く使いこなせそうだし」
その場にいた帝国の護衛が、わずかに眉を動かして互いに目配せした。
アルヴィスも一瞬だけ目を細める。
他国の王子から公爵令嬢への贈り物。
軽い言葉で済ませられるほど、単純な話ではない。
けれどカイは、そんな空気さえ見越していたように、にこりと笑った。
「もちろん、正式な贈答品として扱ってもらって構わないよ。後でうちの従者から書面も出させるから」
その言葉に、アレクシスが一歩前へ出た。
「恐れながら、殿下。その場合は、外交院を通して正式な受領記録を残させていただきます」
「もちろん。そうしてくれると助かるよ」
カイは軽く笑って頷いた。
アレクシスが静かに父へ視線を向ける。
アルヴィスは一瞬考えるように目を伏せたあと、リディアへ小さく頷いた。
リディアは恐縮しつつも、その精巧な造りへの興味に抗えず、それを両手で大切に受け取った。
「なんだか詳しそうだけど、リディア嬢も魔道具を作っているの?」
「半年ほど前に、クリスタルスティングという蜂型の魔物から蜂蜜を採取するための魔道具を、初めて作りましたの。家庭教師の先生にアドバイスをいただきながらですが」
「蜂型の魔物から蜂蜜? へえ、面白いな。ぜひ詳しく聞かせてくれよ」
気づけば二人は周囲の視線も忘れ、クリスタルスティングの養蜂システムについて熱心に語り合っていた。
その様子を、カイの護衛たちが温かい眼差しで見守っている。
彼らの表情には、ただ任務として仕えているだけではない、確かな信頼が滲んでいた。
それに気づいたのか、アレクシスの表情もわずかに和らいだ。
警戒を解いたわけではない。けれど、カイという人物への見方を、少しだけ改めたようだった。
父アルヴィスもまた、腕を組んだまま静かに二人を眺め、ほんのわずかに目を細めていた。
視察の最後、リディアはエルヴィン領特製の蜂蜜を添えた紅茶を、カイに振る舞った。
黄金色の蜂蜜が溶け込んだ紅茶を、カイが一口含む。
その瞬間、カイは目を見開いた。
「…………これは、すごい。想像以上だ」
カイはいつになく興奮した様子で、カップを見つめて呟いた。
「リディア嬢、この蜂蜜、俺にも売ってくれない?」
「困りましたわ。まだ生産が安定しておりませんので、今は領内での取り扱いに限っておりますの。……けれど殿下には、特別に優先してご案内できるかもしれませんわ」
リディアが茶目っ気たっぷりに微笑むと、カイは楽しげにニヤリと笑った。
「あはは、やった! 楽しみにしてるよ」
別れ際、視察を終えたカイは馬車に乗り込む直前、リディアにだけ聞こえる距離で囁いた。
「リディア嬢。君の国の魔法は面白いけど、君自身はもっと面白い」
不意の言葉に耳を疑う。
「……また、君に会うのを楽しみにしているよ」
リディアが驚いて目を見開く間に、カイを乗せた馬車は軽快な音を立てて走り去っていった。
手元に残された、少し温かい銀色の魔道具。
リディアはそれを握りしめ、遠ざかる馬車を静かに見送った。
(カイ・ルシアン……。油断ならない相手だけど、不思議と嫌な感じはしないわね)
新たな出会いが、リディアの運命に新たな風を吹き込んだ。




