第21話 刺繍とチェリーパイ
夏の陽射しが、王都の石畳を白く照らしていた。
吹き抜ける風には熱が混じっていたが、屋敷の中へ入れば、厚い石壁のおかげで、外の暑さは少しだけ遠のいて感じられる。
そんな午後、王都のエルヴィン家のタウンハウスに、一通の手紙が届いた。
差出人は、カレン・エーデル。
丁寧な筆跡で綴られていたのは、王都にあるエーデル侯爵家のタウンハウスで開かれる、小さなお茶会への招待だった。
(カレン様のお屋敷へのお誘いをいただけるなんて……)
リディアは封蝋をそっと撫でながら、小さく目を細めた。
手紙には、冬から少しずつ進めていた刺繍がようやく形になったこと。ぜひリディアに見てもらいたいこと。そして、よければ一緒にゆっくりお茶を楽しみたいことが書かれていた。
以前から、彼女が大きな刺繍に取り組んでいるという話は聞いていた。
「お嬢様、嬉しそうですね」
そばで控えていたエマが、にこにこと微笑む。
「ええ、とても嬉しいわ」
リディアは少しだけ頬を緩めた。
誰かの家に招かれることも、自分に見せたいものがあると手紙をもらうことも、前世のリディアにはなかったものだ。
カレンはリディアを、ただ公爵令嬢としてではなく、友人として招いてくれている。
そのことが、胸の奥をほのかに温めていた。
「では、返事を書かなくてはね」
「はい。便箋をお持ちします」
エマが軽やかに部屋を出ていく。
リディアはもう一度、カレンの手紙へ視線を落とした。
(カレン様の大作、楽しみだわ)
そう思うと、自然と口元に笑みが浮かんだ。
数日後。
リディアは淡い水色の夏用ドレスに身を包み、エーデル侯爵家のタウンハウスへ向かった。
馬車が停まったのは、王都の一角にある優美な邸宅の前だった。
白い壁には蔓薔薇が這い、門扉にはエーデル侯爵家の家紋である白鹿が刻まれている。
深緑の地に立つ白鹿。
(カレン様のお家らしい家紋ね)
優美で、静かで、それでいて決して弱くはない。
リディアがそんなことを思っていると、屋敷の扉が開き、使用人が恭しく頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました、リディア・エルヴィン様」
「お招きいただき、ありがとうございます」
案内された先は、庭に面したサンルームだった。
大きな硝子窓から夏の日差しが差し込んでいる。けれど、薄いレースのカーテンが光をやわらかく受け止め、室内は明るいのに眩しすぎない。
庭では噴水の水が涼やかな音を立てていた。
その中央に、カレンが立っていた。
今日のカレンは、淡い若草色のドレスを身につけている。普段の凛とした雰囲気はそのままに、やわらかな色合いが彼女の表情を少しだけ穏やかに見せていた。
「リディア様。お越しくださってありがとうございます」
「こちらこそ、お招きありがとうございます。カレン様」
互いに礼を交わしたあと、カレンは少しだけそわそわした様子で視線を横へ向けた。
サンルームの奥。
そこには、大きな布が丁寧に掛けられていた。
「もしかして、あちらが?」
「ええ。冬から少しずつ進めていたものです。……あまり期待しないで見てくださいね」
カレンは照れたように視線を伏せる。
「カレン様の大作を見るのを、冬から楽しみにしておりましたのよ?」
「ふふ、冬から気にかけてくれていたんですね」
「ええ、もちろんですわ。ずっとソワソワしておりましたの」
リディアの返しに、カレンは小さく笑った。
そして、覆っていた薄布をそっと外す。
現れたのは、大きなタペストリーだった。
生成りの上質な布地に、四季の花々が巡るように刺されている。
春の小花、夏の薔薇、秋の実をつけた蔓、冬の銀葉と雪の結晶。
派手すぎない色糸でありながら、それぞれの季節が確かな存在感を持って布の上に咲いていた。
そして中央には、銀糸で縫い取られた白鹿が立っている。
すらりと伸びた角は、月光を受けた枝のように繊細で、周囲の花々に静かに守られているようだった。
可憐でありながら、凛としている。
まるでカレン自身の姿を映したような刺繍だった。
「……素晴らしいですわ」
リディアは思わず息を呑んだ。
「近づいてみてもよろしいでしょうか?」
「ええ、少しお恥ずかしいですが」
近づいて見ると、一針一針の細かさがよく分かる。花弁の重なりも、鹿の毛並みの柔らかさまでもが、糸の流れだけで表現されていた。
「これを、お一人で全て縫われたのですか?」
「ええ。母や先生に図案の相談はしましたけれど、針を入れたのは私です」
カレンは恥ずかしそうにはにかんだ。
「冬の間、少しずつ進めていたのです。途中で何度も、もう終わらないのではないかと思いましたわ」
「これほどのものですもの。時間がかかるのは当然です」
「完成させたときは、長い旅を終えたような清々しさがありました」
真面目な顔でそう言うカレンに、リディアは小さく笑う。
「カレン様でも、そのように思われるのですね」
「思いますわ。刺繍は、一針間違えたくらいではすぐには分かりません。でも、最後に全てが積み重なって見えてしまうのです。そこが、少し怖くて……でも、面白いのです」
その言葉に、リディアはもう一度タペストリーを見つめた。
積み重ねが、最後に形になる。
(……本当に、カレン様らしいわ)
「この白鹿、とても素敵です。静かなのに、強さを感じますわ」
「ありがとうございます。エーデル家の家紋ですから、いつか自分の手で刺してみたかったのです」
「きっと、ご家族もお喜びになったでしょう」
「母は、少し大げさなくらい褒めてくださいました」
カレンは困ったように微笑む。
その表情に、リディアの胸もほんのり温かくなった。
「リディア様、今日はもしよろしければ……一緒に刺繍をしていただけませんか?」
カレンが小箱を開けると、中には真っ白なハンカチが二枚、丁寧に畳まれていた。
「お揃いのハンカチですの?」
「ええ。せっかくなら、お互いの誕生月の花を刺すのはいかがでしょう」
「まあ、素敵ですわね」
「リディア様は春のお生まれでしたわよね。淡い藤色のスイートピーを用意してみました」
カレンは小さな図案を見せてくれた。
細い茎に、蝶の羽のように軽やかな花弁が重なるスイートピー。淡い藤色の糸が添えられていて、見るだけで優しい気持ちになる。
「とても綺麗……」
「私は夏なので、白百合にしました」
もう一枚の図案には、すっと伸びた白百合が描かれている。
清らかで、凛としていて、カレンによく似合う花だった。
「では、私はカレン様の白百合を刺しますわ」
「それなら、私はリディア様のスイートピーを刺します」
自然にそう言い合ってから、二人は顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく笑みがこぼれる。
テーブルには糸と針、刺繍枠が並べられた。
リディアはカレンに教わりながら、ハンカチの隅へ慎重に針を入れる。
白百合の花弁は、見た目よりもずっと難しかった。白い糸だけでは平坦になってしまうため、淡い銀糸やごく薄い緑の糸を重ねていく。
「……これは、思っていたより難しいですわね」
「でしょう?」
カレンが少し得意げに微笑む。
「白い花は、白い糸だけでは咲いてくれませんの」
「奥が深いのですね」
「リディア様のスイートピーも難しいですわ。花びらが軽やかなので、糸を重く見せないようにするのが」
カレンはそう言いながら、淡い藤色の糸を針に通した。
その集中した横顔には、やはりカレンらしい真剣さがあった。
二人の話題は、近況へと自然に移っていった。
カレンが家庭教師に魔法を習っているがなかなか上達しないこと、来年に迫る魔法学園の入学のこと、もうすぐ隣国の第五皇子が王国へ視察に来られること——そんな話を、刺繍の手を動かしながら、とりとめなく交わした。
ふと思い出したように、リディアが口を開いた。
「ミスリルの件ですが、進展がありまして、ドワーフの職人の方々がエルヴィン領に三ヶ月間来てくれることとなりましたの」
「え! ドワーフの方がですか? それはすごいですね」
カレンが目を輝かせる。
「ミスリルの髪飾りにも憧れますが、やはりミスリルの剣を振るってみたいですね」
「さすが、カレン様ですわ」
髪飾りと剣を同列に並べて語るのは、彼女くらいなのではないだろうか。
リディアはそう思いながら、思わず微笑んだ。
やがて、使用人がワゴンを押してやって来た。
ふわりと広がったのは、甘酸っぱい果実と、香ばしい焼き菓子の香り。
「チェリーパイです。母が毎年この季節になると、厨房に用意させるのですわ。エーデル領の南側にある果樹園で採れたチェリーを使っているのです」
テーブルに置かれたパイは、焼き色も美しく、表面の編み目から艶やかな赤い果実が覗いていた。
切り分けられると、中からとろりとしたチェリーのフィリングが顔を出す。甘いだけではなく、きゅっとした酸味を感じさせる香りが、夏の午後によく合っていた。
「とても良い香りですわ」
「お口に合うと良いのですが」
カレンが少しだけ緊張したように言う。
リディアはフォークを手に取り、ひと口分を丁寧に切り分けた。
さくり、と軽い音がする。
口に運ぶと、香ばしいパイ生地の中から、甘酸っぱいチェリーの味が広がった。バターの香りは濃厚なのに、果実の酸味のおかげで重くない。
「……とても美味しいですわ」
思わず、声が弾んだ。
カレンの表情がぱっと明るくなる。
「本当ですか?」
「ええ。甘いだけではなくて、少し酸味があるから、夏でも重くありませんのね。パイ生地も軽くて……いくらでも食べられそうです」
「よかった。母にも伝えますわ。きっと喜びます」
カレンはほっとしたように微笑んだ。
美味しいものを一緒に食べて、その美味しさを言葉にする。
それだけのことが、こんなにも穏やかで、満ち足りた時間になるのだと、リディアは改めて感じていた。
お茶は、ほんのり花の香りがする紅茶だった。
チェリーパイの甘酸っぱさとよく合い、口の中に残る果実の余韻をやさしく包み込んでくれる。
しばらく二人は、刺繍の手を休めながら、お茶とパイを楽しんだ。
カレンは、自分が初めて刺繍をした時に糸を絡ませてしまった話をした。
リディアは、以前エマに簡単な繕い物を教わろうとして、針を指に刺してしまった話をした。
そのたびに、二人は小さく笑った。
気づけば、緊張も遠慮も少しずつほどけていた。
パイを食べ終えたあと、二人は再び刺繍枠を手に取った。
ハンカチの隅には、それぞれの花が少しずつ形になっている。
リディアの刺した白百合は、まだ少し線が固い。けれど、カレンのために丁寧に針を進めたことだけは、自分でも分かった。
カレンの刺したスイートピーは、淡い藤色の花弁がふわりと揺れるように咲いていた。
「……完成、でしょうか」
リディアが最後の糸を裏で留め、そっと息を吐く。
カレンも同じように針を置いた。
「ええ。こちらもできましたわ」
二人はハンカチをそっと広げた。
真っ白な布の隅に、白百合とスイートピーが咲いている。
大作のタペストリーに比べれば、本当に小さな刺繍だった。
けれど、リディアには、その小さな花が特別なものに見えた。
「少し、不揃いになってしまいましたわ」
リディアが苦笑すると、カレンは首を横に振った。
「いいえ。リディア様が私のために刺してくださったものですもの。私にとっては、どんな名工の刺繍より嬉しいですわ」
「カレン様……」
「私の方こそ、リディア様のスイートピーを、もう少し軽やかに刺せたらよかったのですけれど」
「とても綺麗です。花びらが、本当に風に揺れているみたい」
リディアがそう言うと、カレンは照れたように目を伏せた。
それから、二人は互いのハンカチを交換した。
カレンの手から渡されたハンカチには、淡い藤色のスイートピーが咲いている。
リディアはそれを両手で受け取り、しばらくそっと見つめた。
自分のために誰かが縫ってくれた花。
そう思うだけで、胸の奥がほのかに温かくなる。
「ありがとうございます。大切にしますわ」
「私も、大切にします」
カレンも白百合の刺繍が入ったハンカチを、宝物のように見つめていた。
しばらくして、カレンが少し改まったように顔を上げる。
「リディア様」
「はい」
「これからも、仲良くしていただけますか?」
その問いは、とても素直だった。
貴族令嬢としての飾った言葉ではなく、友人としての言葉だった。
リディアは一瞬だけ、息を止めた。
前の人生で、こんなふうに誰かと向かい合ったことがあっただろうか。
相手のために針を進め、同じお菓子を美味しいと笑い、これからもよろしくと願われるような時間が。
リディアは、淡い藤色のスイートピーが咲いたハンカチをそっと握る。
「もちろんですわ、カレン様。こちらこそ、これからもよろしくお願いいたします」
カレンは少しだけ目を細め、照れたように視線を落とした。
帰りの馬車で、リディアは手の中のハンカチを見つめた。
淡い藤色のスイートピー。
それを見るたび、心の奥が静かに温かくなる。
この穏やかな夏の午後を、リディアは大切な思い出として心に刻むのだった。




